リル=インの両腕(本編)

 集落を見下ろす小高い丘に立ち、男はふと夜空を高く振り仰いだ。
 山の麓に、風の通り抜ける音が谺している。気流が見えないことが不思議なほどの風だ。吹き上げる風は思うさま周囲の木々を揺すり、その潮騒のような音に、やがて別の音が混ざり始める。
 眼下に広がる集落の一角から炎が吹き上がり、燃える端から崩れて火種をまき散らしていた。それは乾燥しきった冷たい風に乗って、紺青の闇を舐めるように広がってゆく。赤い光は立ちこめる煙に滲み、風で揺らいでは強くなり、煙にかすんでは暗くなる。
 禍々しい明滅を繰り返す炎の手を、男は身じろぎもせずに見つめた。闇色をした外套が、今は明々と照らされ、風に巻き上げられてはためいている。
(気づかれるな……こんな臭いがしていては)
 もとより隠しおおせるはずもないのだが、こんなに焼けこげた臭いを纏い付かせていたら言明の余地もない。おかげでこびりついていたはずの血なまぐさい臭いまでもが、燻されてとうに飛んでしまっていた。
 山の裾野にある小さな集落に、騎士隊の一部がひっそりと駐留していることに気づいたのは一昨日のことだ。
 一方、街道沿いでは、国王直下の騎士隊が厳かに進軍し続けていた。陽動のつもりなのだとしたら、子供だましもいいところだった。それとも何か裏があるのか──あれこれ考えながら一日待ってみたが、苦し紛れの浅知恵にすぎないと男は早々に結論づけた。なぜなら、これ見よがしに街道を練り歩く隊は、前衛を屈強の傭兵で覆い隠してはいたが、その実、年若い青年ばかりで構成されていた。戦が長引き、戦力となる男が大勢死んでいるせい、そして駐留部隊に主力を裂いているせいとしか思われない。
 数に頼んで勝利をもぎ取ることができる状況で、わざわざ手勢を裂くとは相手に塩を送るも同然だ。大体、この期に及んで自国の集落を盾にするとは下策もいいところだった。結局は無駄な犠牲を出したにすぎないのだと、思い知ればいい。不安と怯えから、エリダラーダはもっとも愚かしい策を取ったのだと。
 男は夜陰に乗じ、集落の一画をまとめて吹き飛ばした。異常に気づき、おっとり刀で駆けつけた駐留部隊の手をすり抜けて、今度は兵舎代わりの家屋を丸ごと業火へ叩き込む。それだけで住民はたちまち半狂乱となり、兵は事態の収拾に追われる羽目に陥った。
 こうなればあとは簡単だった。統制の取れない群衆を徐々に嬲り殺すことなど、大した手間ではない。たまたま吹き下ろした風が状況を煽ったことも手伝い、山間の集落はほんの数時間で壊滅した。
 それにしてもよく燃えていた。風は真っ向から吹き下ろして、集落を焼き尽くすまで大した時間もかかるまい。まるで雪のように火の粉が降り注ぐのを、黒衣の男は大した感慨もなく見守った──そのときだった。
「一切を灰燼に還せ、焔よ! ──ダルティ・フェス・ベルク!!」
 炎が間近で吹き上がった。頬をかすめ、肌と髪を灼く嫌な臭いが立ち上る。
 振り返ると、鎧を身につけた騎士らしい男が一人立っていた。
 炎をかいくぐったらしく煤けてはいたが、身なりは悪くない。騎士でもおそらくは上官クラスだろう。あの恐慌のさなか、追いすがってきたのだとしたら大したものだ。
「避けもしねえ、おまけに眉ひとつ動かさねえとは、嫌な野郎だぜ。門前の小僧が使う法術なんざ、屁でもねえってことかよ。ケツまくって、裸足で逃げ出したい気分だ」
 そう言いつつも、騎士は不敵に笑っていた。
「だが、けじめをつけねえとな。あんたは殺しすぎだ──黒の導師」
 まるで呼応するかのように、相対する男の黒い外套が風を孕み、乾いた音を立てた。
「いくら俺がお人好しでも見逃せねえ。よくもまあ、ここまでこてんぱんにやってくれたもんだ。あんたのおかげで、村はでっかい火葬場みてえな有様だ。あれならいちいち墓穴を掘る必要もなさそうだが、素直に感謝するには忌々しい」
 答えずにいると、騎士はなおも続けた。
