連日続いていた雨のカーテンは久々に引かれ、ため息のように小さな雲間から太陽がほろりと顔を覗かせた。
雨に項垂れていたのがまるで嘘のように、葉や草も生き生きとして風に揺れていた。葉の淵を彩る水の粒は真新しい光と風を受けて、まるで真珠の首飾りが綻ぶようにきらめきながらこぼれ落ちてゆく。
教室の窓から吹き込む風はまだ水気を多めに含んでいたけれど、四隅に淀んでいた湿気を散らすには充分な清々しさだ。
「はぁ……」
なのに、俺だけが相も変わらず重苦しい曇天。
授業が終わり、三々五々に散っていくクラスメイトたちをぼんやりと眺めながら、俺は机にへばりついたまま腹の底からため息を絞り出した。
どいつもこいつも悩みなんかこれっぽっちもなさそうで楽しそうで、空は青くて雲は白くてお天道さまはきらきらで、心の底からげんなりする。
そう、俺の心は曇天どころか、大荒れの嵐だ。
(なんでこんなことになってんだよ……)
うう、と短く唸って頭を抱えていると、
「どうした? 花村」
急に、声が頭の上から降ってきた。
「──え、うごッ!」
飛び上がるように机から上半身を起こしたら、脳天に鈍痛が突き抜けて目の前に火花が散った。
「ぅわ……つ、いってえ……!」
同時に、頭の上からも押し殺した声が聞こえた。
「モロに顎、来た」
涙に潤んだ目で見あげると、大塚和臣が目をしばたたかせながら顎をさすっていた。
「や、え、あ……ワ、ワリ、大塚」
「鼻血出そう」
「は!? はな……ちょ、──待て待てっ! ティッシュティッシュ!」
慌ててあたふたと制服のポケットを探ったが見つからない。鞄をひっくり返そうと引っつかんだところで、くすくすと忍び笑う声に気づいた。顔を上げると、大塚が顎をさすりながら口許を覆って、肩を震わせていた。
「お、大塚……?」
「いや、ごめん。そんな必死で探さなくていい。大丈夫。……いまので引っ込んだ」
大塚がもう一度小さく吹き出す。動転した姿を笑われたのだとようやくわかって、頬の内側から熱がぶわりと吹き出した。
「ちょ、おま……あのなっ!」
「ごめんごめん」
そう言って朗らかに笑う彼からは、確かに鼻血を吹く姿など想像できない。けれど彼とて人間なのだし、可能性はゼロではなく──だが、いまそんなことが起きたらたぶんクラス中の女子から袋だたきに遭う。自分がぶつかったせいで「出るかも」などと言われたら誰でも死に物狂いでティッシュを探す……はずだ。
(だから俺がおかしいわけじゃねー………………はず、だよな?)
この春から転校生として現れた男──大塚和臣は、わずか二ヶ月ほどでクラスに馴染んでしまったばかりか、いまや狭い稲羽ではちょっとした有名人だ。眉目秀麗、文武両道という輝かしいステータス。都会からやってきた、という触れ込みに違わぬ大人びた物腰。一見物静かでクールにも見えるが、しかし話せば誰にも気さくで自然な気配りを見せる。目立つのにどこか控えめで、極めて異質な雰囲気なのに集団から弾かれない。この絶妙なバランス感覚は天性のものだろう。女子に騒がれない方がおかしい。かといって男子にやっかまれているのも見たことがない、気がする。
(つまり、男から見てもかっこいい男、ってことで)
だから、俺は間違ってない。
断じて間違ってない。
大塚はかっこいい。
誰が見てもつけいる隙なんてこれっぽっちもないほど、いい男なのだ。
相棒、なんて気安く呼んでみたりするけれど、実際はちっとも釣り合っていないことくらい自分が一番よく知っている。目の前で易々と何でも乗り越えていく大塚はあまりにも完成しすぎていて、頭に思い描く理想そのものをすくい取ったみたいに見えるからときどき地味に凹む。
最初は「俺と同じだ」と思っていた。
同性で同い年、都会で生まれてこんな辺鄙へ田舎に来る羽目になった──彼ならこのどうしようもない鬱屈を分かってくれて、きっと頷いてくれるに違いないと思った。こんなつまらない土地、こんなつまらない毎日、やってらんねえよな、と。
なのに、全然そうじゃなかった。
大塚は大した抵抗もないふうで、周りからもすんなり受け入れられて、あっという間に稲羽での毎日をうまく乗りこなしてしまった。
──不公平だ。
