ふと気づけば教室はしんと静まりかえり、窓から射し込む赤い斜光にいくつもの黒い影が細く長く床を這って、細かな幾何学的模様を描き出していた。
(なにやってんだ、俺……帰ろ)
立ちあがった弾みに重苦しいため息が零れ出た。かぶりを振って、教室の角に下がっている時計を見た。
この時間、きっとジュネスは仕事帰りの客と主婦でごった返して一番忙しいはずだ。これから帰っていまさらのこのこ出勤しても大した助けにはならないだろう。
「バッカみてえ」
どっちを向いても役に立たない自分がいて、うんざりする。さして中身の入っていないメッセンジャーバッグを引っ掴んで教室を出た。
廊下には誰もいなかった。階段を下り教室棟の一階まで来て足を止めると、部活動らしき気配がうっすら伝わってくる。
八十神高校は良くも悪くも片田舎の学校で、生徒が少ない。部活の数も多くはなく、やれ大会だ優勝だ、というムードは欠片もない。入部する方も他に娯楽がないから暇つぶし、馴れ合い程度のもので、およそのんびりしている。大したことをしているわけじゃない。
(……くそっ)
そう頭ではわかっているのに、まだ、苛々する。
俺は肩にぶら下げたヘッドフォンを引き上げた。世界中の音を一切遮断したくてプレイボタンを押すと、自慢のポータブルプレイヤーは命令通りに、お気に入りのクラブミュージックを再生し始める。
アップテンポの小気味いい音が鼓膜を叩き始めた。
これはよく、テレビの中で戦いながら聞いた曲だ──シャッフル。
次も──スキップ。
「ちっくしょ……っ!」
下駄箱の前まで来て、思わず力任せにガツンと蹴り上げた。
なにをしても──耳を塞いでも目を瞑っても、どうしても、ダメだ。ひとつのことしか考えられなくて頭に血が上る。
固く握りしめた指を解いて、錆びた冷たい下駄箱の上段をそっと撫でた。正確には上から三段目、一番左端。誰かが貼ったステッカーが、剥がしきれずに汚くこびりついている。
(なあ。おまえにとって、俺って、なに?)
正面からそう聞いたらきっと、親友だろ、と笑ってくれると思う。
大塚は、器用だから。俺が一番望む答えをすくい取って。
(じゃあ一条は? ……俺と一条だったら、どっちが?)
バカだ、と即座に頭の隅で自分の声がする。そんなこと比べたって意味がない。大塚にとっては俺も一条も友だちのはずだ(さすがに友だちであることを疑ったりはしない。それはいくらなんでも卑屈すぎる)。
それとも俺は「花村が一番大事だよ」とでも言ってほしいのだろうか。
あんな浅ましい夢まで見て。
(……けど、やっぱずりぃよ、大塚)
俺の火照った手のひらを押し付けると、鉄でできた下駄箱の扉がやんわりぬるくなってゆく。
(だって俺は……他に比べるもんなんか、ねーのに)
会ったときから目が放せなくて逸らせなくて、一緒に居れば楽しくて息苦しくて、本当は誰よりも側にいたいからときどき本気で怖くなる。
そんなの、いま俺の世界にはたったひとりしかいない。比べることのできる人間なんていない。
もちろん天城も里中も、完二も、いまではとても大切な仲間でかけがえのない友だちだ。なにかあったら全力で駆けつけるし、身体を張って守ろうと思う。いままでもずっとそうしてきたし、これからも変わらない。みんなで力を合わせ、いまは不可解な殺人事件も必ず解決して笑い合いたい。
だけどそう思う一方で、絶対に誰も大塚の代わりにはなれないと確信している自分もいる。
自分の中で順番を決めるということは、優先する人間と後回しにする人間を作ることだ。
(じゃあ俺は……いざってときに大塚のためなら仲間全部見捨てられるってことなのか?)
そしていまの俺は、大塚に一番だと言ってもらいたがっている。
全部見捨てて、後回しにして、俺だけにしろと腹の底で願っている。
(バカ、そんなん……怖えーだろ)
背中を曲げて、靴箱に額を押し付けた。少しでものぼせきった頭が冷やしたかった。
(ちがう、そんなわけない。そんなこと思ってない。いくらなんでも考えすぎだ。飛躍しすぎ。……こんなん、頭おかしい)
落ち着け、落ち着け、と必死で自分に言い聞かせた。
だいたい大塚は林間学校のときの悪ふざけなんてもうとっくに忘れているに違いないし、一条のことにしたって大した意味はないはずだ。こんなにちゃんとわかっているのに、どうしてこんなバカみたいにひとりで、いつまでも──いまさら大塚のことで、こんなに頭の中がかき乱されてぐちゃぐちゃになるのだろう。どうして、
「────!」
いきなり、横合いから腕を掴まれた。
ぎょっとして顔を上げると、すかさずもうひとつ腕が伸びてきてヘッドホンをもぎ取られ、そのまま肩口を強く掴まれた。
「どうした花村、大丈夫か? 具合悪い?」
あんまり突然のことにビックリしすぎて、俺は思わず掴まれた腕を力いっぱい振りほどき、後じさった。弾みで肩ががつんと下駄箱にぶつかる。衝撃と痛みよりこれ以上後ろへ下がれないことに怖じけて、俺は無意識に両腕で自分の身体を抱いた。
(──大塚)
いつもの鞄とスポーツバッグを手に、大塚が静かな目でじっとこちらを見ている。
(こんなタイミング、どんな冗談だよ……っ)
なんでおまえがこんなところに、と口を開きかけ、もう部活も終わる時間なのだと遅れて気がついた。そうだ。教室を出たとき、空はもうとっくに赤く染まっていた。大塚がここにいても全然おかしくない。
むしろ、これではまるで自分の方がわざと居残っていたみたいだ。
大塚に、会いたくて。
(バカ、そんでどうすんだよ……まさかマジで聞くのか? 俺と一条と、どっちって)
自分でもわかるくらい頬が熱くなった。大塚に顔を見られたくなくて、俺は目を逸らして俯いた。
(ありえねえだろ)
なのに、なおも大塚の視線はそのまま、俺のこめかみを焦がすように勁く見据えたまま動かない。
「辛いなら保健室行く?」
ややあってから、気遣わしげな音色で問われた。
「口利くのが辛いなら無理しなくていい。少しでいいから頭だけ振って、教えて」
何気ない言葉の端々になぜだかほのかな甘みを感じて、とたん、強烈な目眩がした。
(なんだ、これ)
ひそりとした、声。
「動けないなら肩かすよ。……花村?」
(俺の耳が、ヘン、なのか? ていうか脳みそが?)
