しんぞう

 男は、膝をついた。
(いけない)
 至近距離で反動が大きすぎた。けれど、しゃがんでいては駄目だ。立ち上がって歩かなければ。
 アキラに銃弾が当たってしまう。
 それに、アキラの大切にしているあれを、取りに戻らないと。
 アキラのポケットから転がり出た銀色の小さなプレートは、石畳に放り出され、ライトの光にちかりと堅い光を反射している。
 知っている。アキラがどんなにあれを大切にしているか。けれども、知らないふりをする。どうしてだか、あれの気配に自分が振り返ると、アキラが決まって悲しい顔をするから。
 そう。たぶんあの顔は、悲しい顔だ。
 理由などどうでもよかった。ただ、アキラが悲しい顔をすると自分が苦しくなる。笑いかけてくれると、気持ちがいい。だからアキラは笑っている方がいい。それだけのことだった。
 アキラは自分にたくさんのものをくれる。数えたらきりがない。朝に目を覚ませば「おはよう」と言ってくれて、夜に目が覚めると寄り添って体温を分けてくれる。些細なことに「ありがとう」と言って笑ってくれる。仮初めの家に身を置けば「ただいま」「おかえり」──そんな、今まで知ることのできなかったものをくれた。
 なのに自分は一体なにをしたら返してゆけるのか、わからない。差し出せるものをなにひとつ、持っていない。
 だからせめて、アキラの身と、アキラの大切にしているものくらいは守りたかった。自分の身を最大限に活かす術なら、知っている。
 銃弾は肋骨付近にめり込んでいた。熱と痛みを覚えたが、幸い浅い部分に止まっている。これなら内臓に損傷はないだろう。歩くことにも直接は支障がない。
 男はふらりと立ち上がった。
 周囲の空気が緊張に引きつるのが分かる。肌に馴染んだ感触だ。自分に向けて、全ての殺意と憎悪と恐怖がどっと押し寄せてくる、この感覚。
 怖いなどと、思ったことはない。辛いとも思わない。兵器として呼吸をしていた自分にとっては、当たり前の空気だった。そのための体で、そのための腕で、そのための脚で、──そのための心臓だった。
 男は一歩、踏み出した。ガチリ、と遊底を引く音、撃鉄を起こす音がいくつも聞こえた。さすがに全てはかわせそうにないが、かまわない。
 一歩、また一歩と前へ踏み出す。弾丸のいくつかが急いて飛び出し、足許を穿った。だがその程度の銃弾、当たるわけがない。銃身はどれもふらつき、照準器から出る赤い十字の照準は揺れて、定まらない。恐怖とわずかな興奮が、彼らの心と筋肉の上で激しくせめぎ合っているのだろう。最強の冠をいただくのも悪くないと思うのは、こういうときだ。戦う前に、相手自ら敗北の道を選んでくれる。アキラのとの約束を違えずに──殺さずに済む。
 そうして前へと着実に進み、車とアキラではさんだ距離を中程まで来る。周囲が固唾を呑んで見守る中、男は何気ない仕草でスペードの描かれたプレートを拾い上げ、ポケットにしまいこんだ。冷たいその感触にほっと安堵の息を吐き出して、男は再びゆっくりと前に向き直る。
「俺を、捕らえたいのか」
 一瞥し、声を放つと周囲が一様に怯んだのが分かった。
「アキラ」
 振り返らずに言うと、息を呑み、立ち上がって歩き出そうとするアキラの気配が背後から伝わってくる。
 その瞬間、照準の赤い色が一筋、男から外れて背後へと流れた。
 バン! と破砕音がして薬莢がはじき出され──軍服に身を包んだ男がひとり、悲鳴を上げた。
 男は、驚くほどの早さで石畳を蹴り、取り囲む軍人たちの輪の中へ躍り込んでいた。男の手刀は、アキラへ銃を向けた軍人の腕を容赦なく強打した。こぼれ落ちた銃身を蹴り、アキラの方へ滑らせておいて、男はわめき声を上げる軍人を胸から石畳に一息に突き倒す。顔面を強打して、軍人は派手に鼻から血を垂れ流した。