「知ってるか。最近じゃお偉方はどいつもこいつも黒の導師──あんたさえ殺せば、このクソつまらねえ戦いがきれいさっぱり終わると信じてやがる。ここのところの虐殺には、あんたの影ばかりがちらつくからな。それも毎度毎度、反吐が出るほど徹底していやがる。大虐殺だ。これほどコケにされたら、俺たち騎士はあんたの首を王に差し出さねえことには終われねえ。だがな、俺にはどうにも解せねえのさ」
 そう言って、騎士は軽く肩をすくめてみせる。
「バラガーンっては少数民族だ。ましてや好戦的な連中でもない。そうだろう? もしあんたらがやる気満々の大集団だったら、エリダラーダなんて国はとうの昔にブッ潰れて、今頃はストラナー屈指の法術大国になってただろうからな。一部の阿呆共への報復と王の野心に煽られこそすれ、自ら戦をおっぱじめるほどの気概があったとは到底思えねえ」
 騎士の言葉には不思議と、臆病者と誹る色合いが含まれていない。
「ま、そいつも憶測でしかないがな。なにしろバラガーンってやつらの実態についちゃ、大陸中探しても知ってるヤツの方が少ない。その総数すら、開戦して六年経った今でさえ、ようとして知れん。俺たちは長らく、霞と戦っているも同然だった。だがそんな折りも折り、突如ひとりの残忍な男がひとり現れて、これみよがしに暴れ回る──これは一体どうしたことなんだ?」
 言いつのる男はそこで一度言葉を途切れさせ、唇を湿した。
「全ての元凶にして指導者、そいつを叩けば戦が終わると誰しもが思いこむ──てぇことはだ。裏を返せばそいつ一人の首級を差し出しゃ、バラガーンは同胞をこれ以上失わずにすみ、おまけに大陸上はおろか歴史上からもきれいさっぱり消えることができる。違うか?」
 互いの、眦へ浮かぶ剣呑な光がふいに強くなる。
「勝手によく喋る男だ」黒衣の男が、初めてそこで口を開いた。「怖いか」
「ああ、怖いね。言ったろ、裸足で逃げ出したいところだ」
 そう言いつつ、騎士は全く引く様子を見せない。気分が高揚していることは確かだろうが、恐怖ではないだろう。ましてや祖国への義侠心ともつかない。この状況を楽しんでいるふうにもみえた。
 だが、それはお互い様だ。
 黒衣の男もまた、微かに口元を歪めてみせる。
 戦場のそこここに満ちる暗い興奮が、ひときわ濃密に練り込まれ、辺りへ吹き出した。
「けどな、こちとら言いたいこともストレスも溜まってンだよ。こんな阿呆臭い作戦に引っ張られて、部下を狩られ放題じゃ割にあわねえ。グチの一つも聞いていけ」
「おかしな男だな」
 騎士の非難は、明らかに自国へと向けられていた。目の前の残虐非道な敵にではない。
 内外から踏みにじられて、それでいてなお鎧を脱ごうとしない、この男の矜持とは一体なんなのか。さっぱり理解はできないが、不思議と悪い気もしない。
「あいにく俺は、エリダラーダの人間共を一人でも多く殺したいだけだ」
「あんたのほうこそ分からん男だ。俺もこの目でその姿を見るまでは、九分九厘、虐殺を楽しむ悪魔だと思っていた。だがな、根っからの人殺しってやつは、そんな静かな目をしちゃいねえもんだぜ」
 これ以上、話すことはなかった。
 黒衣の男がすっと腕を引くと、騎士もまた身の丈ほどある大仰な剣を片手で振りかぶり、青眼に構え直した。
「相手にとって不足はねえ。どんなゲス野郎かと思ったが、かえって血が騒ぐってもんだ。──エリダラーダ騎士団第七隊隊長、セルゲイ=アントレーヴィ=イヴァノフ、参る」
「馬鹿な男だ」
 黒衣の男は独りごちた。
 どこの誰であろうと関係ない──この男は今から死んでゆくのだから。

 森をかき分けて進むうちに、開けた場所に出た。
 破れた黒衣をかき合わせるようにして歩いていた男は、先のとがった屋根を持つ、古びた建物の前で立ち止まる。
 かつては教会と呼ばれた場所だ。近隣集落のいくつかが共同で利用していたものらしい。
 高窓に掲げられた色とりどりのステンドグラスには、今も信仰と決意が填め込まれている。だが、今は蒼い闇と沈黙と絶望が堆積するばかりで、見下ろす空間のどこにも信者は見あたらない。
 この辺りの住人を一掃したのはいつのことだったろう。一ヶ月前だったか、それとも一年前だったか。
