いつも、忘れたふりをしているだけだ。
本当は、よく覚えている。
力を手にした瞬間感じた、腹の底から喉元へ突き上げるような──快感を。
「そっち、頼む!」
花村が叫ぶより早く、大塚は動いていた。敵はあと一体──手負いのシャドウ。
ジライヤの生み出した逆巻く風に切り裂かれ、ぐずぐずと半身を床に崩しながらも、シャドウは口を裂けんばかりに開けて肉薄してくる。声になりきらない暴風に似た咆哮が心臓を直に、容赦なく叩く。
けれど、もう慣れた。
倒せる。
手首を返すと、かちりと手許で刃が鳴る。腕を振り上げるシャドウよりも早く、一歩大きく懐に踏み込んだ。渾身の力で刀を水平に薙ぐと、人の胴体よりも太い腕が引きちぎれて宙を舞った。
シャドウが再び、嘶える。
死──消滅に瀕して上げる声はただの本能か。それとも恐怖、あるいは怒りだろうか。
ぼんやり頭の隅でそんなことを考えながら、目の高さで手のひらを閃かせた。
ちり、と焦げつく気配の後、現れたのはまばゆい一枚のカードだ。勢いよく握りつぶすと、光が、砕ける。
「ペルソナ!」
青い炎が背骨を焼き、吹き上がる。現れる、イザナギ。間髪入れず、稲妻がシャドウを天から地へと貫くと、打たれたシャドウは目の前からかき消えた。
「さっすが大塚!」
花村が弾む声を上げて、駆け寄ってくる。
「やっぱ頼りになるぜ、相棒」
「怪我はない? 大塚くん」
気遣わしげな天城の声に「大丈夫」と軽く頷いた。痛むところはなかった。
「すげッスね、先輩」
完二が心底感心したように言うと、花村が自信満々に完二を小突いた。
「だから言ったろ? こいつスゲーって。打ってよし、守ってよし。おまけに出せるペルソナもひとつじゃない、いくつも自由自在に操れるってんだから参るよな」
「あんたが威張るなよ」
「うっせ。いーだろ、俺の相棒なんだから」
「なんだそりゃ。……にしても、俺なんかにゃぜってーできねえな。ペルソナ一体でも大変だってのに、いくつも使えなんて言われた日にゃ、頭がこんがらがっておかしくなっちまうぜ」
「ま、特訓の甲斐あって完二も無事自分のペルソナ使えるようになってきたことだし、そろそろ帰るか。りせちーのことはスゲー心配だけど、肝心の俺らが参ったらどうしようもねーし。初日のダンジョンにしては、ここまで来られりゃ上出来だろ」
「うぃーッス」
「うん。きっと千枝も今ごろ待ちきれなくて足踏みしてるよ」
「里中来たがってたからなー」
久慈川りせがテレビに囚われた。早々に救出作戦、というところまでは全員意見が一致したが、誰が中へ入るかなかなか決まらずに散々揉め、結局じゃんけんで決めた。
「けど入り口がら空きにして、もしシャドウに帰り道塞がれたりしたら、俺ら帰れなくなっちまうもんな。クマだけじゃどーも頼りねーしさ」
「花村くんてば、そんなこと言ったらクマくんが怒るよ」
「んじゃま、里中が頼もしすぎるってことで。よし、戻ろーぜ」
花村と天城が連れ立って歩き出す。
「ん? 先輩、大塚先輩」
ふたりの後について歩き出した完二が、ふいと立ち止まって振り返った。
「どしたンすか」
「……え」
とっさに意味がわからなくてまばたくと、完二がいぶかしげな顔をした。
「え、じゃねえよ。なに突っ立ってんだ。帰ろうぜ」
「──ああ、そっか。そうだな。ごめん」
帰ろうぜ。
(……そうだ、帰らないと)
のぼせたみたいに、身体の芯が熱い。ぼうっとしていた。
「ガス欠ッスか?」
「いや、大丈夫。元気」
小さく笑って、歩き出す。
「それより完二、今日の感想は?」
完二は口端を上げて力こぶを作って見せた。
「なんつうかこう、すかーっとするッスよ。次からはもっとぶっ倒してやる! 先輩らにばっか、いいかっこさせられねえ」