考えるよりも心臓が先に、ごとりと震えた。震えは骨を伝って響き、背骨を伝って神経を辿り、脳みその隅っこを焦がした。
こいつと俺のどこが違うんだ、と。
裏切られたという気さえした。
降って湧いた拗けた気持ちは腹にどす黒く重く凝り、それはそしらぬフリで彼に笑いかけるほど嵩を増した。右も左もわからない彼に声を掛け、稲羽を案内してやり、あれこれ知ったふうに教えてやって礼を言われれば多少の溜飲は下がったけれど、その程度で自分を騙していられる時間は長くなく、かえって情けない気分が増した。
下手に近づいたりしなければよかったのだ。声をかけたりしなければ。否、気づいた時点で少しずつ距離を取ればよかった。聡い彼のことだから、きっと空気を察して遠ざかっただろう。他に友だちなどいくらだって作れただろうから。
けれど──そうと分かっていたのに、どうしても自分の中から彼を閉め出すことができなかった。
(「花村」)
大塚がこちらを向いて、俺の姿をみとめて軽く手を上げる。
たったそれだけのことが、なぜだかとても、嬉しくて。
隣にいれば無意識に自分と比べてしまってしんどい。なのにしんどいのと同じぐらい、誇らしかった。誰にでも好かれて信頼される男が、いつも自分の隣にいてくれる。相棒、と呼べば視線を返して頷いてくれる。それはとても特別なかんじがして、自分が少しだけ、ほんの少しだけ、好きになれそうな気がした──。
なんて不格好なアンビバレンツ。
そうこうしているうちに殺人事件だのマヨナカテレビだの、ペルソナだのと、あれやこれやに巻き込まれてしまい、一緒に行動せざるを得なくなり、共に過ごす時間が増えるうちになんだかもう意地を張っている自分がだんだんバカバカしくなってきて、嫌いになり損ねてしまった……のだと思う。たぶん。
(……だってしょーがねーじゃん。こいつが、反則気味にかっこいいから)
テレビを通して異世界に行く、などという非現実が起きても、彼は変わらずヒーローだった。いくつものペルソナを自在に操って、幾多のシャドウを倒していく。その鮮やかな指先、勁い背中は、いまでもときおり見ほれてしまう。
それに引き替え自分はといえば、結局は腹の底のものをうまく消化できず、シャドウまで呼び出して一番みっともない姿を全部さらけ出した。さらにはこの間、いまさら解決しようのない恋の話を持ち出して、グズグズ泣いたりもした。挙げ句、優しく慰められたり……してしまった。
我に返ると落差に愕然とする。本当に情けなくて涙が出そうだ。
なのに、それでも大塚はいまでも同じ場所に立っていてくれて、少しも変わらない調子で、花村、と呼ぶ。
(なんでなんだろーな……)
自分なんかさっさと見限ってもよさそうなのに、どうして大塚はいつも許してくれて、一緒にいてくれるのだろう。
おまけに、あんな──いくら冗談だからって。
(「俺、花村ならイケるかも?」)
(なに言っちゃってんだよバカバカバカおまえのせいだよわっけのわかんねー夢まで見ちまってくっそ俺の純情返せバッカやろ……っ!)
いくらかぶりを振っても、あのときの声が耳にこびりついて、消えない。もう一ヶ月近く前の話なのに。
全然知らない声だった。柔らかいのはいつもと変わらないのに、妙に甘くて艶やかで、心臓がちりっとする音。
(「本気にした?」)
返す言葉が、未だに見つからない。
完二ならたぶんこんなとき、間髪入れずに「するわきゃねーだろッ!」とひと言叫んで暴れて、大塚も笑って、そこで終わる。なのに。
(これじゃ……俺の方がおかしいだろ……)
あれだけ散々完二をバカにしておきながら、大塚の冗談ひとつ、まともに流せないでいる。
おまけに、あんな夢まで見て。
(ちがうっつーの! 寝る直前に大塚があんなこと言うから、俺の可哀想な脳みそが整理整頓に大失敗しただけだっての!!)
あんな、……夢。
「花村? どうした?」
「──へ? うぉあっ!」
大塚が俺の顔を間近に覗き込んでいた。
あんまり驚いて思わず仰け反ったら、膝の裏へ椅子が当たって派手な音を立てた。その音に二度ビックリして、やわな心臓が変則的なリズムで勢いよく弾み出し、どうにも止まらなくなる。
(バカ! テンパリすぎだっつうの、俺! 完二じゃあるまいし!)
