霧の中を、歩いている。
(ああ、いつもの夢)
頭の隅でぼんやり思う、それすら既視感のうちだ。
けれども、記憶にあるそれよりも目の前の霧はいっそう濃い。目をこすってもまばたいても、耳をそばだてても、意味あるものは覆い隠されて、辺りの全てが曖昧模糊としている。視界を押し潰して重く垂れ込める乳白色の世界に、胃の底が少しだけちりっとした。
柔らかく首を絞められるような感覚は、ただ不快だ。いきなり死んだりはしないけれど、身体は確実に脅かされている。慌てて振り払うほどの危機感を覚えない代わり、ひっきりなしに剣呑な気配が沁みてくる。けれども、明確な形を持たないから切り捨ててしまえない。
鈍い犯意と、どうにもできない苛立ちに身を浸しながら、正面と思われる方向へと歩いてゆく。なぜだか、振り返って後ろを向こうという気にはなれなかった。どうせ来た道も消失しているだろうという諦念か、己の非を認めたくないせいか、あるいは両方かもしれない。なぜなら、気づくと自分はいつも歩いている。それはきっと、己が望んでこの道を選んだ証しだ。
そこまで考えてから、思わず口許から笑みがこぼれた。
(バカだな)
そんな意地を張ったところで、誰も見ていやしないのに。
俺はいま、こんなにもひとりなのに。
ふいと強い顰笑が腹からこみ上げた。けれど、声を上げて笑ったら止まらなくなりそうな気がして、喉の奥に押しとどめ、代わりに走った。頭の中がからっぽになるように。
ここにあるのは、ただ、穢れひとつない白。すべてを覆い隠すまったき白。
だったらいっそこの白を思うさま吸い込んで、腹に淀んだ薄暗いわだかまりも、嗤いも、ひとつ残らず漂白されてしまえばいい。
息が上がって苦しくなっても、なお、走った。目的があるわけでも、目指す土地があるわけでもないのに。そうするうちに、今度は止まれなくなった。足を止めたら、もう二度と動けなくなるような気がして。
(もっと、早く)
ただ両足を交互に動かすことに躍起になった。
(間違ってない)
前に進みたかったはずだ。
だって俺は前に向かって、確実に、歩いていたはずだ。
(これで、間違ってない)
だけど──
『逃げたいのか?』
出し抜けにどこからか声が聞こえ、ぎょっとして思わず足が止まった。
「────!!」
だが、その場に踏みとどまろうと突っ張った右足は、地面を踏めなかった。
道が、途切れていた。
(崖だ)
だが、間に合わない。
がくり、と身体が傾いて投げ出され、視界がぶれる。
そのとき、目の端にちらりと黒い影が見えた。一面の白い世界に、ただ、一点。
まるで、シミのような。
(あれは)
知っている。
どこの誰だか、よく知っている。見えないけれどわかっている。
(だって俺は、あれを目指して歩いてた)
なのに、
「あれ、だれだっけ……?」
思わず問いかけた。
けれども、呟きにいらえは返らなかった。
***
「俺だけどー?」
呑気な声が降ってきた。
「おーい、大丈夫か? 大塚。見えてるか?」
目の前にひらひら、手のひらがかざされた。それをぼんやり見つめながら、ゆっくりみっつ数えた辺りでやっと「はなむら」という名前を思い出した。
「なあ、アイスとか食わね?」
花村陽介が俺を覗き込んで、そう言った。
「……うん」
「まだ寝ぼけてんなあ、ホラ」
頬にひやりと冷たいもの──カップアイスを押し付けられた。
「つめて……」
「いーからそろそろ起きろっつーの」
呆れた顔をして花村が肩をすくめ、俺の視界から消えると、その向こうには天井があった。
「えっと……俺、寝てた?」
「爆睡してらっしゃいました。そりゃもー気持ちよさそうに」