(神も力及ばず、か)
 男は鼻で笑った。人は、何のために神へ帰依するのだろう。日々の安寧すら約束してくれない者に、なぜみっともなくすがるのだろう。病や傷を癒すという目先の奇跡に、大した価値があるとも思えない。
 がらんどうの祭壇は祈るべき対象を欠いたまま、緩慢に朽ちていこうとしている。居住区から離れた丘陵に建てられたおかげでたったひとつ、戦火を逃れた尊い屋根──しかも神の僕たる人間を殺して回った張本人が、雨露を凌ぐために居座っているとは皮肉な話だ。
 男は、立て付けの悪くなった観音開きの扉を蹴り開けた。
 中は湿気た臭いが薄く充満している。埃を被ったベンチが整然と並び、それを取り巻く壁には細い窓が連なり、正面には祭壇らしきものがひっそりと鎮座していた。独創的なところは見られない。
 下草がはみ出すひび割れた石造りの床を踏み、いくらも奥へ進まないうちに
「肉の灼ける臭いだな」
 暗がりでふいに声が上がり、祭壇の上で横になっていた男が、前触れもなく跳ね起きた。ステンドグラスから漏れる微かな星明かりの中、痩せ気味の肢体が浮かび上がって気怠げに頭を振るう。
「焚き火なら俺も連れて行け。寒くてかなわん」
 星の光を弾く銀の髪と、血の色をした瞳が、逆光のただ中にあってギラギラしていた。
「黙って出て行くのもいいが、俺が寝ている間にしろ」
「だったらおまえが目を覚まさなければいい」
「都合のいいことを言うな」
 どっちがだ、と小さく吐き捨てた。寝汚いくせに、置いて出かけるとめざといのだ。この男──ヴェンツェルは。
「寒いなら外套でも羽織っていろ」
「オマエがひっぺがしたんだ」
 蒼い薄闇に白い肌がやけに目立つと思ったら、首元を大きくくつろげているせいだった。床へ脱ぎ捨てられた黒衣を、ヴェンツェルの顔目がけて投げつけてやる。
「いつまでもそんな格好で寝転がっていたら、寒いに決まっている」
「騎士団第七隊と言えば、宮廷魔術師ナザール=リンツェの息がかかる男がいたな」
「…………」
 出かけた理由に言い訳をするつもりもなかったが、不意打ちのように先手を打たれて男は黙り込んだ。
「一人では荷が勝ちすぎる。その程度のことは子供でもわかることだ」
「……殺し足りなかっただけだ」
「あまり張り切るなよ。俺の分も残しておけ。──なあ。黒の導師、クラウス」
 男──クラウスがそう呼ばれることを嫌っていると知っていて、ヴェンツェルはときおり揶揄するようにそう呼ぶ。
「どうせやるなら、まだるっこしいことをせずに皆殺しにしてしまえ」
「おまえに言われるまでもない」
「どうせくだらないことを考えていたんだろう? 傷をつけるなと言っているのに」
「!!」
 ヴェンツェルがいきなりクラウスの脇腹を掴み上げ、頬を舐め上げた。
「特に、顔」
「触るな……」
 騎士の刃に切り裂かれた脇腹と法術に灼かれた頬が、痛みと熱を孕んで膨れあがり、クラウスは思わず悲鳴をあげそうになる。
 傷ついたことなど、今まですっかり忘れていたのに。いつだってこの男は、俺がどこかへ追いやってしまいたいものを、素手で引きずり出しては目の前に突き出してみせる。
 殺してしまえたらいい。いや、殺してしまうべきなのだ。
 この男はこれから先もずっと、喜々として人を殺し続けるだろう。
 俺が人を殺し続ける限り、俺の隣で。
 ただ享楽にふけるように見えて、いつだってこいつは俺の本音を見透かしている。俺が嫌がることを知っていて、俺の望みを知っていて、だから人間を殺すのだ。それ以上の理由などありはしない。
「人の話を聞け……腕を、絡めるな」
「寒いから仕方ない」
「それならさっさと服を着ろ」
「どうせこれから脱ぐから関係ない」
「……っ!」
 言い放ちざま、ヴェンツェルはクラウスのものを布越しに、力を込めて掴みあげた。
「おまえは……!!」
「人を殺して、おっ勃ててるヤツに言われたくない」
「今すぐ放さないと、手首を切り落とすぞ」
「自分でするなら、それもおもしろいな。俺はどちらでもいい」
