7月8日
***
とつん、と家屋の片隅を叩く音が聞こえ、和臣は漫然とつけっぱなしにしていたテレビをリモコンスイッチで切り、立ちあがった。
カーテンをめくると、黄色い電気に照らされて、窓ガラスが一面ちかちかと光る。
「雨か」
それほど強くないようだが、今日は朝から降ったり止んだりしている。
稲羽の気候なのだろうか。それとも今年はどこもそうなのか。晴れた日がどうも続かずに、すぐぐずつく。春先から、抜けるような青空をほとんど見ない。明日も雨のようだ。
雨の夜は落ち着かない。濡れそぼつ気配に佇む闇は、暗がりをさらにさやかな音でくるんで覆い隠してしまう。だから、なにかが起きても不思議じゃないという気がする。
(何かって、なにが)
思わず、自分自身に苦笑した。
テレビの中、ペルソナ、シャドウ。謎の連続誘拐殺人事件、たちこめる原因不明の濃い霧、マヨナカテレビ──。
これ以上、どんな劇的なことがあるだろう。
「洗い物でもするか」
わざと声に出して言い、カーテンを引いた。
コンビニ飯のプラ容器を軽く水洗いしていると、とんとん、と階段から足音がした。振りかえると、
「おにいちゃん」
目を擦りながら菜々子が顔を覗かせ、和臣を呼んだ。
「菜々ちゃん、どうした? 宿題終わったの?」
こくり、と菜々子が頷いた。
「終わった。だから菜々子もお皿洗いする」
そう言いながらしばたたく目元はいかにも眠そうで、和臣は思わず苦笑した。
「いいよ、もう終わりだから」
「でも……ぶんたんするって約束した」菜々子はそう言ってから、つま先の辺りを見つめた。「それにお父さん、まだ帰ってこないし」
和臣はちらりと時計を見る。
──二十二時。
(これは最近お定まりの、アレかな)
だとしたら、帰りはまだ少し先だろう。
和臣はしゃがみこみ、菜々子に視線を合わせて頭をそっと撫でた。
「今日はもう遅いし、菜々ちゃんはおやすみ。お父さん帰ってくるまで起きてたらきっと怒られるよ」
「けど、お父さん……今日電話ない」
「きっと忙しくてかけられないだけだよ。俺が起きてるから大丈夫」
そう言って額へ額をこつん、と当てると、菜々子は小さく頷いた。
「うん……」
「で、相談なんだけど。明日の皿洗いは菜々ちゃんにやってもらってもいい?」
菜々子は大きくまばたいてから、ぱっと笑った。
「うん、する!」
「よし、じゃあそうしよう」
「約束ね」
差し出された小さな小指を、和臣は自分の小指に引っかけた。
「ん、約束。おやすみ」
「おやすみなさーい」
嬉しそうな顔をして、菜々子は再び階段を上っていった。その小さな背中を見送ってから、和臣は残りの洗い物を済ませ、朝ご飯の簡単な準備をして、再び時計を見あげる。
(……電話してみてもいいけど)
たぶん、予想通りならまともに出ない気がする。だいたい相手は子供じゃないのだし、それほど心配する必要もないはずだ。そう思った時だった。
いきなり乱暴な音を立てて、玄関の扉が開いた。
「うぉーい、俺が帰ったぞー……ひっく」
やっぱり、と思いながらため息まじりに立ちあがって玄関先へ出ると、上がりがまちにだらしなく乗り上げ、いまにも靴を履いたまま這い上がって来そうな男がひとり、転がっていた。
「遼太郎さん、おかえり」
「なんだあ? 和臣。おまえ、このやろお!」
そんなことを言われても、困る。
どうも話にならない気配がしたので、隣にいる叔父の部下を労うことにした。
「足立さん、毎回どうもお疲れ様です。あとは俺が運びます」
「ほんと? いやー和臣くん。悪いねー」
そう言う足立の顔も真っ赤だ。
「上がって休んでいきます?」
「いやいやいや、これくらいだいじょーぶ、だいじょーぶ!」
こちらも、負けず劣らず出来上がっている。
「じゃ、一杯だけ水持ってきますから、ちょっと待っててください」
和臣は台所へとって返すと、グラスに水を注いで氷を入れ、ついでに脱衣所からタオルを引っ張り出して玄関に戻った。
「どうぞ」
足立は一気に、差しだした水を飲み干した。
「かー! 五臓六腑に染み渡るぅー! 和臣くん、きみね、きっといいお嫁さんになるよ」
嫁になってどうする、という反論は胸にしまって、和臣は肩が半分ずぶ濡れの足立をタオルで拭ってやりながら別のことを聞いた。
「捜査、大変ですか」
「まぁねぇ。ていうか、ぶっちゃけ捜査はともかく、例の探偵くんがねえ……」
「探偵って、直斗くん? まだそれ引っ張ってるんですか?」
足立が大げさに顔をしかめた。
「引っ張りまくりだよ。彼、思ってたより現場での影響力が強くてさ。ここだけの話、堂島さん、やりづらいもんだから毎日機嫌悪いのなんの……」
「足立ィ!」
唐突に遼太郎が吼え、足立は文字通り飛び上がった。
「うおっと! いっけね。んじゃ、僕はこれで」
足立は逃げるように、そそくさと玄関から転がるように出ていく。
「足立さん、気をつけて」
声をかけると、足立は手を上げつつ「じゃーねじゃーねー」と陽気に言いながら暗がりへと消えていった。
(転ばなきゃいいけど)
雨は止んでいるようだ。だが田舎の夜道は、都会に住んでいると想像もつかないほど暗い。しかも畦道だの用排水路だの、足を滑らせると危ない場所がたくさんある。
(足立さんも大変だな)
彼も外から稲羽へやってきたクチだ。土地柄や仕事に馴染むだけでも大変だろうに、気むずかしい上司に始終つきっきり、おまけに飲んだくれるところまで律儀に付き合って、挙げ句文句を言いながらも家まで送り届けてくれる。
欲目かもしれないが、遼太郎の普段の人柄がそうさせるのだろう。
「ン……ごっ」
……たぶん。
(ま、このひとの場合、これくらいは愛嬌かな)
実直を絵に描いたような男だと思っていたけれど、やりきれない気持ちを酒で紛らわすなんて人並みなこともするのだな、と思うと、だらしなさを窘めるより先につい笑ってしまう。
「……遼太郎さん、遼太郎さん」
「ぅい……ひっく、ンだあ? 和臣、子供は寝る時間だろぉが」
「なに言ってんだか。寝た方がいいのはそっちだよ」
「るせぇ」
くだを巻く酔っぱらいになにを言っても無駄だ。
「ほら、足上げて」
ぐだぐだになった遼太郎の靴を脱がせ、腕を改めて担ぎ直し、和臣は廊下を経て狭い階段を上った。お互い小柄ではないから、足許もろくに見えない。それでも、遼太郎の部屋は階段の一番手前にあるから助かった。
どうにか転ばずに部屋まで辿り着くと、薄暗い室内の真ん中には布団が敷いてあった。これ幸いと遼太郎を遠慮なく転がす。朝から敷きっぱなしだったのだろう。
布団に転がっている酔っぱらいを見下ろし、しんとした室内で和臣はほっと息をついた。
(菜々ちゃんが寝ててよかった)
これでは父親の威厳も保ちづらいだろう。
(ま、せいぜいフォローしましょう)
それがたぶん、堂島家における自分の正しいポジションだろう。遼太郎と菜々子、ふたりは決して仲が悪いわけではないけれど、うまく間を橋渡しをする人間がこの家には欠けている。
きっとそれは、母親のようなものだろう。最近はそんなことを真剣に考える。
(俺の家だって、両親いないも同然の放任主義なんだけど)