のろのろと起き上がると、恨みがましい視線と声が飛んできた。小さい座卓の上にはノートと教科書が散らばっている。
「……悪い」
「いいけどさ。頭ワリー俺が大塚センセーを暇にさせちゃったんで」
「すねるなよ」
「じゃあ寝ンなっての」
「だから、悪かったって」
苦笑しながらアイスとスプーンを受け取った。蓋を開けると、まだ冷凍庫から出したばかりなのか、カチコチに凍っていてスプーンが刺さらない。こそげ取るようにして少しずつ口に運ぶと、舌先にほんのり甘さが沁みて、徐々に脳が生き返ってくる。
(どれくらい寝てたんだ、俺)
夏休みの宿題を一緒に片付けようと誘われて、花村の家まで来ていた。けれど、解いた端からさっさと先に進もうとすると「抜け駆け禁止!」と言って花村が怒るので、そのたびに手を止め、ベッドに寄りかかってぼんやりしていたら適度なエアコンの冷気が心地良く──睡魔に逆らえなかった。
「つかおまえ、なんでいっつも眠そうなわけ?」
「いつもって、大げさだな」
「うち来るたんびに寝てんじゃん」
「そうだっけ?」
「こないだもそうだったろーが。一瞬でころっと寝ちまって。まったく、どこののび太だよ」
「んー……それは花村の家が居心地いいって話じゃない?」
とぼけてガリガリと固いアイスをひっかきつつ花村を見ると、彼は二、三度まばたいてから、大げさなため息と共に独りごちた。
「この、天然モテ男」
「なんだ? それ」
「なんでもねーよ。……それよか、なんの夢見てたんだよ」
「夢?」
首を傾げると、花村が目を丸くした。
「覚えてねーの? しゃべってたぞ?」
「……何を?」
「あんまハッキリ聞こえなかったけど、なんか、早く……どうとか。あと、おまえ座ったまま寝ぼけてひっくり返ったから、大丈夫か? って俺が聞いたら、まだ目つむったまんま、あれ誰だっけ? とか」
全然心当たりがなかったから、首を横に振った。
「マジかよ」
「けど、夢ってそういうもんじゃないか?」
「にしても、忘れんの早くね?」
「でもホントに覚えてないし」
スプーンを持つ手を止めて少し考えてみたけれど、やっぱり思い出せない。
「なら、いーけどさ」
ややあって、少しふてくされたふうに花村が呟いた。
「寝てる間、なんかしんどそうだったから、おまえ。スゲー汗かいてるし」
手許のアイスを見つめて、花村は顔を上げないまま続けた。
「その……なんかあんならたまには頼れよ。おまえがいくらスゲーやつだからってやっぱ悩みくらいあんだろーし……そりゃ別に、うちに寝に来るんでもいいけどさ。けど俺ら……事件は終わったって、仲間、なんだし」
「花村」
「あんまひとりで無理すんなよ」
俯いた顔は髪の毛で少し隠れていたけれど、なんだかとても恥ずかしそうで、思わず小さく吹き出してしまった。
「くっさい科白」
「ち、茶化すなよっ。気ぃ遣ってんだろっ!」
案の定、顔を上げた花村は頬が真っ赤だった。
「うん、仲間だもんな」
にっこり笑って言うと、花村はいっそう上気して、耳の先まで赤く染めた。
「おま……っ、ひとが真剣に……っ!」
「わかってるって。怒るなよ、花村はいいやつだって褒めてるのに」
「くっそ……なんなんだよその余裕はっ!」
「ないよ、余裕なんて」
苦笑して、俺はアイスにスプーンを立てた。柔らかくなったアイスをくるりとめくるようにすくい取って口へ運ぶと、冷たさと甘さが舌の上で一気に広がって痺れた。
(ホントに、……全然ない)
花村の気持ちは嬉しいけれど、本当のことは言えない。
(家じゃ、ろくに眠れないなんて)
そんなこと絶対に、誰にも、言えない。