トシマ崩壊から、実に五年の歳月が過ぎていた。
内戦を経てニホン統治は日興連主体となり、CFCは事実上、国土から消滅した。それからさらに二年の後──現在のニホンは、混乱期をようやく乗り切ったばかりだった。
町並みは、比較的穏やかさを取り戻したかに見える。あふれるほどの物はない。凄惨な事件も消えはしない。けれども、特別荒んだふうには見えなかった。決して豊かな生活とは言えないけれど、人々は今までの停滞を取り戻すかのような勤勉さを持って働き、足りない物資を補うために有志の市が立ち──そうして誰に言われるまでもなく、強かに立ち上がるための活気を沸々と育んでいるかに見える。
日興連もまた豊かな国を目指し、日夜精力的な政策を推し進めていた。それは若く新しい政権らしい清々しさを多く含むもので、諸外国にも少しずつ認められつつあるのだと、風の噂に聞いた。
最近少しずつ点くようになったという街灯の下を、花冷えする肌寒さの中そぞろ歩く。以前あったひりつくような緊迫を、外気から少しも感じない。ひんやりとしているけれど少し湿った、ニホン独特の空気には懐かしさを覚える。なのに、まるで異国の土地を訪ねるような不思議な思いで、アキラはコンクリートの道を踏みしめた。
本当は少し潜伏して様子を見た方がいいのかもしれないと思いながらも、港に着いたらいてもたってもいられず、ふたりはそのまままっすぐに目的地へ向かって歩き出していた。幸いなことに、追われることも、いきなり発砲されることもなくここまで来ることができて、こうして久々に舞い戻った祖国の空気を思う存分、満喫することができた。
「寒くないか」
隣を歩く男が、小さく聞いた。立てたコートの襟が、ふとしたはずみで吹き付けてくる冷えた風にすくわれて揺れる。
「アンタは? 寒いのか」
「いや……少し空気が湿っているせいかな、肌当たりは冷たいが寒くない」
「俺も。ひょっとして雨が降るのかな。ニホンの春先は天気が変わりやすいから……」
「そうか」
男が、アキラの手を取って軽く握りしめた。ほんのりと温かい手のひらと、ひりりと伝わってくる慣れた痺れに、アキラは改めて男を見上げ、口元を綻ばせた。男もまた、アキラを見てまなじりを和ませる。
(……どこかで、待ち伏せされているかもしれない)
あまりに静かで穏やかな夜に、アキラはふとそんなことを思う。けれども、行くのをやめようとはどうしても言えなかった。それは恐らく、男も同じなのだろうと──問いただしたわけではないけれど、そんな気がしていた。
すべての始まりの場所、魔窟と呼ばれた旧祖地区・トシマに。
郡立するビルを背景にして幾重にも折り重なるごみごみとした界隈と、うら寂れた路地。道路端で唐突にわき起こる野蛮な野次と、暴力と、奇妙に歪んで立ち上る熱気。町の周囲を徘徊する奇っ怪な『難民』たち、──そして、人々を甘く籠絡する薬・ライン。
トシマとは、そういう土地だった。
冤罪をかけられ、送り込まれたあの日からまだわずかに五年だとは信じられない。
そして、目の前に広がる光景も。
アキラは我が目を疑い、思わず自分の目を擦った。じっと隣で佇む男もまた、胸中の驚きを隠せないようだった。
日興連がまず政策に掲げ、着手したのは、治安の改善、市民の安全確保だった。
戦いに疲弊し、荒んだ市民を奮い立たせて復興を推し進める──東西和合政策を誠実に行うことが重要と判断した若い指導者たちの下、それは積極的に進められた。
そしてその政策の一環として、内戦終了直後から推し進められた一大事業があった。
新しい国造りをアピールする目的で、CFCとの対立の象徴となったディバイドラインから先にある旧祖・トシマを、日興連主権の名の下に徹底閉鎖することだった。
地上、地下、ありとあらゆる場所に潜んだ犯罪者たちを排除し、すべての廃墟を撤去した。はびこっていた地下組織の全てを殲滅せしめ、病巣を根絶やしにし、旧祖は平和と繁栄の象徴として再びここに生まれ変わったのだ──そう、石碑には熱っぽく記されている。
立てられた畳二枚分ほどの石碑の向こう側には、整備された人工の庭園が広がっていた。
芝生や花が整然と植えられ、角々には遊具やベンチが置かれている。道は舗装され、その両脇には植林がされて、若木が春の風にさらさらと澄んだ葉音を立てていた。
およそ、以前のトシマを思わせるものはすべて取り払われていた。
まるで頼りない夢の中を歩くような心地で、しっかりと手を繋いだまま、ふたりは舗装された美しい遊歩道を歩いた。どこからともなく、水のせせらぎが聞こえてくる。確かに、どこかに小川が流れていても不思議はない。そういう景色だった。