ふと両親の顔を思い出そうとし、すでに輪郭があやふやなことに和臣は思わず苦笑した。理想の父親、母親がどんな生き物なのか、想像の域を出ない。けれど、どうせ一年限りだ。家族ごっこを真剣にやってみるのも、悪くない気がしていた。
「なあ遼太郎さん、服、脱ぎなよ。シワになる」
大きくゆすったが返事がない。
(しょうがないな)
布団で大の字に転がる遼太郎にまたがって、シャツのボタンを全部外し、はだけさせた。
無駄のない、引き締まった身体があらわになる。案外着やせするタイプなのかもしれない。特別に鍛えているわけでもないだろうに、骨と、そこにまつわる筋肉はとても力強くて、しばらく見入った。密で隙のない、完成された男の身体だ。自分も同年代を相手に決して見劣りしないが、肉の付き方が全然違う。
「腕、抜くよ」
聞いてはいないだろうと思いつつも一応断って、和臣はシャツの袖口から遼太郎の腕を引き抜き始めた。これが、相当難儀した。大の男の腕は太く、おまけに脱力しているからたいそう重い。苦労してあちこち引っ張ったり腕を曲げさせたりしたが、しかし遼太郎は一向に起きる気配がない。泥酔とはまさにこのことだ。
なんとか片腕を袖から引き抜いたあと、遼太郎の身体を布団の上で転がして、Yシャツを無理やりはぎ取った。シャツはやんわり湿っていた。肌に直接触れると、アルコールでほてった身体は赤みを帯びて薄く汗ばんでいる。
とりあえずシャツで軽く拭ってから、少しばかり悩んだあと、和臣はスラックスのベルトに手を掛けた。シャツは洗い立ての替えを渡せばいいけれど、スラックスはそれほど数がない。部下もいるいい年頃の男が、しわくちゃのスラックスで出勤するのはどうかと思う。
「遼太郎さん」
もう一度声を掛けた。聞いているのかいないのか、微かに身を捩る。が、しばらく待ってもそれ以上の反応はなかった。
(しょうがない、こっちもやるか)
この暖かい季節だ。汗さえきちんと拭っておけば、上半身素っ裸にパンツ一丁でも風邪を引いたりはしないだろう。
ベルトの金具を解き、ボタンを外し、ジッパーを下げた。そのままずり下げようと引っ張ったがうまくいかず、案の定もたついた。大人の男ひとりを、自分ひとりの力で簡単にどうこうしようというのは、少々無理があった。ぐいぐいと力ずくでスラックスの淵を引っ張っているうちに、自分まで汗ばんでくる。
(少し腰、浮かせてくれたらいいんだけど……起きないし)
半ばうんざりしながらもう一度、力をこめて布地を引きよせた。そこで、
「う……ン」
いきなり遼太郎の掠れた声がし、驚いて和臣は手を止めた。
「……遼太郎さん?」
恐る恐る声をかけたが、やはり返事はない。
(なんだ、いまの)
うわずって掠れた、甘い声。
聞いたことのない種類の声音に、和臣は息を顰め、しばらくじっと遼太郎を見つめ下ろし──気づいた。
(ひょっとして)
そうっと遼太郎の下肢に触れた。
スラックスと一緒に、中途半端にずり落ちた下着をわずかにずらすと、中のものがふるりと飛び出た。
(うわ……)
和臣は思わず、まじまじとそれを見つめた。
下着から中途半端に覗いた遼太郎の性器は、立ちあがってはいないものの、ほんのり充血して見える。アルコールのせいだろうか。それにいま、弾みで触ってしまったかも。
(デカいな)
そっと、指で触れてみた。
「…………」
遼太郎の口から、ため息に似た熱い片息が漏れた。
(へえ……酔って寝てても気持ちいいのか)
妙に感心して、さらに緩く円を描くように揉んだ。
「ぅ……ん」
遼太郎の低くて錆びた声は、なぜか内臓の奥にじんわり甘く沁みた。好奇心と、わずかに後ろ暗い興奮が混ざり、自然と呼吸が上がりそうになるのを和臣は慎重に整えた。
何度か擦り上げると竿はどんどん固くなっていき、やがて亀頭からじんわりとねばつくものが垂れてきた。粘液がまとわりつくと和臣の指はより滑らかに、リズミカルになり、そのぶん手の中のものは硬さを増してゆく。刺激を与えれば与えただけ反応を返すのが面白く、寝ぼけているとどれくらい気づかないものかと興味も手伝い、和臣は何度も遼太郎のものをこねまわした。すると、
「う」
いきなり、遼太郎が短くて強い声を上げた。
さすがに驚いて手を止め、遼太郎の様子を見ようとした。
が、できなかった。
「ちょ……待っ、遼た」
後ろから後頭部をぐい、と強く掴まれ、引き寄せられた。いきおい、和臣は素肌がむき出しになった遼太郎の胸板へ、頬を押し付ける格好になる。おまけに
「……千里」
知らない名が耳に飛び込んできた。
いとおしげに呼ぶ、声。
(だれだ?)
たぶん、女の名前だ。だが知らない。聞いたことがない。でもきっと、大切な。
(別に、いいけど)
昔の女かもしれないし、いま付き合っている女かもしれないし、キャバクラの女かもしれない。とにかく遼太郎がいくら堅物でも女性関係のひとつくらいあって然るべき、大の大人だ。だいたい細君が亡くなって何年も経つのだから、相手が誰だろうが自由だろう。この際どうでもかまわない。それに、所詮酔っぱらいの寝言だ。
そんなことより、この体勢をどうするべきなのか。
いま自分は、図らずも遼太郎の太い腕の中にきつく、すっぽり収まっている。おまけに、太ももの辺りに遼太郎の固い、熱い感触があった。
脈打つ太竿と、つんとする汗の匂いが、すき間なく張り付いている。
(……俺までつられて勃ちそう)
当たり前だが、同性の性的興奮をこれほど直に感じたことはない。ああ、誰もみんなこんなものかというおかしな安堵と、悪ふざけの後始末をどうしようかという冷静な気持ちが複雑に絡み合い、和臣は動悸が速まる胸の裡で真剣に考え込んだ。
もがいて叩き起こすか。それとも、さしたる実害はなさそうだからこのまま放っておくか。だが、自分の始末をどうするか。
和臣自身は、不思議とこのおかしな体勢に嫌悪は感じていなかった。しかし、この瞬間に誰か飛び込んできたら、尋常ならざる光景に仰け反るだろうと容易に想像がつく。それよりなにより、遼太郎がいきなり正気に戻ったら、腰を抜かすに違いない。
(それも面白いか)
慌てふためく遼太郎を想像して、こっそりと笑んだ。そこへふいと遼太郎の大きな手のひらが動き、後頭部を掴む指を緩めてゆっくりと和臣を撫で始めた。
(ホントに、誰と勘違いしてるんだか)
和臣は再び笑いを噛み殺し、髪を絡めて慈しむような動きをいっそ堪能しようと目を瞑って、遼太郎の好きにさせた。
無骨な太い指に似合わない、甘やかで優しげな手つきだ。いつもこんなふうに女を抱くのだろうか。きっとこの男に惚れられたら大切にしてもらえるだろうな、とぼんやり思った。平素愛想のないこの男がこんなふうに穏やかに触れ、ついでにひと言ふた言の睦言でも呟こうものなら、じんとくるのじゃないかという気がする。いかにも子連れの男寡だが、決して見た目は悪くないし、うまくやればモテそうなものだ。けれど、恋愛や再婚をするには遼太郎に時間も心の余裕もないのだろう。
つらつら考え事をするうち、遼太郎の指はやがて和臣の首筋を通り、耳に触れ、頬を掠め──まるで顔の形を確かめるように動いたあと、いきなり和臣の顎をぐいと押し上げた。
(え?)