 一方、銃口が違う方向に向かって火を噴いたせいで、一息の後、離れた場所でもうひとりが呻きながら暗闇で崩れ落ちた。
 続けていくつか銃弾が飛んだが、男は避けなかった。下手に動けばアキラに当たる。幸い、どれも男の皮膚をかすめた程度ですれ違った。
「おまえたちに動いていいとは、言っていない」
 大げさに叫ぶ軍人の腕を取ると、男は周囲に見せつけるように腕の曲がらない方向へと体重をかけた。みしみしと肘や肩の関節が軋む感触があって、ほどなくごきりと折れた。濁った絶叫が当たり一面にまき散らされる。
 軍人の顔面で涙と唾液と血液が混ざり、ぐちゃぐちゃになった。
 気分が悪かった。こんなことは、早くやめたい。
「ほかも折るか?」
「ああああ、ああ……ぅうあ……っ!!」
 問いかけに対する返答は言葉ではなく、いいのか悪いのかは、よくわからない。だが、恐怖に浮き足立ち、引き金に指をかける寸前の空気を制するには十分だった。男は悶絶する軍人を引きずって、道路端まで引き返した。
 アキラが両腕で拳銃を構え、立っていた。大きな怪我はないことがわかってほっとする。
「行こう」
 男が声をかけると、アキラはなにか言いたげな顔をして、ふいと視線をそらした。
 どういう意味か、わからなかった。


 持っていたロープで手近な街灯へ軍人をくくりつけ、拳銃で狙いを定めながらふたりはその場から遠ざかった。すぐに追ってくる気配はなかったが、どこか別の場所に伏兵が潜んでいるかもしれない。おまけに夜も明けて、日が差し込んできた。人が起き出してくる時刻だ。人の少ない寂れた町とはいえ、できるだけ遠ざかったほうがいい。
 人目を避け、物陰に身を低くしながら町をひた走る。
 ふと、男は撃たれた胸が熱を持っていることに気づいた。
 温かいものが溢れて腰を伝い、足の方にまで流れてゆきそうだった。男は走りつつ手早く荷物から換えの服を取り出し、適当に切り裂いて患部に巻き付ける。応急手当はどこか落ち着ける場所まで行ってからでかまわないが、万が一、地面へ血痕を残したりすれば自分たちの居場所を教えてしまうことになりかねない。
「あそこがいい」
 そろそろ町を出る頃になって、黙りこくっていたアキラがそう言って前方を指さした。その先は小高い丘の斜面が見え、切り開かれた土地に墓地が広がっていた。
 墓所は遮蔽物も多い。信心深ささえやり過ごせるなら、墓によっては中へ転がり込むスペースがある。確かに、身を隠すにはちょうど良さそうだった。
「あいつら、……半分くらいニホン人じゃなかった。たぶん、いきなり墓荒しはしない」
「……気がついたか」
「わからないわけないだろ。軍の服は違うし、第一違う言葉が聞こえた。命が危ないときに、普通は外国語で叫んだりしない。こっちの言ってることは通じてるみたいだったけど」
 男はアキラを見た。冷静な判断だ、と素直に感心した。ふたりきりで──しかもお互いが離れた状態の丸腰で大勢と対峙し、状況を正確に観察するのは、想像するほど簡単なことではない。突然の襲撃の場合、どうしても恐怖や昂揚に支配されてしまいがちで、冷静にならなければと頭で理解していてもなかなか難しいものだ。
 こういうとき、アキラが自分の手の中で守られ、収まっているような存在では決してないのだと思い知る。強かさを備えた目の前の青年が改めてひどく眩しいものに見えて、男は思わず目を眇めた。そして同時に、自分の居場所を失うような埒もない不安が喉元にわだかまり、言葉を失ってしまう。
「行こう」
 アキラにうながされ、男は浅くうなずき返した。