「頼もしいな。じゃあ完二が一人前になったら、俺は隠居してクマと留守番してよう」
「なにジジむさいこと言ってンすか。その……」
急に言葉を濁したから、ちらりと見あげた。するとあらぬ方を見あげて、完二はほんの少し照れくさそうに「スゲ、かっこよかったッスよ」と呟いた。
「その、やっぱ、さすがみんなからリーダーって言われるだけのことあるっていうか……ずっとついて行こうって気にさせられるっつうか」
「おおっと!」前を歩いていた花村が急に振り返って、大仰に仰け反った。「それってやっぱあれか? 男子専──」
「うっせえ! その話すんなっ!!」
いきなり、完二が花村のケツを蹴り上げた。
「痛っ! おまっ、暴力振るうな! 大体あんま本気で反論されっと余計こえーだろ!!」
「知るかクソ! 蹴るぞこの野郎!!」
「もう蹴ってんだろ!!」
「ふたりとも、あんまり騒いでるとまたシャドウが出てきちゃうよ」
「ドンと来いやぁ!」
「バカっ、ホントに出たらどーすんだ! 最初に飛ばしすぎてもうとっくにカスカスのくせして!」
「カスだと!? 俺に向かってカスたぁいい度胸じゃねえか、表出ろ!」
「だからっ、さっきから表に出ようっつってんだろうが!」
「その辺で止めとけよ、ふたりとも」
「けど先輩!」
「別にいいだろ、男子専用でも」
「ンなこたぁわかって──……は?」
完二が口をあんぐり開けて首を傾げた。
間近で高い悲鳴が上がったのは、そのときだった。
「きゃあっ!」
いきなり天城が床へ倒れ伏した。
「天城っ! ──っう、ぁ!」
続けて隣にいた花村が叫び、間髪入れずに向かいの壁まではじき飛ばされ、衝撃で苦無を取り落とした。
「!? 花村先輩ッ! 天城先輩ッ!」
突然のことに驚きつつ、完二は叫んでふたりに駆け寄ろうとしたが、しかしぎょっとして思わず立ち止まった。
ゆらりと廊下の角から影が立ちあがった。
「シャドウ……!」
──不意打ち。
死角にいて、全く見えなかった。
辛うじて立っている花村の前へ大塚が滑り出ると、庇うように立ち、剣を構えた。動く影を捉えたのか、シャドウは大塚に向けて手にした槍を振りかざした。
「先輩らになにしやがるッ、この馬公!」
とっさに叫んで、前へ飛び出した。
「バカ! 無理すんな完二!」
花村の叫び声がしたが、振りかえる余裕も、止まる余裕も、どちらもなかった。いましも大塚を蹴散らさんばかりに襲いかかる長槍を食い止めるため、命じる。
「ペルソナァ!」
腹に力を入れ、眉間に強く意識を集中すると、長方形のカードが揺らめきながら現れる。まばゆいそれを手にした鉄板で粉砕し、完二は唯一無二である相棒の名を叫んだ。
「来いっ、タケミカヅチ!」
古い神話の荒ぶる雷神──けれども、そんなことは後から聞いた。ただ名が頭に浮かんで、誰に教えられたわけでもないのにそう呼ぶべきだと識った。なぜだかは、いまも分からない。
主の声に応え、完二の背後へ重く黒い気配が屹立する。
「蹴散らせ!」
タケミカヅチが腕を振りかざし、手にした黄金の武器を振りかざす。
辺りをつんざく雷鳴──そしてホワイトアウト。手応えは、あった。しかし、闇を順えた騎士擬きを止めるほどの威力はなかった。
古びた造りの槍が、間髪入れずに突き出された。瞬間的に、無理だ、と頭の隅で思った。この距離では避けられない。
とたん黒い旋風が首筋を掠めて肩の骨に突き当たり、ガン、と熱が弾けた。あまりの激痛に声も出ず、完二は磨き込まれた床を滑って転げた。
「…………っ!」
「完二!」
誰か、自分の名を呼ばわって駆けつける足音がした。目前で戦う気配がある。なのに、起き上がれない。
(怠けてンじゃねえぞ、俺……ッ!)