またたく間に、遼太郎のくちびると自分のくちびるが、重なった。
「………………っ」
──これはキスだ。たぶん。
さすがに驚いて、和臣は目を見開いたまま息を呑んだ。
苦しい、と思うより早くくちびるは離れた。が、頬ずりするような仕草で、遼太郎のくちびるは和臣の唇や、頬や、目蓋や、額をゆっくりと愛撫した。それが存外心地よくて、和臣はしばらくぼうっとした。
(ヒゲ……当たる)
ざらりとした無精髭と、アルコールを含んだ吐息が皮膚をくすぐる。その感触だけが妙に生々しい。
「遼太郎さん、……も、起きなよ」
思い切って声をかけたが、なぜか喉がからからで、たいしたボリュームにならない。
「遼太郎さんてば……ん、ン」
また、くちびるを塞がれた。身体を捩ると、お互いの腰の辺りがまともに擦れ合ってしまい、じんと疼いた。
(これ……ちょっと、本格的にヤバいかも)
不快感のない自分に驚愕のような、見たことのない本性を突きつけられたような、得も言われぬ気分になった。
(どうしよ)
あれこれ思ってから、しかし結局は好奇心が理性に勝った。
何度も差し出されるくちびるの隙間に、和臣はそっと舌を割りこませてみた。
酔いでどこもかしこも緩くなっている遼太郎の口腔は、案外すんなり開いた。固くした舌先で歯列をくすぐるとなまめいた喉声が聞こえ、舌を絡め取って軽く噛むと下肢がびくりと跳ねる。重なり合うお互いの屹立が固いとハッキリわかって、少し軽い目眩がした。そのときだった。
「……う、ん、かずおみ……?」
舌っ足らずな声に、ぎょっとして和臣は顔を上げた。
息が止まる。
「んだぁ……おまえ、現場ちょろちょろしやがって……おい足立ぃ、…………あ?」
目が、合った。あまりにも間近で。
とろみを帯びた遼太郎の瞳が、わずかに細められ、こちらを眇めた。
「和、臣?」
今度はハッキリと呼ばれ、どう答えようかとっさに迷った。
いまなら遼太郎も全ての状況を理解してはいない。何もかも「酔っぱらい」のひとことであしらえる。
──だが、敢えてそうするのをやめた。
和臣は意を決して、遼太郎のものを口に含んだ。
「ん……ぅ、おい……っ!」
口は塞がっているから返事などできない。
我ながら苦しい言い訳だな、と思いつつ、大きな遼太郎の屹立をさらに深く頬張った。遼太郎の膝が跳ね上がるように震え、口の中のものが膨れ上がった。
(デカい)
見て触れてわかっていたことだが、改めてその大きさに驚き、口の中でさらに大きくなっていくことにもっと驚いた。喉が詰まる。
(こんなふうに、なるのか)
手のひらで触れるのと口で味わうのは、全く違った。和臣は小さなため息のあとに目を瞑り、口腔の感覚を研ぎ澄ませ、遼太郎がより震える場所を探すことに没頭した。括れを行き来させ、先を舌でこじると苦いものが口にしみてくる。
あからさまな相手の情欲に煽られ、嫌悪どころか自分のものまできつく張り詰める感触がした。
「ん……っ」
「バカ──なにしてる……っ」
じゅる、と吸い上げながら和臣は顔を上げた。そのとき初めて、室内が思いの外明るいことに気がついた。
カーテンが開いていて、明かりは外から降り注いでいた。先ほどまで雨の雫を滴らせていた雲間が途切れ、隙間から怖いほど大きな月がちらりと顔を覗かせている。
ほの青い光に照らされ、暗がりの中、お互いの顔がハッキリ見えた。
見えているとわかったから、和臣は音を立てて遼太郎の屹立した性器にくちづけた。
「かず、」
「──し」
人差し指をくちびるに当てて、和臣は少し笑んだ。
「菜々ちゃんに聞こえる」
ぎくりと遼太郎の背中が震えた。
「最初はなんか遼太郎さんがきつそうだなと思って触ったんだけど」内緒話のボリュームで囁きながら、和臣はズボンを蹴るように脱いだ。「つられて俺も、結構キた」
言って、覆い被さるように遼太郎の胸へ倒れる。わざと腰をずらすとお互いのものが擦れて、とたん遼太郎の下腹が削げた。
「……っ、バカ、ふざけるのもいい加減に……!」
「さっきのキス、ちょっと驚いた」
「はぁ……?」
「遼太郎さんが俺にキスするなんて」
「な、に……」
遼太郎は愕然とした。
「けど、うまくて二度ビックリした。でもって別にやじゃなかったから、三回ビックリした」
「……バカなこと、言ってないで」
「誰だと思ったんですか? 俺のこと」
最後は声をひそめて囁くと、遼太郎の顔がぎょっとした。
「そっちがキスしたんでしょう。さっきまでただの酔っぱらいだったくせに、いきなり保護者になるの狡いよ」
「……それは」
「別に俺はいいよ。案外平気みたい、こーゆーの。だいたい別に男同士だから、こんなの、マスかいてるみたいなもんじゃない? 遼太郎さんもこれ、このままじゃ困るだろうし」
重なった身体の隙間から、和臣は改めて遼太郎のものを手のひらへ握りこんだ。どくり、と脈うつ感触がありありと伝わってきた。軽く上下に揺すると、遼太郎が噛み殺し損ねた喘ぎを漏らす。
「う……、く、この、バカ」
「手と口とどっちがいい? どっちもひとのは初めてで、あんまり自信ないけど」
「バカ……、っ、も、よせ」
「けど俺もここまでしといて、最後トイレに駆け込まれるとなんか、ちょっと切ないし」
「和臣……!」
どきりとして手を止めた。
好きな声で呼ばれた、と思った。低くて深みがあって、内臓へ直に響く、沁みる声音。
(いまこのひと、俺のこと、本気で呼んだ)
たったそれだけのことで、身体がわっと熱くなった。我慢できなくなって、和臣は自分の下着をずり下ろした。自分のものを強く擦りたい気持ちと、遼太郎を逃したくない一心で、とっさにお互いのものを直に擦り合わせた。
「……っ」
だが直接触れあわせるのは、想像を絶するなまめかしさだった。
(すげ……クる)
和臣はダイレクトに伝わってくる硬さと熱に驚きながら、背中をたわませ、腰を揺らしながら目も眩む甘い痺れに呻いた。
このままだと、自分の方が先に達してしまいそうだった。
(ヤバい、それはやだ)
そのとき、後ろのすぼまりへ遼太郎のそれが当たったのは偶然だった。
深く考えもせず、和臣はとっさに自分に遼太郎のものをあてがい、腰を沈めた。
「……あ、ア……!」
身体を落とすと、肉襞をかきわけて、大きな遼太郎のものがめりこんでくる。
(痛……っ)
自分が仕掛けたのにもかかわらず、あまりの圧迫感に目の前があふれた涙であっという間に霞み、張り詰めていた熱がさあっと引いた。まるで押し上げられた質量分、身体の中のものが外へ出ようとしているようだった。
「か、ずおみ……」
やめろ、と言外に告げる声がした。けれど顔を上げないまま、和臣は目を強く瞑ってさらに深く、無理やり腰を落とした。
もしハッキリと見れば、自分のあまりの痴態にやめたくなるかもしれない。割開かれる痛みもひどい。
けれども、口ぶりとは裏腹に遼太郎自身はこの行為を悦んでいる。太く、固くなっていくのが自分の中で直に感じられる。だからやめたくない。
(けどこれ、ぜんぶは、むりかも……)
腰を浮かせて沈める、それを繰り返すうち、脚の付け根にぐっと筋が浮かび上がるのが自分でもわかった。痛みが強くて、体温は引いていくのに頭はのぼせていて、脂汗が出て、涙が止まらない。けれど、辛いから泣いているというより、目頭が壊れてしまったみたいだった。
泣くなんて、いつ以来だろう。思い出せない。
「この……っ、バカ」
遼太郎が手を伸ばしてきて和臣の腰を支え、片手で脚の間を探った。指に力を入れて擦り上げられる。
すぐに反応した。
「や……」
再び自分のものが固くなっていくのを感じて、和臣は必死に首を振った。気持ちがいいのとは別物の、生理的な反射だった。体中が剥き出しの神経になったように、敏感になっているせいだ。
そんなことをされたら、きっとあっという間に達してしまう。
「……っ、しないで、いい」
かすれた声で訴えたが、しかし止めてはくれない。
和臣は握り込んだ遼太郎の指に手をかけ、力なくそれを引き剥がそうとした。しかし遼太郎は指を絡ませたまま、大きな手のひらと太い指で和臣のものに愛撫を加えてくる。びくり、と下腹が削げるほど震えが立ち、和臣は中にいる遼太郎を思いきり締め付けた。
まだ全部入りきっていない。なのに、きつい。すごく。
けれども、敏感になった屹立への刺激は痛みよりもひとさじ強かった。
「ぁ、う、……ン」
我知らず、声が洩れる。遼太郎の指の中で和臣はまたたく間に熱く濡れた。
昂ぶるのが早すぎる。気持ちが追いつかないまま、身体ばかりが先へ、先へと行ってしまう。
(ヤバ、このままじゃ俺が、ホントに先にイきそ……)
遼太郎が気持ちよさそうだったから。そういう口実で始めたのに、いつの間にか自分の方が追い詰められている。
(それ、まずい)
遼太郎は和臣だけをさっさとイかせて終わりにしようとしているのかもしれないが、しかし、それでは遼太郎がまるきり加害者みたいな格好になってしまう。
(困る)
やめてほしいと訴えたくて、和臣はようよう目を開いた。
月明かりの下で、遼太郎が眉根をひそめていた。彫りの深い面差しにはところどころ濃く影が落ちていて、微細な表情までは拾えない。けれど目縁を赤くして、水分の多い瞳で、じっとこちらを見ているのがわかる。
