霧の中を、歩いている。
そこは薄い紗を通したようにやわらかな光が砕けて溢れ、静謐に冴え渡っている。
床石を踏む自分の靴音が、キチリと、まるでガラスを噛むように細かくて固い音を立てた。我に返る。
(まただ)
頭の隅でぼんやりとそう思いながら、したたるように煙る乳白色の中、伸ばした腕の先すら見失いそうな道を小走りに進む。誰に急かされるでもなく、追い立てられるわけでもないのに、ひたすらに前へと歩き続ける。
道はうねりながら、無言で霧の彼方へ消えてゆく。
(ここ、何度目だ?)
最初はおかしな夢だと思っていた。けれど何度も足を運ぶにつれ、ここはどこか実際の場所だという気がしてきた。確かなものは何も見えないけれど、辺りに満ちる気配はどこまでも冴えている。
気配とはなにか、明確な説明は難しい。衣擦れの音、微かな呼気、温度、生き物にまつわる空気の動き。音かもしれず、ひょっとすると匂いかもしれない。あるいは──視線。
誰かが見ている。そんな気がする。
(けど、誰が?)
わからない。
(どこから、どうやって?)
だが確実に空気を押しのけてくる何かを感じる。皮膚が微かな粒子のぶつかりを無意識に拾い、産毛を震わせている。
そして、これが夢であるはずはないと確信に近い気持ちで思うのだ。
しかし目が醒めればここのことをすっかり忘れてしまう。再び訪れてはまた、ああ、この間の場所だ、と思う。その繰り返し。
ここはどこだろう。
自分はどこへ行くのだろう。
この先には何があるのだろう。
訳もない苛立ちと、理由の見あたらない焦燥感で気が急く。
早くしないと。
早く向こうにつかないと──帰らないと。
ただひたすらに走り続ける。逃げるように。きざはしに手が届かずに焦れる子供みたいに、ただ必死にもがく。息が切れるのも構わず、焦がれるような思いで。
(──あ)
霧の向こう、道の先に人影を見たような気がして、俺はふいと歩みを緩めた。
凝った薄いもやの中にハッキリと浮かぶ、それは誰かの──
「おにいちゃん……おにいちゃん」
はたとまばたくと、目の前で光がどっと弾けた。
カーテンの隙間から差し込む朝日だと気づき、慌てて布団から飛び起きる。Tシャツが素肌にべったり張り付いていた。汗でぐっしょり濡れている。
枕許の時計は七時半。
「おはよう?」
扉の向こうからもう一度、遠慮がちな声がした。
「おはよう、菜々ちゃん」
言って、立ちあがる。扉を開けると小さな女の子がぱっと飛び退いて、朝だよ、と小さな声で呟いた。
「昨日買った食パン、テーブルに出しとくね。あといちごジャム」
「うん、ありがとう。遼太郎さんは?」
「お父さん、もうお仕事行ったよ」
少しそっけないふうに言って、小さな新しい家族──堂島菜々子は、ひらりとスカートをひるがえし、慣れた足取りでトコトコと狭い階段を下りていく。
部屋からワイシャツと制服のズボンを引っつかんで、俺も階段を小走りに駆け下りた。
「ごめん菜々ちゃん、ご飯食べてていいよ」
「どしたの?」
首を傾げる菜々子にすれ違いざま、手を振った。
「シャワー浴びてくる」
脱衣所で汗まみれのTシャツを脱ぎ捨て、ジャージと下着も蹴り脱いで満杯のカゴに押し込んだ。見ると、すでにどっさりシャツや下着が積んである。そういえば叔父の堂島遼太郎は昨晩、当直明けだった。
(一回分じゃないな、これ)
ため込んでいたに違いない。今日帰ってきてから洗おう、と心に決めて、古い木枠のガラス戸を滑らせた。風呂は古くて立て付けが悪いが、中の蛇口は新しくてシャワーもついている。頭から勢いよくお湯を被ると目が覚めた。
首を仰け反らせて、小さく息を吐く。
(最近多いな、こういうの)
ここのところ墜落するように眠りこんでいることが多い。菜々子が声をかけてくれなかったら寝坊するところだった。
しかし、声をかけてくれる家人がいるという事実は、俺をほんのり温かな気持ちにさせてくれる。いっそ一人暮らしでいい、一年だけ転校なんて面倒だと思っていたのが遠い昔の話のようだ。
俺の生活はこの四月から激変した。
(今日は午前中に柏木先生の小テストがあって、午後は実験があって……長引いたらちょっと遅くなるかもしれないけど、たぶん)
特捜本部に集合! と号令がかかりそうな予感がした。
(「ってゆーか急にテストとか言って、マジサイテー!」)
(「テストなんていつだってサイテーだろ……」)
(「なにアンタ、悟っちゃって。あ、とうとう留年する決意が固まったってわけ?」)
(「おまえと一緒にすんな!」)
(「ねー問一ってさーAの黄色いオシロイバナで合ってる?」)
(「えっと、Bの白いオシロイバナじゃないかな」)
(「だー! やめやめ! もー何色でもキレイ! どれもステキ! んなことさっさと忘れて、今日は特捜本部行こうぜ」)
(「あ、賛成!」)
(「いーねえ、たまにはいいこと言うじゃん。ね、アンタ今日こそ肉奢りなよ、肉!」)
(「なんでだよ! 話繋がってねーよ、意味わかんねーよ! ……おい、笑ってないで助けろっての!」)
お定まりのケンケンガクガクをリアルに想像して、思わず吹き出してしまった。
(ヘンだな、俺)
風呂場から出て、洗い立てのバスタオルに顔を埋めた。
(こんなに好きだったっけ? 学校)
もうずいぶん昔のことみたいで、すっかり忘れてしまった。ここへ来る前の自分、みんなを知らないころの自分なんて。
ワイシャツに袖を通し、ステッチの入った黒いズボンを履く。ちらりと洗面所の鏡に自分の姿が映りこんだ。
背丈は平均より少し高くて、それなりに上背はある。少し重ための黒髪、やや細面に通る鼻筋、切れた黒い瞳。
これが俺。
──八十神高校二年、堂島家在住、大塚和臣。