動揺しているうちに大塚が一歩前に踏み出して来て、体育館履きのつま先が視界に映りこむ。怖くなってもう一度後じさった。
このまま大塚の声を聞いているのも、彼の手が触れてくるのも怖い。どう考えてもいま自分が普通じゃないから。優しく触れられたりしたら、自分がそのあとどうなるのか想像がつかない。
(ちがう)
想像がつくから怖い。おかしな声を出して、すがりつきそうで。
あの、夢みたいに。
「────っ!」
堪えきれなくなって、俺は勢いよく大塚に背を向けた。
「花村!?」
返事なんて、できるわけがない。ましてや振り返って大塚の顔色を確認するなんて、それこそ恐ろしくてできない。目を瞑ってひと息に地面を蹴り、俺は昇降口を飛び出した。そのまま校門から真っ直ぐの道を全速力でひた走る。
息が上がるのは、走っているせいだ。それ以外に理由なんてない。
(ちがう)
誤魔化したい。弾む息も、身体の中で暴れている熱も、全部走っているせいにしてその辺にまとめて捨てて、なかったことにしてしまいたい。
あんなことがしたいわけじゃない。
(でも──だったら)
俺があいつの特別になる方法は、いったいどこにあるんだろう?
「……っ、は……っ」
坂の下で交わる道へ飛び降りるように一気に駆けつけ、勢いが殺せずにそのまま走り続けて、二つ目の角の辺りでようやく止まることができた。同時に、どっと汗が溢れてきてYシャツが素肌に張り付く。
「気持ちわり……」
上半身を起こしていられなくなって、前屈みに膝へ手のひらをついた。そこで初めて、ガクガクと身体が小刻みに震えていることに気づいた。
(落ち着け……落ち着けって、静まれよ心臓!)
けれど祈るような想いとは裏腹に、頭の中はめまぐるしく、これからどうしよう、という言葉が出口を見つけられずにグルグルと回っている。
(どうもこうも、ねーよ。……謝りゃいーじゃん。なんかちょっと具合悪かったみたいでごめんなって)
それくらい言えばたぶん許してくれる。なにも明日まで待たなくていい。今晩中にメールでもすればそれで全部オシマイにできる、はずだ。大塚は優しいから、全部許してくれるに決まってる。あとは、俺がよけいなことを全部忘れればいいだけ。そうしたら明日からまた、親友をやり直せる──きっと。
「痛……っ」
限界まで酷使した心臓が、ずきりと疼いた。
とうとう立っているのも辛くなって、俺は道ばたにしゃがみ込んだ。
(バカじゃねーの、俺)
できるだけ目立たないように隅っこへ小さく縮こまって、頭を抱えて蹲る。
胸が痛い。自分が、心底情けなくて。
(俺……なんだかんだ、いっつもそーやってあいつのことあてにしてる)
これじゃ相棒なんて、ありえない。こんなことで、大塚に認めて貰えるはずがない。ましてや一番にしてくれなんて口が裂けても言えない。
言えないし、言わない。絶対に。
ぎゅっと奥歯を噛みしめ、俺は心臓を奮い立たせて立ちあがった。胸を押さえながら何度か深呼吸する。まだ少し心臓が軋んでいたけれど、これくらいなら立っていられる。こんなところで座っていても仕方がない。みっともないだけだ。
足許を見ると、夕日を受けて影が長く濃く、俺の先へと伸びている。
(……俺の、影だ)
目を逸らしていた心と向き合うことで俺の影──ペルソナはジライヤに変わった。ジライヤは俺に戦う力をくれて、前へ進めると教えてくれた。
(だったら、きっとあいつはまだここにいる)
目を背けたら、逃げ出したら、今度こそ俺のことを絡め取ってやろうと胸の奥で待ち構えている。
日が傾き、影は、どんどん伸びていく。町のあちこちに広がっていく。木の陰、ブロック塀の脇、路地の隅、電柱の根元、どこにでもひそんでいて連なって、背中から覆い被さってくる。
背筋に沿ってさあっと怖気が走った。
俺は早鐘を打つ胸を押さえたまま、足早に家を目指して必死に歩いた。早く明るい家の中に飛び込んでしまいたかった。夜の稲羽は暗い。いまの自分は小さくて、心弱くなりすぎていて、簡単に闇へ呑み込まれてしまいそうで怖い。
息を継ぐのも忘れ脇目もふらず歩くと、ほどなくジュネスの煌々とした明かりが見えてきて少しだけほっとする。裏の道をまっすぐに突っ切れば、家はもうすぐそこだ。ほっとして強ばった身体から少しだけ力が抜けた。
──と、家の輪郭がわかるところまで来て、気づいた。
門扉の前に誰か、立っていた。
俺がふと足を止めると、正面からコンクリートを踏む微かな音がした。
「おかえり」
よく、知っている声だった。