熱量の多い、とても酔っぱらった顔で。
「りょ、たろさ──、……ん」
和臣が呼び終わるより早く、遼太郎がくちびるで口を塞いだ。
「────!」
とたん、視界がくるりと回り、いきなりお互いの体勢が逆転した。
あっという間に、和臣はくちづけられたまま腕をとられ、遼太郎の下に敷き込まれた。
衝撃にこわばった和臣が思わず両足を大きく広げると、遼太郎はその間に深く突き入れてきた。自然と喉元が反り返る。
「あ、ぅ……んっ」
声を漏らしそうになると、遼太郎の指が髪をまさぐってうなじをとらえ、深くくちづけを押し付けてくる。それから、重なった身体の間にてのひらを差し入れ、再び和臣を握り込んだ。
「ん、ん……ぅん」
絡んだ舌に和臣の漏らす声が絡み、混ざり合った唾液が顎を濡らし、くちづけはいっそうみだらなものになってゆく。
「……っ、う、あ──!」
遼太郎のごつごつした手がいっそう強く根元を揺すった。思わず叫び声をあげそうになって、和臣はとっさに自分の指を噛みしめた。
「……よせ」
耳許を啄むように囁かれた。
声が驚くほど優しくて、和臣は思わず噛みしめた口許を緩めた。
すかさず遼太郎が和臣の腕を取り、自分の背中に回すようにさせた。そのあと、口に太い指があてがわれる。代わりに噛め、ということかもしれなかった。
けれどもそうはせず、和臣は遼太郎の指をそっと咥えて舌で絡め取った。
「ん……」
親指を深く含んで、引き出す。人差し指と中指の真ん中へ、ていねいに舌を這わせる。
お願いだから、もっと、ゆっくり。
うまく声が出ない代わりに、和臣は丹念に、何度も何度も指を吸った。自分の口許から溢れる湿った音だけが、空気を震わせ、耳朶を擦る。しばらくすると、遼太郎は和臣の舌の動きに併せてゆるゆると指を動かし始めた。荒々しさの感じられない仕草に少しだけホッとして、いままでいくらやってもうまくいかなかったのに、身体からようやく少し力が抜けた。
呼吸が整ってくると、少しだけ思考が戻ってくる。痛みを紛らわすために、和臣は自分から腰を軽く揺すってみた。
「……、ふ」
息は少し弾んだけれど、当たるところが違うだけでずいぶん楽になるのだと気づいて、和臣は慎重に自分の場所を自分で探ることに没頭した。考え事をしていると気が紛れてちょうど良かった。
しばらくすると胸元や額の髪の生え際を汗が薄く覆い、一度は滑り落ちた体温が徐々に回復してほてってくる。やんわりとした痺れが皮膚の表面を毛布のように覆い、やがて静かに身体へと沁みた。ふと気づいたときには、中心を貫いていた痛みがいつしか引いていた。異物でしかなかった遼太郎のそれを、自分の内側はいつの間にか違和感なく食んでいる。
──おかしい、と思ったときは遅かった。
「…………」
遼太郎の口から微かなため息が零れ──緩く揺するように動き始めた。
「あ」
つま先が痺れ、なにか得体の知れない熱が迫り上がってきた。
「……ぅ、っ」
遼太郎の腰が緩やかに動いて、緩く突く。摩擦が強く、明らかに潤滑物の足りなかった隙間が、徐々にしっとりと湿ってきた。
遼太郎の動きは徐々に強くなっていくのに、痛みではない、もっと別の逼迫した熱で喉が詰まる。お互いの内側が擦れるたび、高くて熱い新たな波が打ち寄せてきて、目が眩んだ。真綿で絞められるような感覚に、息が満足にできなくなっていく。
「────っ、あ!」
繋がっている部分が、ぐちゅ、と派手な音を立て、身体の奥深くに遼太郎が突き当たった。
その衝撃にどっと熱が膨れあがり、どろりとひと塊、和臣の屹立から精液が零れ出て、遼太郎の指と指の隙間を濡らした。
「……うそ」
呆然となって思わず呟いた。上り詰めたのもよく分からないまま、前が吹きこぼれていた。しかも、まだ終わった感じがしない。下肢は相変わらず疼いていて、逆巻く熱が出口を探して身体中をさまよい、暴れている。あやすように遼太郎が窪みを撫で、濡れた胴を手でしごいた。見る見るうちに硬さを取り戻してゆく感覚が異様で、和臣は息を呑んだ。
遼太郎が再び、動く。自分の内側はさらに柔らかくうねって遼太郎を包んだ。まるでもっと深く、と誘い込むようにひくつく。皮膚の感覚が強くなりすぎていて、和臣は自分の襞が遼太郎に絡みついてゆくさまを、ありありと思い描くことができた。
(なんだ、これ)
自分の身体にひそんでいた、いままで知らなかった熱を、遼太郎が目の前で次々暴いている。
(しらない、こんなの)
理性で自分がコントロールできないとハッキリわかって、和臣は内心僅かに怖じけた。紛らわそうと遼太郎にしがみつく。
しがみついてから、遼太郎との間に隙間がなくなったと遅れて気づいた。
近すぎて、これではきっと隠し事など全部ばれてしまう。
(ダメだ、もう)
これ以上意地を張っても意味がない。
和臣は手足を、唇を、胸を最大限に合わせてからませた。遼太郎が自分に与える快感をむさぼろうときつくしがみつく。
痛いより、気持ちがいい方がいいにきまっている。
自分からも腰を揺すると、得も言われぬ甘さが胸でいくつも弾けた。体をゆすり合い、摩擦を共有した部分は火傷しそうに熱い。和臣は睫毛を湿らせたまま、細かく痙攣した。最初は壊れ物の具合を確かめるようだった遼太郎もしだいに激しい動きに変わり、和臣がより震える場所を執拗に攻めた。
「…………っ!」
終わりは唐突にやってきた。
「は……、っく」
身体を二つ折りにして遼太郎の背中に爪を立て、和臣は出来うる限り声を噛み殺しながら、射精した。大した量ではないはずなのに、吐いても吐いても終わらない感覚に小さく呻き、痺れた手でいっそう強く遼太郎にしがみついた。
「……ごめ、こんな、濡れて」
掠れた声で譫言のように言ったが、しかし遼太郎の返事はなかった。それどころか、腹の間で濡れた和臣のシャツがぐじゅぐじゅと音を立てるのにも構わず、遼太郎はさらに前のめりになって突き入れた。
「ぁ……ちょ、まだ、──あ」
力を失ったばかりで敏感な前はお互いの腹に押しつぶされ、揉まれて、固くならないまま体液を漏らし続けた。絶頂感だけがいつまでも後を引き、ひくつく身体を持て余して、和臣は小さな嬌声を噛みしめながら何度もかぶりを振った。
ふいと、遼太郎のくちびるが目蓋へ下りてきた。そっと涙を吸う仕草はひどく優しく、なのに突き入れてくる動きは強すぎて、どうしていいかわからない。燻る熱だけが水位を超えて、次々と胸中に溢れかえった。
もうこれ以上、何も入らない。自分さえ居場所がないくらい、どこもかしこも遼太郎でいっぱいで、無理だ。
朦朧として見あげると、何か言いたげに遼太郎のくちびるが動いては、止まる。熱っぽい吐息だけが次々と降ってきた。
和臣もまた、それに答える言葉を持たなかった。かわりに、力を抜き、遼太郎のうなじをもう一度抱きしめた。
舌打ちする音が、聞こえた気がした。
やがて堰ききったように遼太郎の動きが強くなり、和臣の最も深い場所で熱が弾け、遼太郎の背がが跳ねた。
下肢を繋げたまま、覆い被さる格好で遼太郎が頭から屈み込み、布団へ突っ伏す。
びっしょりに濡れそぼつ肌からは、汗と、いつもの煙草の匂いがした。
***
7月9日・午前
突然目が覚め、遼太郎は見当識を失って呆けた。
真ん中へ寄せられたカーテンの隙間から薄い光が帯になって零れ、畳と布団を横断し、やがては寝そべる自分の顔へ線を引いている。
(朝、か)
ちらりと横目で窓の外を見ると、どうやら雨のようだ。さらさらと細かい水の音がする。昨日から引き続き降っているのか。ここのところ一度降ると妙に続く。だが雲が薄いらしく、空は鈍色の光を含んでうっすら明るい。じんわりと目頭が痛んだ。
「イテテ……」
どうやら一晩明け、日付が変わったらしい。慌てて起き上がろうとして今日が休みであることを遅れて思い出し、遼太郎は大きなため息と共に大の字になって転がった。とたん、悪心が胸にこみ上げて喉元につっかえる。
低く唸って目を瞑り、頭を抱えて寝返りを打つ。どっちを向いても気分が悪い。おまけに、常に枕許へ置いてあるはずの携帯電話が、腕をかき混ぜても一向に指へ触れない。
(車のシート、……じゃねえな。だとすると、ケツのポケットか)
なにもかもが思うようにならない忌ま忌ましさにため息を吐き、息を大きく吸い込むと、鼻先で真新しいシーツの匂いがした。
(またやっちまったか……クソ)
この清潔な寝床は、誰かが整えたに違いない。
どうやって床に入ったか思い出せない。確か、足立を連れて仕事帰りに一杯引っかけた。一杯にするつもりだった。なのにどんどん注がれ、捨てるわけにもいかず、飲み干せばさらにもう一杯と煽られ、その繰り返しで真っ白だ。恐らくこれは悪酔いに近い。酒量には自信があるほうだ。
(ったく、足立の野郎)
胸の中で悪態をついてみるが、しかし結局は乗せられる自分が悪いのだ。たまたまむしゃくしゃしていた、俺が悪いんじゃない、と言い訳してみたところで虚しい。それではまるで通り魔の繰り言だ。
ため息を吐いて頭を掻き、薄く目を開いて天井をぼんやり眺める。
ふいに、奇妙な既視感と違和感を同時に感じて遼太郎はまばたいた。
(……なんだ?)