こわばっていると、大塚が気遣わしげな顔でわずかに首を傾げた。
「なにぼーっとしてるんだ? おまけに顔、真っ赤だけど。風邪?」
「ちっ、違う違う! ち、ちっちょっと、か、考え事……」
「そう? なんか熱ありそうな顔してる」
「ねえから!」
ナチュラルな仕草でこちらへ伸びてくる大塚の手のひらを躱せたのは奇跡に近かった。が、考えなしに後じさったせいで、ガタガタと俺の後ろにある机と椅子が一斉に床と擦れて列を乱した。
騒がしかった教室が、しんとなる。
さすがに驚いた顔で大塚が何度かまばたき、行き場を失った自分の手のひらをじっと見つめた。おまけに、居残っていたクラスメイトたちの視線が次々肌に突き当たった。痛い。
(ヤバ……俺、しくじってる)
けれど、もう遅い。
「……その、悪りぃ。マジで、なんでもねえから」
やっとのことでたったそれだけの声を絞り出して、俺は俯いた。ややあってから、そっか、と柔らかい声が少し上から優しい雨みたいに降りてきて、とたん俺の心臓がさっきとは違った音を立てた。細かい硝子をコンクリートに撒いたみたいな、見た目はきれいだけど、たぶん指で触れたらちくりとする。そんなかんじの。
「大塚、その……俺」
「おーい、おおつかー!」
いきなり俺のか細い声をかき消すように教室の扉が勢いよく開き、続けて明るい声がした。
「うぃーっす! ……ん? なんだ、どしたんだ?」
「あ、もう時間か」
そう言って、ふいと、大塚の視線が俺から逸れたのが頭越しにもわかった。
(──あ)
弾かれたように顔を上げると、扉の前には隣のクラス──二年一組の一条康がいた。一条は妙に静まりかえった教室に気づいて、居心地悪そうにきょろきょろしてから、大塚の姿を認めて嬉しそうに目を細めた。
「あ、いたいた。大塚、今日出られんだろ? 部活」
「ん、行く」
大塚は軽く頷き、手早く荷物を手にしてさっと俺の前を離れた。
「ちょっと話し込んでた。待たせてごめん、康」
とたん、俺の中で、明確に、ぎしりと軋む音がした。
──こう。
「ま、いーんだけどさ。まだホントは時間あるし」
「でも早く練習したいだろ?」
「へっへー。まあなー」
「バスケ、好きだな」
──すき
「おまえだってすきじゃん?」
──すきじゃん?
「まあね。けど康には負ける」
──こう
音が、途切れ途切れに次々と耳許へ放り込まれる。接触の悪いヘッドホンみたいに、雑音混じりで。鼓膜へダイレクトに、嫌な音が。
「バカ大塚、簡単に負けんなよー。勝たせないけどさ」
「わかったわかった」
緩い拳骨を胸元へぶつけてくる一条に、大塚が苦笑する。
それを、俺はまるで、テレビドラマかなにかのワンシーンみたいにただぼんやりと見ていた。
四角いフレームの、外側から。
(だから……なんだよ)
なぜこんなに動揺しているのかわからないまま、俺は思わずつま先の辺りへ視線を落とした。
(なんでだよ)
動揺、した。とても。自分を誤魔化す暇もないほどの早さで、ハッキリと。
いますごく、目の前の光景が嫌だった。
でも、チャンネルを切れたらいいのに切れない。
「ごめーん、ちょっと中入っていい?」
高い声のあと、小柄な人影が教室へひょっこりと飛び込んできた。
「あ、悪い里中。入り口塞いで」
「いーっていーって」
笑って里中は大塚を見あげてから、大きな目で音がしそうなほど大きくぱちりとまばたいた。
「わあ、やっぱ大塚くんって背ぇたっかいねー。横に並ぶとホントすっごいおっきい」
「そう? 里中がちっちゃいんだと思うよ」
「悪かったなあー」
むくれる里中に大塚が苦笑する。
「悪くない、悪くない。女の子は小さくてもいい。な? 康」
──まただ。
ぎしぎしする。いつもは心地良い大塚の声が、いまは全然聞きたくない。
「あっ、一条くんちーす! なーんだごめーん、後ろにいるから気づかなかったよー」
「え、あ、う、その……こんちわ……」
「あ! そっか。ふたりともこれから部活?」
「そう」
「いいなあ。ふたりともおっきいしバスケぴったりだよね」
「ありがと。──さてと。そろそろ行こう、康」
「へ……?」
「部活、行こうって。そろそろ時間」