歯を食いしばり、やっとのことで頭をもちあげた。だが視点が定まらず、揺れる。目を凝らしても、ものがうまく見えない。
(クソッ、あの野郎、どこ行きやがった……ッ!)
初めて足を踏み入れたダンジョンの廊下は照明の色が強く、影も濃くて、目がチカチカする。必死にかぶりを振り、もう一度力をこめて正面を睨み据えようとしたとき、
「大塚、も、よせ……っ!」苦虫を噛んだような花村の声がした。「それ以上、深追いすんな……ッ」
何度かまばたくと、廊下の向こうへ消えようとする黒い影が見えた。それから、白いワイシャツの背中も。
「先輩ッ! 大塚先輩!」
大塚らしき背中は振り向きもせず、シャドウの後を追ってゆく。
「クソっ、あのバカ……」
花村ががくんと床へへたり込んだ。
「なに熱くなってんだ、……わざわざ追っかけなくたっていいっつうの……っ!」
「俺が行くッス!」なんとか、鉄板にすがりつきつつ立ちあがる。「先輩ら、あとから来いよ!」
重い足を叱咤しつつ、完二は曲がりくねった廊下をひた走った。
肺が役立たずだ。いくら吸っても充分な空気が入ってこない。喉元で木枯らしのような音がひっきりなしに鳴っている。
(花村先輩の言うとおりだぜ。向こうが逃げたンなら放っておきゃいいってのによ!)
いくら不意のこととは言え、対峙するにはこちらが明らかに力不足だ。そこを、なにを思ったか相手の方が先に退いたのだから、この隙に外へ出るべきだろう。
自分もついカッとなる方だし、負かされるのは面白くないし、逃げるのは嫌いだけれど、それくらいの判断はできる。
いまの状況は「ボロ負け」だ。
(「なに熱くなってんだ」)
──だが、そうなのだろうか?
(わっけわかんねえ)
平素、大塚和臣という男は、熱血漢では決してないと思う。かと言って、冷ややかなタチでもない。鷹揚で、朗らかだが煩くはなく、そつないし、押しつけがましいところもなく、感情にブレもなく──けれどなぜだかその場にいるだけでひとの目を惹く。周りに纏わる空気が、周りの誰ともどこか違った。
(「すっごいよねえ、転校してきて即学年一位だもん。やっぱ都会は違うってこと?」)
先日そうぼやいていたのは里中だ。
花村も「都会から来た高校生」という垢抜けた雰囲気なのだが、彼はまた違う。「都会の匂いがする」という言い方が一番近いだろうか。
「都会」そのものの持つイメージそのもの。
こぎれいで、泰然としていて、来る者を拒まず、誰でも受け入れるけれど──少し、得体の知れないかんじ。
(……なんでだ?)