 ふたりは郊外へ出ると、ひたすらに丘の斜面を登り、大回りしてから稜線に出た。傾斜は下りに傾いて、並び立つ木々の幹から幹へと横ばいに縋りながら、小走りで先へと進む。やがて梢の間から伺い見える視野が広くなり、さらに茂みをかき分けていくと開けた場所に出た。
 大きな鉄の門扉は、だらりと開け放たれていた。鉄柵と高い樅に取り囲まれた敷地は鬱蒼として、手入れの行き届かない庭園の相を呈している。ずいぶん古くから使われているのだろう。町の人口に反して大きな墓所はかつての町の繁栄を彷彿とさせたが、同時に裏寂れたもの悲しさを強調していた。
 入り口を進んだつきあたりに、黒く朽ちかけた建物が見えた。草地を分け入って、石造りのポーチまで近づいたが、人の気配はない。石床のひび割れからは草が伸びている。ポーチにかかるひさしは二本の柱に支えられていたが、一方の柱が傾いているせいで微妙なカーブを描いていた。その奥にあるドアもまた、半分開いたまま朽ちようとしている。
 アキラが男を制して、先んじた。息を殺し、足音を殺して中へと入っていき、「誰もいないみたいだ」と戻ってきて男の手を引いた。
 簡素な作りの小屋だった。窓の鎧戸はすべて引かれていて、昼間だというのに薄暗い。守番の住み処だったのかもしれないが、ずいぶん長いこと使われていないようだ。必要最低限の家具が、埃を被ったまま放置されている。ダイニングと、奥には粗末ながら寝室もあった。しばらくはここで休めそうだった。
 埃だらけの掛布を剥がすとマットレスは意外にきれいで、男はスプリングの効いたベッドに腰を下ろした。
「ちょっと、周りを見てくる」
 ここにいろよと強く言い刺して、アキラは出て行った。
 さっきから最低限しか口を開こうとしないアキラに釈然としないものを感じながらも、男はアキラの言うとおりにした。
 壁に押しつけられたベッドに深く掛け、背を預けると体が楽だった。やはり、少し消耗している。呼気が思ったよりも熱を帯びているのがわかって、男は急に心細さを覚え──自分が寂しいのだという気がした。
 アキラに、隣にいてほしかった。
(「……寂しいっていうのは、どういう感じだったかな」)
 リフレインする記憶。今までに何度見たかわからない、夢の残滓だ。
 寂しいという気持ちを知らなかった。曖昧な言葉に、意味が見つけられなかった。なのに今、自分はこんなにも寂しい。
 アキラがすべてを連れてきてくれる。嬉しいと思う気持ち、……寂しいという気持ち。もう、ひとりだった頃には戻れない。戻りたくない。どうしてひとりでいられたのかすら、もう思い出せなかった。
(「……俺が、一緒にいようか?」)
 幼い日に交わした、約束。
(「……次にまた、会えればいいな」)
 叶えられた奇跡。もしかしたら、という希望。
(「約束。……俺、嘘つかないから」)
 微かな……願い。
 ──それが、可能性。
(本当に、アキラの言うとおりだ……)
「おい!」
 唐突に頬を叩かれ、びりっとした刺激が皮膚を突き抜けて、男は目を覚ました。
 うとうとと半ば眠っていたらしい。血相を変えたアキラの顔が、すぐ間近にあった。
「どうした……?」
 朦朧としたまま言うと、アキラがかっと頬を朱に染めた。
「どうしたじゃない!」
「アキラ?」
「アンタはどうして、そうやって……!」
 絞り出すような声と共に、アキラは男のコートを震える手で握りしめ、俯いた。
「アキラ」
 どうした、ともう一度言いそうになって、男は口をつぐんだ。たぶんまた、怒られる。
「いい加減にしてくれ……あんな……、どうしてあんなことをしたんだ……!」
「あんなこと?」
「アンタ、俺を庇ったんだろう!? 俺がそんなことをされて、喜ぶとでも思ったのか……っ!」
 ああ、撃たれたことかと初めて気づいた。
「アキラに当たりそうだった」