寝転がったまま、もう一度自室を見回した。
いつもと変わりない。小汚い箪笥に、資料を広げるには小さすぎる机と、座椅子に抽斗がひとつ。畳には雑然と書類や新聞が投げ出され、脱ぎ散らかした衣服が──
「…………!」
遼太郎は跳ね起きた。
スラックスとネクタイがハンガーへ丁寧に吊してある。
いま身につけているのは、寝間着代わりのよれた下着だ。だがYシャツはどうしたのだろう。他の洗濯物も見あたらない。布団を捲り上げたが、さらりとしたシーツが指に触れるばかりだ。
再び天井を見あげて遼太郎は呻いた。何かおかしい。違和感が喉まで出かかっているのに、うまく思い出せない。
ふと見ると、机の上にペットボトルが置いてあった。立ちあがって触れると、まだ冷たい。口の開いていないキャップを捻って、半分ほど一気に飲み干した。
(こんなご丁寧なことをするのは)
喉を伝い、冷たい感触が下りてゆくのと同時に、こめかみの辺りから体温が落ちていくのがわかった。
(……夕べ)
口許を拭いながら、遼太郎は逸る動悸を押さえつつ部屋を出て、階段を下りた。
「あっ。おとうさん、おはよう」
菜々子が気づいて振り返った。
「……ああ、おはよう」
気もそぞろに台所を見回したが、……いない。
「おとうさん、どうしたの?」
浮き足立っている自分を不思議に思ったのか、菜々子が首を傾げた。思わずひやりとして、その瞬間、背筋にびっしりと汗が浮いた。
「いや……なんでもない」
慌てて首を振り、いつもの椅子に掛け、何気ない仕草で新聞を広げた。
「おとうさん、今日はゆっくりでいいの? おやすみ?」
「……ああ」
じっとこちらを見つめ上げる菜々子の視線が痛い。指が冷えている。喉が渇いている。視線が定まらず、目がうまく文字を拾えない。
こういう状態をよく知っている。これは、犯罪者の気分だ。後ろめたい者が勝手に覚える圧覚だ。
「おとうさん、昨日おそかった?」
少し離れたところに立ったまま、再び菜々子がおずおずと聞いた。
「まあな。……ひょっとして待ってたのか?」
「うん、ちょっとだけ。でもね、おにいちゃんがもう遅いからねなさいって。だから菜々子、よふかししないでちゃんと寝たよ」
「そうか。和臣、が」
言いかけて、思わず口をつぐんだ。
(「遼太郎さん、おかえり」)
ちらりと脳裏をかすめた既視感に、かぶりを振った。
(そんなこた、毎日だ)
彼はたいてい起きていて出迎えてくれる。なにも特別なことではない。昨日に限ったことではない。
(「遼太郎さん」)
彼は自分のことを、叔父とは呼ばずに名前で呼ぶ。最初の日からずっとだ。
なにも、特別なことでは──
(「りょ、たろさ──、……ん」)
「あの、遼太郎さん?」
「うおっ!」
遼太郎はすくみ上がって立ち、思い切り内ももで椅子を跳ねとばした。
大きな音を立てて椅子がひっくり返った。
「おとうさん!」
「あ、……いや、すまん。その」
菜々子から非難の声が上がり、慌ててガタガタと椅子の背を立てていると、背後から苦笑する声がした。
「ごめん、脅かして」
遼太郎はおそるおそる背振り返った。
笑っているのは、甥の和臣だ。四月から下宿している、姉の息子。もう三ヶ月経つ。この声も、顔も、もうとっくに馴染んだ。
今日だってそうだ。いつも通り。特別なところはどこにもない。
ない、はずだ。
「おはよう。それ、辛かったら飯の前に飲んで」
テーブルの上にコップと、薬が一包置いてあった。
「二日酔い。大丈夫ならいいけど、あんまり顔色よくないよ」
笑う、顔。そう、彼はいつだって気持ちよく笑んで話す。機嫌を悪くしているところなど見たことがない。学校では違うのだろうか。友だち同士では怒ったり──泣いたり、するのだろうか。
(泣いたり)
菜々子のような小学生でもあるまいし。ましてや──男で。
簡単に泣いたり、するわけがない。
「おにいちゃん。菜々子、パンやくね」
「ありがとう。トースター熱くなるから気をつけて」
「うん!」
はりきって菜々子が台所の奥へ行く。少し遠くで高い電子音が響いた。あれは、洗濯機だ。ぼんやりとした頭でそう思いながら、テレビのリモコンをたぐり寄せて電源を入れる。ニュースを探してあちこち切り替えたが、時間が遅いせいかバラエティ番組のようなものしかやっていない。
「食えそう?」
和臣が覗き込んだ。
「……ああ、うん、そうだな」
「シジミの味噌汁作ってみたんだけど、飲む? 貝の味噌汁って二日酔いにいいんだって」
曖昧に頷くと軽くよそった味噌汁の椀と箸が一膳、置かれた。
「あと、冷蔵庫にポカリとトマトジュース入れてあるから。水分摂った方がいいよ」
「……部屋に水、置いたのはおまえか」
二度三度まばたいてから、和臣が笑った。
「うん、そう。喉かわいてるかなと思って。昨日すごく酔ってたし、…………」
くちびるを微かに開いたまま、和臣はふつりと声が途切らせた。
黙って、ただ静かにこちらを見ている。強い瞳。ああ、目元は母親似なんだな、と今ごろ気づいた。明るく奔放で誰の言うことも聞かない、ずっと苦手だった姉に。
とても、似ている。そっくりだ。
「なに?」
「目が」つぶやいて、そっと手を伸ばした。「……腫れてる」
目縁に触れると和臣の睫が微かに揺れ、指の皮膚を掠めた。
「夜更かしして、寝てなくて」
「夕べ……」
だが、その先どう続けていいかわからず、遼太郎は口を閉ざした。
「あの、もし遼太郎さんが元気そうならお願いがあるんだけど、いいですか?」
なんだ、と言う代わり、まばたいて微かに首を傾げると、申し訳なさそうな顔で和臣が続けた。
「いま洗濯機回してるんだけど、あとちょっとで終わるから干してもらってもいい? ……シーツとか」
囁くような控えめの声は、かさかさと掠れていた。
「和臣、……おまえ」
遼太郎は思わず立ちあがって、和臣の腕を掴んだ。
熱い。自分が冷たくなっているのを割引いても、熱かった。
これで、いつも通りのわけがない。
「菜々ちゃんじゃシーツ干すのは無理だろうし」
「そうじゃ、……ねえだろ」
「もしきれいになってなかったらもう一回、回してください」
「和臣!」
「……どうしたの?」
か細い声に振りかえると、菜々子がこちらを見ていた。
「ケンカ?」
違う、と喉まで出かかったが、呑み込んだ。
(じゃあなんだ、これは)
和臣を怒鳴って、腕を掴み上げて、それでこれから自分はどうしようというのだ。
(……ちがう)
こんなもの、喧嘩ではない。
上から下へと落とされる、あらがいようのない暴力だ。
「和臣、俺は、」
「違うよ、喧嘩じゃない」
声を遮るように和臣がおっとり笑って、遼太郎の手のひらに触れた。やはり熱い。冷たい自分の指に絡んで、熱が沁みた。
「今日珍しくお休みだっていうから、たまには洗濯物干すの、遼太郎さんに押し付けようと思ってお願いしてた」
「けど、洗濯物なら菜々子もほせるよ。たたむのも」
「うん。でも今日は菜々ちゃん皿洗いの日だから、分担」
「ぶんたん?」
「そう。俺は今朝ご飯作って洗濯したろ。で、菜々ちゃんはパン焼いて皿洗うから、遼太郎さんが洗濯物干せば家族みんなで分担になる」
「かぞく……」
「そう。いいと思わない?」
和臣がにっこり笑うと、菜々子の顔がみるみる紅潮した。
「うん……うん! あのね、学校で先生も言ってた。かぞくみんなでおうちのことをやりましょうって」
「な、そうしよう」
「うん。じゃあ、今日のせんたくものはおとうさんの仕事!」
菜々子の笑顔につられ、かろうじて頷くと、その隙に手の中から和臣の指がするりと逃げ出した。
「おい、待て、……おまえ!」
まだ話は終わっていない、と言うより早く、和臣が動いた。
身を乗り出し、くちびるが、耳朶に触れるくらい近くまで。
それから小さく掠れた声で、ひと言。
「じゃあ、後はよろしく。おやすみなさい」
笑んで、和臣は居間から出て行った。
足音が遠のき扉が閉まる音のあと、菜々子が心細そうな顔でこちらを見て「おとうさん」と呼んだ。
「あのね。おにいちゃん、いまから寝るんだって。おにいちゃん、びょうきなの?」
泣きそうな顔をして言う。遼太郎はそっと頭を撫でてやった。
「そうじゃない。……ただの寝不足だ」
「じゃあ、寝ればなおるよね?」
菜々子のほっとした笑顔に、胸がちくりと痛んだ。嘘は言っていない。けれども、まさか本当のことは言えない。
自分の娘に、家族に、世間に、堂々と言えないことをした。それを、内心で冷や汗をかきつつ隠している。
警察官である自分が。責任ある、いい年をした大人が。
(だいたい、なんであんなことになったんだ……畜生)
あんなことをしておきながら「実はとても酔っていたので、なにがどうしてそうなったのか細かいことはよく覚えていない」なんて、そんなこと、本人にすら言えない。
(……泣いてたな)
声を押し殺してしがみつく和臣に、一瞬嗜虐的な気分になったことは覚えている。気づいたときはこみ上げる熱と愉絶が体中暴れていて、最後はもう止まるに止まれなかった。もっと泣かせたかった。欲望のままに振る舞っているのに、まるでこの世にふたりきりになったみたいに必死で泣いてしがみつく彼が──いとおしかった。
(どうかしてる)
酔いで頭がどうにかなっていたのだ。
だが、いまさら言い訳や後悔をしても遅い。
「あっ、おとうさん。パン焼けたよ」
菜々子が皿を持ってトースターに駆け寄る。菜々子を見ているのが後ろめたくて、遼太郎は目の前に置かれた椀に目を落とした。
少しためらってから、味噌汁をひとくち啜ってみた。温かく穏やかな貝の味は、彼の言ったとおり、冷えて空っぽの体によく沁みた。
7月9日・午後
***
霧の中を、歩いている。
そこは薄い紗を通したようにやわらかな光が砕けて溢れ、静謐に冴え渡っている。
床石を踏む自分の靴音が、キチリと、まるでガラスを噛むように細かくて固い音を立てた。我に返る。
(まただ)
頭の隅でぼんやりとそう思いながら、したたるように煙る乳白色の中、伸ばした腕の先すら見失いそうな道を小走りに進む。誰に急かされるでもなく、追い立てられるわけでもないのに、ひたすらに前へと歩き続ける。
道はうねりながら、無言で霧の彼方へ消えてゆく。
(ここ、何度目だ?)