ふいとそんなことを思った自分に、完二は首をひねった。
非の打ち所がない優等生。彼に対する評価と言えばこのひと言に尽きる。なのに、自分はどうしてそんなふうに思うのだろう。
「ペルソナ!」
勁い声が、急に鼓膜へ切り込んできた。
角を曲がって、突き当たりだ。分厚いビロードのカーテンがかすかに揺れている。
「先輩っ!」
大きなひだが邪魔で、力任せになぎ払った。
とたん、どっと前から圧力が押し寄せてくる。
(でけえ)
完二は思わず息を呑んだ。部屋が狭いせいか、それとも距離が縮まったせいか、対峙するシャドウは先ほどよりもずっと大きく、まるで黒い山のように見えた。その分、手前に立つ大塚の背中がいかにも小さく見えて、思わず背筋が震えた。
騎士を気取った出で立ちの影を乗せ、大きな馬影は竿立ちになって大塚へのしかかる。
「危ねえッ!」
完二は力の限り叫んだ。しかし、大塚の動きはそれよりも速かった。無言で進み出ると、冴えた剣花が辺りに散る。追突してくる相手の力を刀で受け留めて流し、大塚は何とか踏みとどまった。
だが間髪入れず、今度は自分たちの身の丈よりもずっと長い槍が唸りを上げ、大塚の頭上目がけて振り下ろされた。シャドウは声など発していないのに、まるで猛獣が哮るように空気が震えた。
思わず足が竦みそうになるのを叱咤し、完二は歯を食いしばって踏み出す。
(畜生、やらせねえ!)
しばらくふたりで凌ぐことができれば、きっと後から花村と天城が駆けつけてくれるはずだ。
彼の背中を守ればいい。ただ、それだけ。
自分にはいま、その力がある。仲間に助けられ、自らと向き合って手に入れた。
いま必要なのは、自分を信じる気持ちだけだ。
──できる、絶対に!
「うぉおおおお!」
吼えながら、完二は敵の正面から突進し、馬の鼻っ面を力の限りひっぱたいた。
巨体は煩わしげに長い首を振るい、わずかに傾ぐ。しかし、致命傷になるような力はもちろんない。すぐさま体勢を立て直し、頭を巡らせた。
「先輩、加勢するッス!」
舌打ちしつつ叫び、完二は大塚の隣に滑り込んだ。
しかし、彼はこちらを見向きもせず、ただ突っ立ったまま動かない。取り乱すふうでもなく、さりとて怯むふうでもなく、ただ目の前の敵をぼんやりと見据えている。
「オ、オイ! 先輩っ!」
すると聞いているのかいないのか、大塚はレンズの向こうでわずかに目蓋を細めた。
まるで、何か見えないものへ狙いを定めるように宙を見据える。ややあってから形のいい指がつい、と滑るように差し出された。
(──あ)
整った長い指先を伝い、まばゆい一枚のカードが目頭の辺りに滲み出た。ほの蒼い鱗粉を纏う蝶が、鮮やかに舞う。
そして静かに、力強く、名を呼んだ。
「ペルソナ──イザナギ」
刹那、カードが手のひらの中で粉々に砕ける。
その姿を間近で見た完二は、目を見開き、面食らって呆けた。
(マジかよ)
こんなときに。
やるか、やられるかというときに。
(笑って、やがる)
この男は勝つ気だ。
完二が瞠目している間に、大塚は額の辺りで光の塊を握りつぶす。青い炎が、彼の背骨を舐めるように這い上がり、吹き上がった。火影の隙間から立ち上るのは諸元の神・イザナギ。白のたすきをはためかせ、その異形は身の丈ほどもある剣を勢いつけて振るう。間髪入れず、シャドウを刺し貫き、幾度もなぎ払った。
(すげえ)
まだ自分のことに手一杯で、必死で、いつも隣にいたのに──初めて余すところなく、つぶさに見た。特訓に付き合って貰ったときとは訳が違う。
鋭利で迷いのない、舞いのような太刀さばき。
(負けるわけねえ)
根拠もなく、そう思わせるに足る。
我知らず鳥肌が立った。