「だからって、あんたがケガしてどうするんだ……!」
「俺はアキラが撃たれるのが嫌だった」
「俺はそんなことされたら迷惑だ!」
「大丈夫だ」
「なにがだよ!」
「痛くない」
「馬鹿野郎……ッ!!」
 叫んで、アキラが顔を上げた。
 驚いた。
 泣いていたから。
「あんなもの……置いてきてよかったんだ! 捨てて来られたらよかった!!」
「それは違う」
「違わない!!」
 男はコートのポケットから、金属の小さなプレートを取り出した。
 スペードのAが書かれたタグ──アキラの大切な分身だ。
「アキラのものだ。アキラが大切にしているものは、俺にも大切だ」
「やめろよ……ッ!」
 アキラは男の手の中からタグをむしりとって、床へ投げ捨てた。甲高い音を立て、それは木の床に叩きつけられ、弾んだ。
「アキラ」
「こんなもの……いらない……っ!」
 嗚咽混じりに、アキラが悲鳴みたいな声を叩きつけてくる。立ち上がって拾おうとしたが、アキラがベッドに片膝を乗せて乗りかかっているせいで叶わなかった。
「アキラ、どいてくれ」
「拾わなくていい!」
「俺が拾いたい」
「そんなこと、する必要ない!!」
「アキラ」
「やめろって言ってるだろ……ッ!!」
「……なんでアキラが嘘を吐くのか、わからない」
 アキラがいっそう強くこちらを睨みつけた。
「なにが嘘だよ……!」
「あれはアキラが大切にしているものだ。俺は捨てたくない」
「違う……!」
 ドン、とこめかみのギリギリにアキラの拳が飛んできて、壁にぶち当たった。目を堅くつむり、嗚咽を堪えて肩が震えている。
 とても苦しそうに見えたから、男はアキラの背を撫でてやった。
 アキラが目を見開き、ふるりと濡れた睫を震わせた。
「……どうして」
 か細くそれだけ言って、アキラは男の胸に顔を埋める。
 アキラの体の中で、なにかが暴れていた。それはわかるのに──震える体をなんとかしてやりたいのに、できない。もどかしさに、ちょうど胸の高さにある頭を掻き抱いた。
「あんたは、……ひどい」
 ずいぶん経ってから、胸元でくぐもった声がした。
「ひどい?」
「こんなひどいやつ、見たことない」
 はっきりと言われて、胸がちくりと痛んだ。
「……そうか」
「そうだよ」
 言って、アキラは顔を上げた。目は赤く腫れ、どこか悄然とした面持ちだったが、先ほどの荒々しさは既に姿を消していた。
 アキラの手のひらが、男のコートに触れた。ひとつひとつ、ゆっくりとボタンを外していく。
「静かにしてろよ」
 見つめていると、伏せた視線のままそう言われた。男はアキラの言うままに、じっとアキラの所作を遮ることなく見守った。コートを脱がし終え、胸に巻いたシャツの残骸に手がかかる。が、濡れた布きれはそのままに、腰へ下げていたナイフを取り出す。タートルネックのトップスを、胸の半ばからぐるりと切り裂いた。
「袖、抜いてくれ」
 言うとおりにすると、アキラは頭の上へ向かって一息にタートルネックを引き抜いた。
 アキラは、そのまましばらくじっと男の体を見つめた。
「どうした」
「……なんでもない」
「本当に?」
 アキラがわずかに眉根をひそめた。
「アキラ」
 促すようにもう一度呼ぶと、アキラがわずかにかぶりを振った。
「やめてくれ……もう、頼むから。こんなこと」
 言いながら、傷の近くに触れてくる。
「平気だ。俺は痛みをあまり感じない」
 もっと大怪我をしたこともある。たったひとりで取り残され、大勢の敵に囲まれたことも。そんなことを、一度も怖いと思ったことはない。
 傷など大した痛みではない。今はそんなことよりもっと痛いことがあった。怪我ひとつでどうにかなるなら、いくらでもこの身に受ける。
 しかし、アキラはもう一度、かぶりを振った。