「あ……ああ、おう、そうだ、そうそう部活、部活……っ!」
「じゃ、また明日な。里中」
「うん、バイバイ! ふたりともがんばれっ!」
大塚が里中に手を振り、一条の肩を叩き、ふたり連れ立って教室を出て行く。
「さーて、帰るかあ。……ん? ちょっと、なにやってんの花村っ」
フレームアウトするふたりの背中。ざわめきを取り戻す教室。
──単なるオーディエンスの俺。
「聞いてんの、花村ってば!」
「は……?」
「は? じゃないでしょ! かんじわるいなあ」
いつの間にか目の前まで来ていた里中が、機嫌悪そうにくちびるを尖らせた。
「あんたでしょ、後ろの机こんなグシャグシャにしたの。突っ立ってないでさっさと直しなよもー」
「ああ……」
そういえば、そうだった。
俺は適当に頷いて斜めになった机と、はじき飛ばされた椅子をのろのろと元に戻した。
「いいなー部活かあ。なんかいかにも、青春! ってかんじだよねー」
「部活くらい、入りたきゃなんか入ればいいだろ」
「あのね、うちに正式な女子の運動部がないことくらい知ってんでしょ。いまから頭数集めようにも、うちってそもそも田舎すぎて生徒の数少ないしさ。あーあ。男子だったらバスケ部入ったのに。人数少なくて大変みたいだし。にしてもさ、大塚くんと一条くんって仲いいよね。大塚くんが一条くんのこと下の名前で呼ぶんだって、あたしさっき初めて気づいたよ。あたしらのことはみんな名字で呼ぶのにね。ね、あんた知ってた?」
「……んなこと、どーでもいい」
耳に届いた自分の声は我ながらどうしようもなく暗くて、腹が立った。だが、里中は気にもしないふうで喋り続ける。
「んー今日これからどうしよっかなあ。雪子は旅館の手伝いだし。……そうだ、花村。あんたも暇でしょ?」
「決めつけんな」
「ね、肉奢ってよ。ジュネスのゴムっぽいステーキでいーからさ」
「だから勝手に決めんなっつの! つうか、ゴムとか言うな。肉ならなんでもいい肉魔人のくせに。だいたい俺はおまえみたいに暇じゃねーの。日々額に汗してコツコツ働いてんの。一緒にすんな」
言い放つと、里中が上目遣いに目をすがめて腕組みした。
「なにかっこつけてんの。ばっかじゃないの。なんだか知らないけど、さっきからカリカリしちゃって」
「んだよ、そんなんじゃねえよ」
少しムッとしたせいで乱暴な言い方になった。だが、里中はやはりこれっぽっちも気にしないふうで、大げさに肩をすくめて見せた。
「機嫌悪いの丸出し。男のくせにみっともなー。あーやだやだ」
言って、ひょいと自分の机の脇にある鞄を取った。
「……ひとがせっかく誘ってあげたのに。ちっさい男」
「ちっさ──おま、オイ!」
「じゃーね、忙しい花村くん。サヨーナラっ」
思いっきりあんかんべをして、里中は教室から出て行った。
「なんなんだよ……くそっ」
俺は自分の席にもう一度どっかと座って、突っ伏した。
(腹立つ……)
余計なことを言う里中も、いきなりやってきた一条も、振り返りもしないで出て行く大塚も──なにより、こんなことで苛々する自分に。
──コウ
(あいつが誰をなんて呼ぼうと関係ねーじゃん)
だけど大塚はいつだって優しいから。隣にいてくれるから。
(一番俺が好かれてるって……思ってた)
勝手に期待して、勝手に裏切られたような気分になって。これじゃ最初とちっとも変わっていない。
(つーか、もっとサイアクだろ? ……あんな夢まで見て)
ただの冗談、たかだか猥談の延長線で──まだ少し信じられないけれど──たぶん、浮かれていた。
(「俺、花村ならイケるかも?」)
気持ちのいい声で囁かれた。たったそれだけのことで、本気に、した。
身体ごと全部手に入るんじゃないか、なんて頭の隅で真剣に思っていた。たぶん。そうしたら、本当に本物の唯一無二になれる気がして。
不安でたまらないせいだ。いつか置いていかれるんじゃないかと。
(マジ、サイアク)
あんまり情けなくて、少し目の端から涙が出た。たかがこれくらいの水、制服の袖が吸ってくれるだろうと思ったのだけれど、よく考えてみればもうとっくに衣替えは終わっていた。
眦と腕の皮膚の表面で体液がぬるついた。すごく、気持ち悪かった。