やがて数限りなく繰り出される容赦のないイザナギの剣に、くらりと巨大な馬が大きく傾ぎ、バランスを欠いた。
「行くぞ」
ぽつんと言って、大塚が動いた。
自分に向けられた声だとわかるまでひと息遅れた。が、この声は知っている。いつも隣から聞こえる声だ。
背筋が伸び、あとは勝手に身体が動いた。
「っしゃあ!」
すぐさま叫んで、完二は大塚と並んで前へ飛び出した。
動けなくなって床でもがくシャドウへしゃにむに攻撃をしかけると、やがて黒い馬影はひれ伏すように二つに折れる。
「──さっさと消えちまえッ!」
まさに死ぬ気で吐き出したその語勢を理解したか、シャドウはほどなく気化するように、消えた。
壁を背にし、完二はその場にずるずるとしゃがみ込んだ。
急にどっと身体が重くなり、胸の裏から叩かれるような動悸が喉元に迫り上がってきてひどい目眩がする。
「あー……クソッ」
こめかみからひっきりなしに、さざ波に似た血流の音が聞こえる。わずらわしくてサングラスをむしり取り、かぶりを振った。
(みっともねえ)
まだ、慣れない。自分のペルソナが頭から降ってくるようなことはなくなったし、ある程度戦闘で使い物になるようにはなったけれど、終わった、という安心感が押し寄せると糸が切れたようにくたびれる。一戦一戦を全力でやり過ぎているのはわかっているが、力の抜きどころがよくわからないのだ。
「大丈夫か」
頭の上から声が落ちてきて、あおのくと、大塚が覗き込んでいるのがぼんやり見えた。
「……ういッス」
「危ないところ、ありがとうな。助かった」
ウソだろう、と思ったが、口にするのは止めて別のことを聞いた。
「ンで、わざわざ追っかけたりしたんスか」
すると大塚は少し考えこんでから、
「つい」苦笑した声で言った。「なんか、カッとなって」
「らしくねッスよ。ンな、通り魔みてーな」
「そうか?」
「そッスよ」
「まあ、いいだろ。……それより、それ」
大塚の手が首筋に伸びてきた。
「ッ、イッテエ!」
さっきシャドウに槍で突かれたところを触れられ、痛みが急に戻って来た。戦うのに必死で、痛いどころの騒ぎではなかったのだ。
「治そうか」
「や、……も、いっス。先輩だって疲れてンだろーし。こんくらい舐めときゃ治るッスから」
「ふぅん」
大塚がわずかに目を細めた。
(──あ)
軽い、デジャヴ。
どこかで見た顔だ、と頭の隅で思い、どこだったかと記憶の糸をつらつら手繰った。
それがまずかった。
大塚の背がこちらへ傾いできたことに、全然気づかなかった。
「イ──」
とたん、ひり、と首筋に火が点いた。
それが、屈み込んだ大塚が自分の首筋に唇を這わせたせいだと気づくまで、ずいぶん時間が掛かった。生暖かいものが首筋から付け根まで行き来し、歯が傷口をかすめた痛みだったと気づくには、さらに時を要した。
「な……イテ、イテテッ、ちょっオマ……ああ!?」
完二は弾けたように叫んだが、我ながら呆れるくらい要領を得ない、うろたえた声だった。すると大塚は喉の奥で含み笑って、
「だって自分じゃ舐めるの無理だろう、こんなとこ」
囁くように言い、ちゅ、と音を立てて首筋に口づけた。
「ば、バカッちげッ、そりゃ言葉の綾つぅヤツだろうが、──……ッ!」
じゅる、と皮膚を吸い上げる湿った音が耳の近くで弾け、あまりの驚愕で殴ろうと思ったのにできなかった。
しかも、あろうことか、腰の近くがずきりと甘く疼いた。
(まっ……待て、俺、そいつはさすがに──ありえねえだろ!?)
自慢じゃないが、頭は悪い。だが、これが何かわからないふりができるほど幼くはない。
(けど、ちが……俺は、ホモじゃねえ!)