「俺が痛い……」
「アキラが?」
 なぜ、と首を傾げると、腹立たしげに睨まれた。
「アンタがケガをすると、痛い……ここが」
 アキラが胸を押さえると、男はそっとこわばった手へ指を絡ませ、アキラの胸にキスを落とした。痛みが少しでも消えたらいいと思ったのに、見上げたところにあるアキラの顔はくしゃくしゃに歪んでいた。
「意味……わかってんのかよ」
「たぶん。俺も痛い」
 今度はアキラが首を傾げた。
「おまえがそういう顔をすると、俺も苦しい。アキラが新しい心臓をくれたからだ」
「心臓……?」
 男はうなずいた。
「腕も、脚も、体も、瞳も、アキラが俺に、兵器以外の意味をくれた」
「バカ……そんなんじゃない」
 アキラがもう一度胸へ顔をうずめ、体の線に柔らかく触れた。
 体にはかつて身に受けた無数の傷口が、あちこちに盛り上がっている。決してきれいなものではなかった。だが、アキラはときおりそうして丁寧に傷へと触れてくる。憐憫ではないとわかる。もしそうなら、とっくにはねのけているはずだ。かつて哀れみを持って自分に触れた女を、この手で殺したように。
 まるで過去の痛みを──自分も忘れてしまった些細な痛みを拾おうとしているようだと思った。
 どくりと、腹の深いところで血が沸き立つ感触があった。
 男も屈みこんで、アキラの首筋に頬をすり寄せた。なにか少しでも共有したい。同じ熱を返したいと思った。
「ごめん……」
 掠れた声でアキラが呟いた。
「なにがだ?」
「傷、増やした」
「おまえのつける傷なら、いくらでもほしい」
「そういうことを言うな」
「本当だ。おまえと共にある証なら誇らしい」
「そんなの、俺は嫌だ……あんな連中に撃たれてやることなかった。アンタだったら怪我なんかしなくても、なんとかなったはずだ」
「殺さないと誓った」
「アンタが死ぬくらいなら、他のヤツが死ねばいい……!」
 男の腕の肉へ、アキラの指がわずかに食い込んだ。
「アキラ」
 静かに、けれども強く呼んだ。はっとしてアキラは顔を上げ、再び双眸がゆるく水分に潤んでいく。
「……嫌だ。もう。二度とあんな思いをするのは」
 二度と、──あんな?
 なんのことだかわからなかった。そして、少し考えてから思い出す。
 三年ほど前、流れ弾からアキラを庇って死んだ男がいた。──そう、スペードのA。
 それは床でちかりと、冷たい光を放っていた。
「偉そうなことを言った、昔。……けど、俺は、他のヤツなんて死んでもいい。ちっとも辛くない。人を殺してでも、俺を見捨ててでも、俺はアンタに死んでほしくない」
「俺はアキラを見捨てたりしない」
「駄目だ」
「どうして」
「俺は、アンタが俺を守ってくれるから側にいたいんじゃない……! アンタが庇ってくれても嬉しくないんだ、わかれよ……!」
「……アキラは勝手なことを言う」
 男が言うと、アキラが目を見開いた。
「俺はアキラが死ぬのが嫌だ。自分が死ぬことよりも」
 言いながら、ぞっとした。アキラが死ぬなんて、考えたこともなかった。
 アキラが隣から──世界からいなくなる。永遠に奪い取られて、二度と戻らない。
(「どれだって同じ命だ」)
 突然、そう言われたことを思い出した。
 以前、アキラに言われた。だから封じた。命を奪うことを、いけないことなのだと諭されたから。そう思っていた。
 けれども、本当の意味はたぶん違う。
「アキラは……俺が死ぬが嫌なのか」
「なに……言ってるんだ」
 呆れたように、腹を立てたようにアキラが言った。
「何度もそう言ってる……当たり前だろ、そんなの」
 そうか、と男は独りごちた。
(どれも、同じ命だ)
 失いたくないのだ。誰も、傍らの命に生きて欲しいのだ。