最初はおかしな夢だと思っていた。けれど何度も足を運ぶにつれ、ここはどこか実際の場所だという気がしてきた。確かなものは何も見えないけれど、辺りに満ちる気配はどこまでも冴えている。
気配とはなにか、明確な説明は難しい。衣擦れの音、微かな呼気、温度、生き物にまつわる空気の動き。音かもしれず、ひょっとすると匂いかもしれない。あるいは──視線。
誰かが見ている。そんな気がする。
(けど、誰が?)
わからない。
(どこから、どうやって?)
だが確実に空気を押しのけてくる何かを感じる。皮膚が微かな粒子のぶつかりを無意識に拾い、産毛を震わせている。
そして、これが夢であるはずはないと確信に近い気持ちで思うのだ。
しかし目が醒めればここのことをすっかり忘れてしまう。再び訪れてはまた、ああ、この間の場所だ、と思う。その繰り返し。
ここはどこだろう。
自分はどこへ行くのだろう。
この先には何があるのだろう。
訳もない苛立ちと、理由の見あたらない焦燥感で気が急く。
早くしないと。
早く向こうにつかないと──帰らないと。
ただひたすらに走り続ける。逃げるように。きざはしに手が届かずに焦れる子供みたいに、ただ必死にもがく。息が切れるのも構わず、焦がれるような思いで。
(──あ)
霧の向こう、道の先に人影を見たような気がして、俺はふいと歩みを緩めた。
凝った薄いもやの中にハッキリと浮かぶ、それは誰かの──
「和臣!」
だしぬけに耳許で怒鳴り声がして、和臣は驚いて目を覚ました。
「あれ……」
朦朧と呟く。呟いてから、まるで息を止めていたみたいに胸が苦しいことに気づき、慌てて気息を整えようと空気を吸い込んだ。
(なんかいま……変な夢、見てた?)
恐ろしげな夢だった気はしないが、動悸が激しくて喘鳴がいつまでも収まらない。最近、よくある。汗びっしょりになっていて、朝から風呂場へ駆け込むこともあった。
「バカ野郎、いったいなにしてる、おまえは!」
顔を上げると、目の前に真っ赤な顔をした遼太郎がいた。
(ええと……)
これはたぶん、怒っている。
まばたいてから「たぶん寝てた」と正直に言うと、さらに怒鳴り声が降ってきた。
「布団くらい敷け、敷けないなら呼べ! 具合が悪いんだろうが」
「……ああ、うん。ごめんなさい」
確か、折りたたんだ布団の上に頭から突っ伏した、ような気がする。
(眠くてだるくて布団敷くの面倒だったし。……横になるとケツ痛いし)
また正直に言うと怒鳴られそうなので、胸にしまっておくことにした。
(覚えてるよな、あれは、どうみても)
酔って忘れたならそれはそれで、と思って遼太郎の出方を窺っていたのだが、先ほどの動揺の仕方を見ると、なにか覚えているのだろう。
(どの辺まで覚えてんのかな)
「どけ」
乱暴に言って、遼太郎が畳んだままの布団を敷き始めた。邪魔をしないように避けると、なにか固いものをふんづけた。
(あ、携帯)
手に取ると、メールが表示したままになっていた。
『暇ならうち来いよ』
送信者は、花村陽介。
(そういや、見たような)
だが、正直それどころではなかったので、ほっぽり出して寝てしまった。悪いことをしたが、その後に電話の着信はないようだし、文面も「みんなで集まろう」ではない。大丈夫だろう。
「ほら、寝ろ」
「……はい」
下手に逆らうと携帯を折られそうな剣幕だったので、素直に横になった。
(痛……)
やはり横を向かないと、辛い。なるべく目立たないようにもぞもぞと体勢を変えた。
(どうもヘンだと思ったんだよな。途中からいやにぬるぬるしてて)
乾いて軋んでいた抽出が途中でいきなり楽になったのは、出血のせいだった。無理をして遼太郎に跨ったから皮膚が裂けた。お互いたまった熱を全部吐き出し、そのあと遼太郎が事切れたように眠ってしまってからシーツについたシミの大きさに気づいて仰天し、慌てて布団からはぎ取って洗濯機に突っ込んだ。そのあとコソコソと風呂場へ行き、中のものを指で必死に掻きだしていたら、痛みと、さっきまでの熱の余韻でまたほんの少し涙が出た。衝動的で考えなしなバックバージンの代償は、肉体的にも精神的にもかなり大きかった。
(まあ、遼太郎さんもナマだったから……出てたんだろうけど)
冷静に思い出すと、さしもの自分もうっかり赤面しそうだ。面の皮はそこそこ厚いはずなのに。
(繋がってんのモロに見ちゃったのがちょっと衝撃すぎた……)
別に後悔はしていないけれどあまりの衝撃にかえって現実感が薄く、いくら必死に昨夜のことを反芻してみても到底自分の所行とは思えない。まさか自分があんなにタガを外すなんて、想像の埒外だ。
けれど、夢でもなんでもない証拠に身体が痛い。
「なにか欲しいものはあるか」
ぼそりと遼太郎が聞いた。
「いや、別に。大丈夫」
「遠慮はするなよ」
「してないよ。ちゃんと横になったからかなり楽。ありがとう」
少し笑って言うと、遼太郎の視線が逸れた。
やはりこれは、多少なりとも昨晩のことを覚えているのだろう。なにもなかったフリを貫こうかと思っていたけれど、声をかけた方がいいだろうか。迷っていると、
「そのままでいいから、聞け」
遼太郎の方が先に口火を切ったから、和臣はじっとその後に続く言葉を待った。
「おまえの身体の調子がよくなってからでいい……いますぐでなくても」
そう言って、しばらく口を噤んだ。
「なに?」
首を傾げて和臣が言外に先を促すと──遼太郎はいきなりその場で土下座した。
「頼む、……俺と一緒に警察へ行ってくれ!」
「は……?」
ぽかんとして、和臣は思わず素っ頓狂な声を漏らした。だが、いくら待っても遼太郎は額を畳に擦りつけたまま動かない。
「行くのはいいけど、……なんで?」
ややあって、くぐもった声が畳の下から聞こえた。
「おまえは俺を訴える権利がある」
血を吐くような声に和臣は黙ってしばたたき、遼太郎の後頭部をじっと見つめた。
(……なに言ってんだこのひと)
言わんとしている意味は、なんとなくわかる。自分が警察へ行き、昨晩のことをひとつも漏らさずつぶさに──遼太郎がどんな痴態を曝して自分がどんな声を上げただとか──語ると、全く損なわれることのない生々しい記録が取られて、「未成年への暴行」とか「淫らな行為」とか、いわゆるそういうことになって処理されるのだろう。ついでにその日夕方のニュースでは「現職の警察官が、実の甥に性的暴力」のようなテロップが流れたり、するのだろう。
なぜなら自分は未成年で、世間では「まだなんの責任も取れない」ということになっている。
一方、遼太郎は立派な成人だ。
この際、事実がどうであろうと関係がない。自分と遼太郎では、喧嘩扱いにすらして貰えない。
大人と子供は、全く対等ではないのだ。
(権利ってなんだ)
もっともらしいことを言っているけれど、単に遼太郎が罪の意識を抱えながらじっとしていられないだけだろう。だから、さっさと懺悔して誰かに処理してもらって、昨日の夜を一刻も早く片付けてしまいたいのだ。
(なんだそれ)
和臣は慎重に息を吸い、吐き出した。でないと、柄にもなく声を荒げてしまいそうだった。
「あの、ごめん」
なるべく小さな声で言うと、遼太郎がハッとして顔を上げた。
「ちょっとトイレに行ってきていい?」
「あ、……ああ」
ややあって、やっとのことで頷いたから「ごめんね」ともう一度言って立ちあがり、和臣は部屋を出た。二階のトイレを素通りして階段を下り、居間を覗き込む。
菜々子がぽつんとひとりで、テレビを見ていた。
(バカじゃないのかあのひと)
思わず怒鳴りそうになって、無理やり呑み込んだ。
(なにしてんだよ)
たまの休みだというのに実の娘を放り出し、甥の部屋で土下座している親父も、土下座させた自分も、どちらも腹立たしくてたまらない。
ただ触れたかったからそうした。気が向いた遼太郎もそれに答えた。それだけではどうしてダメなのか。昨日の熱も痛みも心地よさも涙も優しい仕草も全部間違いで、自分がまだ未成年であることが罪で、だから全部犯罪で、汚いことだというのだろうか。
本当に、心底、腹が立った。
「……菜々ちゃん」
呼ぶと菜々子が振り向いて、「おにいちゃん!」と立ちあがった。