泡を食って愕然としている完二を置き去りにし、大塚の湿った舌先はなおも優しく首筋を撫で回した。妙に丁寧な仕草からわき出る熱と痛みと、理性が板挟みになって、ひときわひどい目眩がする。息が細かく零れる。力を入れていないとおかしなことを口走ってしまいそうな気がして思わず歯を食いしばり、つられて目蓋もぎゅっと閉じた。
「コトバノアヤなんて、難しい言葉知ってるんだな」
吐息がこそばゆい距離で声がして、完二は目を見開いた。
(コイツ)
口端が笑む形をしていた。
「かわいい」
からかわれている。確実に。そうとしか思えない。
そういう冗談は、大嫌いだ。
「ンのやろ……ッ!」
頭に来て、渾身の力で大塚を払い退けると襟首を掴み上げ、床へ突き倒した。
「わ……っ、おい完二」
「るせぇ!」
しゃにむに押さえつけて馬乗りになり、殴ってやろうと腕を振り上げたが、しかし敷き込んだ身体はしゃくに障ることに、もがきもせずじっとしている。自分はといえば、みっともないくらいに息が上がっていた。
襟首を掴み腕を上げたまま、余裕綽々の相手を歯噛みしながら睨み据えると、正面からかちりと視線がかみ合った。サングラスは外したままだったが、近すぎて、はっきりと見えた。
重そうな前髪の間から覗く強い瞳が、完二を見つめ返している。照明のせいか、それとも眼鏡のレンズのせいか、深い色の瞳は表面がうっすらと青味を帯びて見えた。そこへ時折、濃褐色の長い睫毛がゆっくりとまばたいて揺れる。
口許は──まだ笑っていた。
出口を求めてさまよう怒りから来る目眩と、近い過去から舞い降りてくる既視感。
その笑みは、先ほどシャドウに向けたものと同じだ。
負かされるのは面白くないし、逃げるのは嫌いだ。
そしてたぶん、こいつも同じだ。勝つ気でいる。
「どうしたい? 完二」
ささやくように抑えた声が自分の名を呼んだ瞬間、その微かなさざめきは、完二の朦朧とした頭の芯に火をつけた。
完二は背中を突き飛ばされたように屈み込み、衝突同然に大塚へ自分のくちびるを押し付けた。
「…………っ」
息も吐けないほど深く食らいつくと、大塚が腕の中で、かすれた声にならない声を漏らした。戦いの最中ですらそう乱れることのない大塚の荒れた呼吸を耳で感じた瞬間、爆発するような、しかも今までに覚えのない衝動が身体の真ん中を駆け抜けた。
自分が何をしようとしているのか分からないまま、完二は力任せに抱いた大塚の身体を自分から僅かに引き離すと、両手で大塚の腕を堅くとらえて、もう一度くちびるを強く押し付けた。
「は、……っ」
お互いまるで溺れているように息継ぎをし、くちづけを繰り返す。触れた大塚の唇はわずかにひんやりとしていたが、しかしくちづけを拒んだりはしなかった。それどころか大塚は難なく片腕をほどき、完二の熱を持ったうなじを抱いて、自らへ押し付けるようにする。
(ダメだ)
止まれない。
自分から止めたら負けだという気がして、なおさら後には引けなかった。
薄く開いた大塚の唇を完二は噛んだ。
「……ふ」
大塚の口許から吐息がほろりとこぼれる。たったそれだけのことで鳩尾に湯を浴びせたような熱が広がり、驚いて完二が唇を離すと、今度は大塚の舌がつと追いかけてきて完二の歯列を割った。
「んっ、う」
おかしな声が喉奥から漏れた。
(ヤバい)
ちらりとそう思ったが、大塚のいかにも清潔そうな舌と自分のそれが絡むと、やわらかなぬめりで頭の中が一杯に溢れ返って長続きしない。夢中で舌先を追いかけ、知らない仕草を真似て、やり返すことに夢中になった。思考する力が痺れてしまったように現実感がないまま、唇と、唇でだけ成し得る喧嘩に溺れ込む。
そう、ただの喧嘩だ。このおかしな興奮はそのせい。やられたから、やり返しているだけだ。負けないために。
──なのに、身体が止め処無くどろどろと重くなっていくのはどうしてだろう?