「どう……なってるんだ」
アキラは思わず呟いた。本当に悪い夢でも見ているのか、さもなければ大がかりなでっち上げに担がれている気分だった。
「これが、トシマだなんて」
だが、果たしてどちらが夢なのか。この斉一とした場所を歩いていると、自分自身の記憶などなにひとつあてにならない気がしてくる。もと来た道を戻れないのじゃないかと訳もなく不安になり、アキラは落ちつきなく背後を振り返った。
──と、目の前をちらりと白いものがふわりと横切った。
アキラは半ば無意識で、それを手の中に掴み取っていた。
「これ……」
見上げれば、それはひとつきりではなかった。ちらちらとたくさん、まるで雪のように舞う白い──花びらだった。
「桜だ」
近い場所ばかりを見ていて気づかなかったが、少し先に見える低い木々の向こうに、白い小山のような一群があった。
「行ってみよう」
男の手を引き、アキラは足早に歩いてその白い木々に近づいた。
淡い色をした若い桜が、寒空の下、今が盛りとばかりに花を咲かせていた。ときおり巻き起こる気まぐれな春の風に翻弄され、花びらが舞う。植樹したものだろう。若いが、育てるには時間のかかりそうな太さの桜が、広場の周りを囲むように植えられている。
地面を埋め尽くすように重ねられていく花びらは、なにか塗りつぶしたいものがあるようにも見えて、アキラはなにも言えずその場に立ち尽くした。
傍らに立つ男を、ふと無言のままに見上げる。
宵闇へまるで光を放つように浮かび上がる桜に囲まれ、男の姿はひどく幻想的に見えた。夜の空と同じ色をした髪が風に揺れ、白い肌は桜と同種の、少し危うい神秘性をたたえていた。桜の下に死体が埋まっている、と謡ったのは誰だっただろう。そんなことを考える。
花に浚われてしまいそうだ──そんな埒もない思いまで浮かんで、くだらないと内心笑いつつも、アキラは男の手のひらをひときわ強く握りしめた。
男がアキラを見下ろし、髪へと手を伸ばした。払い落とす仕草の後に、はらはらと白いものが舞い散った。
「桜……こんなところで見られるとは思ってなかったな」
アキラが言うと、男がうなずく。
「きれいだ」
ぽつりと返す男の髪にもまた、白い花びらが舞い降りてくる。染めた黒い髪に映えてきれいだったから、アキラは手を伸ばしかけた手を引っ込め、払い落とすのをやめた。
ふいに、ここは帰ってくるべき場所ではなかったのだと、そんな感傷がこみ上げてくる。
きっとなにもかもが現実感を欠いていて、遠いせいだ。せめて男の体温を少しでも感じていたくて、アキラは手のひらを握り直した。
そのときだった。
「…………!」
男を改めて見上げようとして、アキラは男の肩越しに桜以外のものを見つけた。
「? どうした」
不思議そうに首を傾げた男の手を引き、アキラは慌てて歩き出した。
(もしかして)
桜の木立に埋もれ、木々の間に覗くその大きな影──。
「これ……」
それ以上の言葉を失い、幹に触れた。
立ち枯れた大木が寂しく枝を広げ、桜の幕の背後にひっそりと佇んでいた。
新たに植える種類のものではない。
(あの木だ)
確かめる術はない。けれど、覚えている。忘れるはずがない。
上等な緞帳を一息に払いのけたように、アキラの眼前へかつてのトシマの姿が蘇ってきた。
今でも克明に思い出すことができる。建物が崩れ去った空き地、急に高さのあるものを失って晒された鈍色の空、雲間からときおり覗く薄日──枯れた木々を。
そして、そのひときわ大きな根元に体を預けていた、ひとりの男の姿を。
忘れるわけがなかった。
この場所ですべてが結びつき、互いが互いの運命になった。土が樹を育てるように。樹が土を蘇らせるように。
そして再び、ここへ戻ってきた。
なにか言わなければならないような、けれども言葉などいらないようなもどかしい気分に急かされて、アキラは男を振り仰いだ。
刹那、呼吸をすることを、忘れた。
ここから始まった日を忘れないように、今日の日のこともまた、一生忘れないだろう。
「────」
男は呆然とその立ち枯れた木を見上げ、ややあってアキラをゆっくりと振り返った。
涙が、こぼれ落ちていた。
紫紺の瞳を揺らめかせて目端にふつりと浮かぶ透明の滴。やがてそれが盛り上がり、堪えきれないように滑ってゆく様を、アキラは余すところなく、すべて、見つめた。
世の中で、一番きれいなものを見たと思った。
アキラ、と吐息だけで囁かれ、アキラもまた男にしか聞こえない声音で男の名を呼んだ。
「────」
音は、花と風にさらわれて舞い、砕けて漆黒の夜空へと散った。
日付が変わり、今日初めて交わす口づけはひんやりと冷たく、舌先だけが熱く、──そして甘かった。