「もう寝てなくていいの? だいじょうぶ?」
「うん。大丈夫。心配かけてごめん。これからちょっと用があるんだけど、留守番頼んでも平気?」
「いいよ。お留守番、できる」
「ありがとう。夜には帰るから」
できるだけ優しく言って、手を上げる。菜々子も「いってらっしゃい」と小さく手を振ってくれた。玄関先で靴を突っかけながら、和臣は握っていた二つ折りの携帯を開き、アドレス帳をたぐってボタンを押した。ほどなくプル音が止まり「よう」と陽気な声が出た。あんまり陽気だったので内心少しムッとしたけれど、それは単なる八つ当たりだとわかっているから、できるだけ同じくらい陽気に答えた。
「俺です」
『おっせーよ大塚』
「悪い、寝てた」
『土曜の朝から昼寝かよ』
「うん。ちょっと寝不足でさ」
『お、なんだなんだ? なーにやってたんだよ』
「秘密」
言いながら外に出て、和臣は堂島家を振り返ってあおのいた。
目を見開いた遼太郎が、和臣の部屋の窓硝子越しに張り付いていた。わざとそれを眇めるように見つめ上げながら、和臣はやや大きな声で続けた。
「まだ間に合う?」
『しょーがねー。待っててやるからすぐ来いよ。いまジュネスのフードコートにいるからさ』
「ん、わかった。じゃあすぐ行く」
早くしろよ、と言う声を聞きながら、返事はせずに通話終了ボタンを押した。とたん、がらりと二階の窓が開く。なにか言いたげな、けれども近所を憚って声を上げられずに大口を開けた男を見て、薄く笑ってやった。
「さっきの話はいますぐでなくていいんですよね。俺、急ぎの用を思い出したから、出かけてきます」
やんわりと言い捨てて、和臣は堂島家に背を向けた。
ものすごく頭に来ていて、心底うんざりしていた。
ジュネスのフードコートに駆けつけると、和臣に気づいた陽介が手を上げた。
「お、来た来た。おーい、こっち!」
自分も手を上げようとして、陽介の脇にもうひとり、かったるそうに頬杖をついている男がいると気づいた。
「完二」
「うぃーッス」
「……珍しいな、この組み合わせ」
「だって、おまえつかまんないし。どうしよっかなと思って試しに完二の家電かけたら、暇そうにしてたからさ。いっちょ親睦を深めようかと思って」
「誰が暇だよ。アンタがいいから来いってしつこかったんだろうが」
完二が憮然と抗議する。
「いーだろ。実際、どーせ家でゴロゴロしてたんだし」
「見てもねえのに断言すんなっつの」
「なんかしてたのか?」
和臣が首を傾げると、完二は慌ててそっぽを向いた。
「や……その、別に。話すほどのことじゃないッス」
「お。なんだなんだ。話すの恥ずかしいことしてたのか?」
「るせーっての! 帰るぞコラッ」
「まあまあ」和臣は真っ赤になって怒鳴る完二の肩を軽く叩いた。「で、今日はなんの企画?」
「それは到着してからのお楽しみ、ってね」
意味ありげに笑って、陽介が先頭に立って歩き出した。和臣と完二は首を傾げ、顔を見合わせつつ、あとに続く。
陽介の家はジュネスから道を二本ばかり隔ててすぐだった。白が基調のこぎれいな一戸建てだ。脇にある庭は小さいが、手が行き届いていて、きれいな色の花がいくつも咲いている。
「そういえば、花村の家って初めて来たな」
「あれ、そうだっけ?」
「うん。おまえは勝手にうちに来るけど」
「なんか、結構フツーだな」
完二が呟くと、陽介は眉根を顰めた。
「おまえな、どんな家を想像してたんだよ」
「だってアンタん家、ジュネスのボスだろ? なんつか、もっとどーんとしたヤツかと」
「バーカ。ジュネスの店長なんて単なるサラリーマンだぞ。家も会社の借り上げなの」
肩をすくめて、陽介は玄関を開けた。
「ま、遠慮しないであがれよ。いま誰もいねーから。そこ、手前がリビングだからちょい座って待ってろ」
二階へ上がっていく花村の背中を見送って、和臣は言われた部屋の扉を開けた。
大きな窓がある日当たりのよいリビングには、L字のソファがひと組と、大型の液晶テレビが置いてあった。
「ンだぁ、このでっけえテレビ」
完二が呆れたように呟いた。和臣は、目の前のリビングとはかけ離れた堂島家の居間を思い出して、ため息を吐いた。
(……菜々ちゃん、まだひとりでテレビ観てるかな)
「ジュネスにあるやつと似てンな」
(それとも、遼太郎さんが気をきかせてどこかへでかけるとか……いや、無理か。機嫌悪くしてないといいけど)
「これなら行けンじゃねッスかね、あっち」
(……いまごろ何考えてんだろ、あのひと)
「先輩?」
「え?」
ふいと呼ばれ、和臣が首を傾げると、完二は怪訝そうな顔をした。
「あ……悪い。ちょっと考え事してた」
「いや、大したことじゃねえけど。ここン家のテレビ、入れそうだなって言ったんスよ」
「ああ、うん。そうだな」
「先輩、大丈夫ッスか」
「なにが?」
「その、さっきから顔色よくねえみてーだけど」
驚いて、和臣は思わずまばたいた。
「へえ、よく見てるな」
「ンな真っ白い顔してりゃ、見ればわかンだよ。しんどい思いまでしてわざわざ来なくてもいいんじゃねッスか」
「いや、ちょっと寝不足なだけだし」
疑いを含むまなざしが前からぶつかったから、和臣はにっこりと笑って見せた。
「心配してくれてありがとう」
「……そんなんじゃねっつってんだろ」
居心地の悪そうな顔をして、完二は目を逸らした。このいかつい後輩は顔に似合わず案外細やかで、照れ屋だ。
「ん? おまえらなに突っ立ってんの」
陽介が戻って来て、ひょこっと廊下から顔を出した。
「いや、テレビがデカいから入れそうだなって話してたとこ。すごいなこれ。シアタールームみたいで」
「ああ、まあな」
曖昧に返事をしつつ陽介は後ろ手で扉を閉め、どこかコソコソした素振りでリビングに入ってくる。
「いつもここで見てるのか? マヨナカテレビ」
「まっさか。家族いんだぜ? 自分の部屋のちっこいヤツで見てるって。ほら、いいから座れよ」
そう言って陽介はテレビの前にしゃがんだ。テレビの下にはDVDデッキが見える。
「……なに? ひょっとしてなんか観んの?」
「まあなー」
へらりとおかしな笑い方をして陽介が立ちあがり、わざわざ部屋のカーテンを閉めてからリモコンのスイッチを押した。
テレビに電源が入る。
暗転した画面が突然、色鮮やかに映り、声が出た。
アップで映し出されたのは目にも眩しい肌色。
耳に飛び込んできたのは女性の艶かしくて高い声だった。
「ハア!?」
完二が素っ頓狂な声を上げて立ちあがった。
「ちょ、……ンだよ、これは!」
「……ポルノビデオじゃないか?」
冷静に言ったら、ものすごい勢いで睨まれた。
「言うんじゃねえよバカ!!」
完二の顔は暗がりでもわかるほど真っ赤だ。
無理はない。少々きわどい内容のようで、いきなり男優数人が女優を取り囲んで野外プレイが始まった。おまけにインターネットで見るようなビデオとは比べものにならないくらい、画質がいい。ボカシもない。
「どうしたんだ、これ。結構ヤバくない?」
「ヤバいヤバい、無修正。ジュネスにバイト来てるヤツが回してやるって貸してくれてさ。俺ひとりじゃもったいねーから、お裾分けしよっかなーと思って。スゲーだろ?」
「なるほど」
自信満々に言う陽介に、和臣は思わず苦笑した。
(だからこのメンツなわけか)
これではさすがに女子は呼べない。
「な? 結構女優のレベル高くね?」
「んーそうだな」
「あれ、好みじゃない?」
「AV女優ってわりと顔の傾向似てるし、あんまり気にしてない、かな」
「ひょっとしてあんま観ないクチ?」
「全然ってこともないけど、しょっちゅうでもない。回されれば観るし、普通だと思うけど」
「けど? こっち来てからベッドじゃねーから隠し場所ないし?」
にやにやする陽介に、和臣は肩をすくめた。
「一応忠告しとくけど、隠し場所をベッドの下限定にしとくから家族に見つかるんだと思う」
「うっせ! 言うな」
「帰る!」
仁王立ちで完二が叫んだ。
「ンだよ完二。……あ、そっか。おまえ、アレか。男子専──」
「ち、げ、え!!」
「おわっ! おま、蹴るな!」
しかし既に蹴られて、陽介はオットマンから転げ落ちている。