朦朧とした頭の隅でそんなことを考えていると、大塚の滑らかな手のひらが優しくゆっくりと下りてきて、傷ついた完二の首筋をやんわりと撫でた。今度は痛みとは別の、不可解な感覚に皮膚がみるみる覆われ、いままで感じたことのない体内のざわめきに、完二はいよいよ本気で困惑した。指や身体に沁みる形は間違いなくしなやかな筋肉に覆われた男の体なのに、その肌の匂いや髪の柔らかさに甘く平衡感覚が狂う。なのに相手は自分よりもずっと冷たく、水に映る星をかき抱くように手応えがない。自分はふつふつとシャツの下で汗をかいているのに。
勝ちたい──ねじふせたい。自分の手で、この男を。
ふいと脳裏にひらめいた情動に、完二はみたび呆然とした。
(俺、……いったい、どうしちまったってんだ?)
なにか取り返しのつかないことをしている気がして、急に怖くなった。
完二はとうとう堪えきれなくなって大塚の腕をはね除け、喘ぎながらもありったけの力で睨めつけた。
「拭くなよ、口」ほんの少し、大塚の眉根が顰められた。「ふつうに傷つくし」
無意識に口許を擦り上げた拳を見咎められ、瞬間、自分たちが今までなにをしていたかを改めて反芻して赤面した。同時に、とてつもない質量の罪悪感が完二の胸へどっと押し寄せた。
「テメ……ッ、この、ひとをバカにすんのも大概にしやがれ……ッ!」
動揺もあらわに怒鳴った。大塚ひとりが加害者と言うのは虫が良すぎると頭ではわかっていたが、誰かのせいにしてしまわないと、後ろめたさに思わず舌を噛み切ってしまいそうだった。
しかし大塚はそんな完二の様子に怒るでもなく、返ってきた声はむしろ驚くほど静かだった。
「してないよ」
いつの間にか瞳からは笑みが消えていた。なぜだかさらに狭い場所へ追い詰められたような気分になって、完二はいっそう怖じけて声を張り上げた。
「じゃ、じゃあ、いってぇなんのつもりだっつーんだよ」
「それ、もう一度言ってほしいのか? 正直に?」
「ああ!? ンだよ、もう一度って──」
言いかけて、口を噤んだ。
(『──俺、正直者だから』)
舞い降りる、デジャヴ。
(『──目ぐらい、閉じれば』)
目の前に在る大塚の濡れた薄い唇が、もの言いたげに、そっと、動く。
(『──いるよ』)
(『──一年の』)
完二は勢いよく立ちあがり、口許を押さえたまま後じさった。
大塚は座ったままじっと完二を見据え、
「わかった」
人好きのするいつも通りの顔で、柔らかく笑んだ。
なにが、と完二が問うよりも早くもうひと言、ささめくように言う。
「完二が言えっていうまで、もう二度と言わない」
なにを、とは聞き返せずに完二はその場に立ち尽くした。
「おい大塚! 完二! 無事か!? 返事しろ!」
男にしては少し高い声が、廊下から響いてきた。
「花村、天城」
大塚が呼ばわって手を上げると、すぐにふたりが駆け込んできた。そのあと、続いてクマが入ってくる。
「クマも来たクマよ~! アイテム持ってきたクマ。センセイ、カンジも、無事クマ?」
「平気だよ。シャドウも倒した」
「よかった……」
天城が胸に手を当てて心底ホッとしたため息をつくと、横にいた花村は大げさに肩をすくめた。
「ンだよ、心配させやがって! ピンピンしてんじゃねーか」
「まあな。さすがリーダー、だろ?」
「ナチュラルにかっこつけてんじゃねーよ。──かっこいーじゃねえか、このっ」
「いてっ、ちょ、そこ勘弁」
「はいはいお客様、お痒いところは他にございませんかっと……ペルソナ!」
「ホントにいいって、花村」フロアが蒼白く輝き、大塚が苦笑した。「これくらい、──舐めとけば治るから」