 死ぬということは、きっと、誰にでも等しくひどいことなのだ。自分にとってのアキラの死が、たとえ想像の中でも途方のない重さを持つように、アキラにとっても、他の人間にとっても重い死がある。ならば、どれひとつとして簡単な命などない。そういうことだ。
 男はやんわりとアキラを押しのけると、ベッドから立ち上がった。そして、床に捨てられたタグを拾い上げ、アキラの手に握らせてやる。
「生きて……ほしかったのだろう」
 今ならわかる。ときおり見せる苦しげな顔は、命の重さに喘ぐ姿だ。アキラは傍らにある命がどれほど大切なものか、知っているからだ。
 大切なスペードのA。そして、きっと自分も、同じように大切にされている。
 今なら、理解して信じることができた。
「もういい……!」
 アキラはベッドに腰かけたまま、男の腰にしがみついた。
「もう、いいんだ……忘れて」
「なぜ」
「いいんだ……俺はこんなタグ一枚のためにアンタに死なれたくない。こんなもの、もういらない。なくてもいい……頼むから、わかってくれ」
 アキラの背が、ぶるりと震えた。怖いのだとわかって、男は背中をさすってやる。
「俺は死んだりしない」
「いくらアンタが強くたって、心臓を撃たれたら死ぬ」
「そんなところを撃たれはしない」
「次は、当たるかもしれない……っ」
「当たらない」
「俺がもし、後ろにいたら」
「当たっても死なずに済むところへ当てる。……アキラ、ナイフを貸してくれ」
「……なにするんだ」
「傷の処置をする」
 さっき破いたタートルネックを、男は患部よりも少し心臓に誓い部分へもう一度巻き付けた。それから、脱いだ自分のコートを引き寄せてポケットからライターを取り出す。
「火で炙っておいてくれ」
 そう言って、男はライターを手渡すと立ち上がり、ダイニングへ行くと目的のものを持って戻ってくる。
「鏡……?」
 言われたとおりに刀身を炙りながら、アキラが訝しげな声を上げた。再びベッドに腰を下ろすと、男はそっと患部へ巻き付けてあった布きれをほどいた。
 じんわりと、熱が盛り上がり、溢れてくる。
 患部は赤黒く腫れていた。
「ナイフを」
 手を差し出すと、アキラがやや躊躇ってからグリップをこちらに向けて差し出した。男はそれを受け取って、傷跡に切っ先を押し当てた。
「…………!」
 肉の焦げる匂いがし、アキラが息を呑んだ。
「鏡を、傷が見えるように……アキラ?」
 アキラが慌てたように鏡を掲げた。男は自分でも患部がよく見えるように体をずらすと、切っ先をそのままめり込ませてぐるりと回した。
 ガリ、と堅い感触があった。弾頭に間違いない。幸い、それほど深いところには埋まっていない。
「…………っ」
 抉ればさすがに痛みが強く、脂汗が出た。
 ふと顔を上げると、アキラが唇を噛みしめて傷口を凝視していた。形のいい薄い唇が今にも切れてしまいそうで心配になる。
「アキラ」
 呼ぶと、アキラは驚いて顔を上げた。ひどい顔色をしていた。
「そんな顔を……しないでくれ」
「……無理だ」アキラが掠れた声で即答した。「他のことだったらなんでも聞いてやる」
「それなら……これが終わったら、アキラの口づけがほしい」
 馬鹿なことを、と言われるかと覚悟の上で言ってみた。口に出してみたことはなかったし、こんなときにふざけたことを言うなと怒られてもおかしくなかった。
 だが、違った。
「……そんなの、いくらでもやるから」
 だからそんなことは早く終わりにしろと、震える瞳がそう告げていた。
 痛みを堪える自分の姿に、アキラが心を痛めている。アキラが心を痛めれば、自分もまた辛い。
 けれどその苦みはどこか──甘かった。
「そうか」
 男は小さく笑ってから、再び突き立てたナイフへと力をこめた。