「こ、こんなン、雁首揃えて見るモンかよッ!?」
「え、けどいつもひとりでコソコソ見るのってアレじゃね? たまに虚しくね?」
陽介が同意を求める目でこっちを見た。
「……ま、我に返るとな。いいから諦めて座れば、完二。これも経験だと思って」
「せ、先輩っ!」
完二が悲鳴のような声を上げる。
「だって、いま帰ったら男子専用認定なんじゃないか?」
「だからチゲーっつってンだろ!?」
「違うならいーじゃんか、座れって。……お!」
陽介が息を呑んで画面を見つめた。
つられて視線を転じると、画面では激しい挿入シーンが始まっていた。女優が前と後ろから攻められていて、妙な沈黙の中、部屋中が高い喘ぎ声でいっぱいになる。
和臣はしげしげと画面に見入った。
(みんな結構デカイな)
たぶん、このタイミングで男優を見ているのは自分だけだろう。
(でも、やっぱり遼太郎さんの方がデカイかも。括れのとこが太いっていうか)
だが、画面に映っているといまいち尺が分からない。
ちらりと横を見ると、いつの間にか完二がソファにちょこんと座って、食い入るように画面を見つめていた。
(……こいつも結構デカイような)
目の前の画面と見比べてみたが、やはりよくわからない。服を着ているからなおさらだ。
つい気になって、和臣は完二の股間を掴み上げた。
「うおぁあ!!」
完二が文字通り、飛び上がった。
「わあっ! な、なンだよっ、いきなりでっかい声出すなよ! ビビんだろっ!?」
陽介まで仰天した顔で立ちあがった。
「あ、ごめん。邪魔して」
「テ、テメ、ふ、ふ、」
「ふざけてない、ない。ちょっと他人の大きさが気になっただけ」
「こ、この……ッ、チキショ、オマ、し、シメっぞ!! ああ!?」
「わかった、もうしないから」
「あ、あ、当たり前だっ!!」
「なにやってんだよオマエら……静かに観ろよ、静かに。あー……みろ、終わっちまった」
ガッカリ言って、陽介が座り込む。
「悪い。ちょっと気になって」
「完二のチンポの大きさ計ってどーすんだよオマエ。なに? ちっさいの気にしてたりすんの?」
「いや、気にするほど小さくない。なんていうか、ちょっとした出来心、かな」
「で……」
完二が口を開いて絶句した。
「あ、完二の名誉のために言っておくけど、おまえのは結構立派だと思うぞ」
「おーよかったな。大塚に褒められて」
「ほっ、褒めんなッ!!」
「けなされるよかいーだろ。あーわざわざ巻き戻すのもアホらしいから他の観るかー。これ、三本くらい入っててさ」
陽介がリモコンを操作すると、タイトル画面に切り替わった。品のないダジャレもすれすれのタイトルが三本、原色で大きく書いてある。
(にしても、女ってすごいな)
あの大きさがあんな易々と挿るのか、と思わず感心した。とたんに自分の尻がヒリつく。
(けど、しょうがないよな。俺のは本来あんなもの突っ込むとこじゃないし。ていうか、冷静に考えればバックって直腸だし)
男の自分がなんの準備もなしにあんなデカいものを突っ込めば、出血くらい当たり前、むしろ全部挿ったのが不思議なくらいだ。
(そういや女だって挿れる前に指で慣らすくらいするよな。ローション使ったり)
だが、慣らす余裕があるほど落ち着いていたら、きっとあんな展開にはなっていない。
(挿りやすければもうちょっと気持ちいいのか、ひょっとして)
正直、熱と痛みと初めて感じる生理的な衝撃だけで手一杯だった。堪えきれずに射精はしたけれど、冷静に考えると、いわゆる絶頂でイッたのとは違う気もする。もっと違う感覚が、まだ先があるのじゃないか、と思えてならない。
また、テレビから湿った音が響き始めた。今度は部屋の中だった。女優が男優のものを頬張り、男優は女優の乳房をこね回している。
(そういえば、胸なんて触らなかったな)
女を抱くなら必ず触れる場所だろうが、まあ確かに、平らな胸を弄っても面白くないだろう。
(……男でもやってみたら案外気持ちよかったり?)
自分でするとき、胸を弄ったりしないからわからない。別の男の胸を愛撫した経験も当然ないし、昨日はそんなことまで頭が回らなかった。
もししてやったら、遼太郎はどんな顔をしただろう。胸の尖りを噛んで、舌先で押しつぶして乳暈をぐるりとなぞったら、押し殺した熱い息づかいがもっと乱れただろうか。
──もっと。
(でも、……昨日だってそうとう固かった)
狭い場所が無理やり抉られ、まるで鉄の火箸がめり込んだように熱かった。最奥に突き当たったときの衝撃を思い出し──じんわり下肢が脈打った。
(……なに考えてるんだろ、俺)
これではもう一度、遼太郎と本気で寝たいみたいだ。
向こうはひどい間違いを冒したと思っていて、必死で片付けてしまおうとしているのに。
(自分からキスしたくせに)
たぶん、その辺りは覚えていないだろう。せいぜい挿入して以降しか記憶にないはずだ。
(中で出したくせに。気持ちよかったくせに、あの酔っぱらい)
けれど、遼太郎は言い訳をしなかった。暴行したことを悔いているから、誰かに──和臣自身に罰せられたがっている。
(でも俺は別に強姦されたつもりないし。乗っかったのは俺だし)
またふつふつと出口のない怒気がこみあげてきて、和臣はため息を吐いた。怒るのは疲れる。苛々する自分を見るのも好きじゃない。だから遼太郎の顔を見ていたくなくて家を出てきたのに。
頭は思いと裏腹で、さっきからひっきりなしに遼太郎のことばかり考えている。
画面を眺めると、いつの間にか挿入シーンが始まっていた。
感極まった声と一緒に、ぐちゅぐちゅと水気を含んだいやらしい音がする。
気持ちいいんだろう、と耳許で囁かれた女優は、身もだえて男優にしがみついた。そう、あの体勢だとシーツをかき乱すか、背中にすがるかしかない。ほかに掴まるところがないのだ。
(そういえば……背中、ひっかいたかも)
あのとき、あの瞬間、遼太郎は自分の両腕の中にあった。疼く熱も、掠れた声も、腫れぼったい目許も、背中も、全て。
こんなことなら、あのときもっとひどいことをすればよかった。
遼太郎が責任を感じたりできないほど自分から、強く。間違ったなんて思えないように、忘れたいなんて考えられないほど、心地良く。
(……ダメだ。俺、今日は頭がそうとうバカになってる)
自分の悪ふざけから始まった、酔っぱらった同性相手のセックスなんて、ただの不毛で最低な交通事故だ。たしかに遼太郎は、分別のある立派な大人なのだろう。さっさと忘れてしまおうと思わない自分の方がよほどおかしい。
そうとわかっているが、簡単に全部捨ててしまえる遼太郎にも腹が立つ。
怒りなんて感情はエネルギーの浪費だ。さっさと静まってほしいのに、自分の気持ちが思うようにならなくて、それがまた心底腹立たしい。堂々巡りだ。
それもこれも、きっと極度の寝不足だからに違いない。
(ケツ痛い……)
一定のリズムを刻む女の喘ぎ声を聞きながら、和臣は大きなあくびをした。
「ぎゃぁあッ!」
「うおぁ!!」
完二が再び唐突な叫び声を上げ、つられて陽介も飛び上がった。
「ンだよ完二!! またいいトコでオマ……ん?」
万歳の姿勢で固まった完二の膝に、和臣がころりと倒れていた。
「えーと……今度の趣向はひざまくら?」
「ざ、ざけンのもいい加減にしやがれッ、奥歯ガタガタ言わすぞコラァ!!」
完二が涙目で怒鳴って、和臣の襟首を掴んだ。くたりと上半身がねじれたところを覗き込むと──彼は寝ていた。
「もしもーし……大塚さーん?」
おかしな体勢で完二に吊し上げられ、それでも和臣は目を開かない。おまけに規則正しい息づかいが聞こえてくる。
「……こりゃマジ寝だな」
「確かに、寝不足だっつってたけどよ……」
背後ではクライマックスが近そうな女優の、悲鳴じみた嬌声がひっきりなしに響いている。
「……にしても、おかしくねえか? コイツ」
「この状況で爆睡ってのがまあ、なんつーか、さすがってーか……」
陽介と完二は顔を見合わせた。
仕方なく、完二は起きる気配のない和臣をそろそろとソファに横たえ、陽介は肩をすくめつつDVDリモコンの再生停止ボタンを押しこんだ。