完二がどきりとして思わず振りかえると、真っ正面から視線がぶつかった。
「バーカ。ンなとこ、どーやって舐めんだっつうの。ホレ、おしまい」
花村に肩をはたかれ、大塚はついと完二から目を逸らすと苦笑して見せた。
「サンキュ、悪いな」
「本気でそれ言ってんのか? だったら次から無茶すんのやめろよな。おまえがつえーのはわかってっけどさ、心臓に悪ぃって、アレ」
「わかった、わかった。ごめん」
「だーから、本気で言えっての」
「すまん、誠に申し訳ない」
朗らかなやり取りを聞くともなく聞いていると、天城が「完二くん大丈夫?」と近づいてきた。
「へ? あ……すんません、なんスか」
「治そうか? そこ、首のところ。怪我してるでしょ」
「あ……や」
とっさに完二は首筋を自分の手のひらで押さえた。
体温で、傷が沁みる。
「……平気ッス」
そう? と心配そうに首を傾げた天城から視線を外し、完二はもう一度ちらりと大塚を見た。
けれど視線はもう、それっきり結び合わなかった。
ダンジョンを出ると、半ば仲間はずれの憂き目にあった里中はたいそう立腹していた。
「ったくホントにもー、どんだけあたしが心配したと思ってんの!」
「ごめんね、千枝」
「なんで雪子が謝ンの! だいたい、男が雁首揃えて三人もいて、雪子に大怪我させるなんてサイッテー」
「や、その……誠にめんぼくない」
「ラーメン三杯。これ以上びた一文まけらんない」
「そんなんで許して貰えるンなら奢るッスよ……」
花村と完二が項垂れた。そこへ、
「ごめん、里中。もう結構遅いから今日は俺、帰ってもいいか」
さらりと大塚が言い、里中はまん丸い目でまばたいてから「うーん」と腕組みして唸った。
「ま、しょうがないか。キミん家、門限厳しいんだもんね。菜々子ちゃんも待ってるし」
「悪い、サンキュ。今度、個人的に肉奢るから」
「マジ? やった、超ラッキー! ってわけだから花村、今日はしっかり奢ってよ」
「だからっ、なんで俺ばっか絨毯爆撃すんだよおまえは!」
「だって雪子はこれから家の手伝いあんだし、完二くんは慣れてないからヘトヘトでしょ? したら、あんたしかいないじゃん」
「俺が疲れてんのはどうでもいいのかよ!?」
「どうでもいい」
「鬼がおる! 鬼が!」
「るっさい、ホラ、行くよっ」
「ヨースケ、クマもラーメン食べるクマよ~」
「なんでクマ公にまで俺が奢らなきゃなんねーんだっつーの!」
小突きあいながら花村と里中がジュネスに背を向け、続いてクマと天城が歩き出す。
「じゃ、また明日な」
そう言い、大塚もまた家路につま先を向けた。
なのにひとつだけ、その場から動かない人影がある。大塚の頭の後ろに、ひたと強い視線が突き当たっていた。
誰のものかはわかっている。だけど、振りかえることはしない。
(帰らないと、……帰らないと)
何度も唱えながら、歩く。
でないと、また熱がぶり返す。
(忘れないと)
腹の底から喉元へ突き上げるような──快感を。
まだ足りないと思うことを。
もっと欲しいと思うことを。
気持ちいいと思うことを。
なにかに夢中になるのがこれほど楽しいなんて、いままで全然知らなかった。
欲しいと思うものはたいてい易々と手に入れてきたから、飢えることに慣れていない。なにもかも奪い尽くすまで、止まれなくなる予感がした。そうしないと気が済まないだろうという予感も。
欲深い自分の本性に今ごろようやく気づいて、背骨が震える。
「どうしようか」
まだ明るい夕方。ひとけの絶えた田舎道を歩きながら呟き、空を見あげて、届かない青色へと手を伸ばす。
熱くて、熱くて、とても喉が乾いている。
だから明日は、大雨が降ればいい。