 冗談とも本気ともつかない戯れ言の応酬──だが、結局はむきになった自分の方が分が悪い。
 それに、急いた熱が収まりきらないのは本当のことだった。
「……そんなに言うなら望み通りにしてやる。そこの壁に手をついて、足を広げて立てばいい」
 冷たく放ったはずの声は、すでに隠しようもない劣情を含んで掠れていた。
 面白がって細められた赤い瞳に堪えられず、きつく髪を後ろへ引くと、大した抵抗もなく顎がさらけ出される。この白い肌の下に赤い血が脈打っているかと思うと、このまま食らいついて皮膚を引きちぎってやりたくなる。その有様をできるだけ丁寧に想像すると、足下から震えが駆け上がった。
 ──明らかに俺は、人を殺した興奮の延長線上で、こいつに欲情している。
 そう自覚することは容易かった。クラウスは力任せに、中央の祭壇へヴェンツェルの上体を押しつけた。

 祭壇へ力づくで引き倒されてなお、組み敷かれた男は、その荒々しさを楽しむようにひとつ笑っただけだった。
 肩を祭壇に押しつけると、放り出された下肢へ膝を割り込ませる。重なり合うと、腿のあたりに堅いものが当たった。ヴェンツェルはおもしろそうに口端を上げると、薄い布地を押し上げるクラウスのそれを、なおも容赦なく撫でさすった。
「…………ッ!」
 形に沿って強く揉みしだかれると、鮮やかな快感が喉元にわだかまって窒息しそうになる。巧みな指に服の上から触れられ、てのひらの熱と身体をつつんだ着衣とに、二重に愛撫されているような錯覚を覚えた。クラウスが睨み据えると、ヴェンツェルは口元を歪めた。
「声をあげろよ」
 上目遣いに言い放つ傲慢な男の唇を、クラウスは自分の唇で強く塞ぎにかかった。
 どちらからともなく、獣が喉を鳴らすようなくぐもった音がした。
 呼気を奪い尽くすような強引さで攻めると、ヴェンツェルもまた自分から舌を差し出す。角度を変えて何度も熱を交わし、きつく舌先を絡ませているうちに、飲み下しそこねた唾液が顎を伝い、滑ってゆく。追いかけるように舌先ですくい上げてから、クラウスは唇を喉元から下へと落とした。
 はだけた首筋に顔を埋めて軽く歯を立てると、胸の下に敷き込んだ躰がかすかに熱い息を吐く。舌先で触れた首筋に脈を感じて、またクラウスはゾクリと興奮した。
「あ──、ッ……は!」
 とがらせた舌先で鎖骨をなぞると、ひときわ大きく声が上がった。
 何度も往復させ、軽く音を立てて吸い、時折歯を押し当ててやる。同時に着衣の上から小さな尖りをひっかくと、腕の中でヴェンツェルがふるりと身もだえするのが分かって、クラウスの胸に暗い愉悦の澱が重ねられていく。
 非道で、気位の高いこの男を組み敷いて思うさま蹂躙し、喘がせて、震えを誘うことができるのは、自分をおいて他にいない。
「なにを考えている……」
 ふいに耳元で囁かれ、クラウスはぎょっとした。だが反射的に起きあがるより、ヴェンツェルがクラウスの赤茶けた髪に指を絡めて握りしめ、耳の淵を甘噛みするほうが早かった。
「……ッあ」
 噛み殺し損ねた自分の甘い声と、ぐちゅりと耳朶を舐め回す淫猥な音が混ざり、全身を刺し貫くような重い痺れとなって駆け抜けた。その僅かな隙をついてヴェンツェルはクラウスの腕から逃れると、体勢をひねって馬乗りに屈みこんだ。
 落としこまれる熱と重さに、下肢がずしりと熟れ、途端にわかりやすい刺激が欲しくてたまらなくなる 。
 クラウスは、ヴェンツェルのそれに自分のものを下から強くこすりつけた。
 すると、つられて腰を揺らめかせていたヴェンツェルが、堪えかねたふうにクラウスのスラックスへと手を伸ばし、一気に引き下ろした。それを合図にクラウスもまた、ヴェンツェルのスラックスを引き下ろす。その間もひっきりなしに舌を絡めて何度も唾液を交わしあった。
 競うように互いを追い立てあって、めまぐるしさに眩暈がしてくる。
 下肢がさらけ出され、臍につきそうなほど勃ち上がったものに気づくと、ヴェンツェルが物欲しそうな顔をした。
 が、クラウスはそれを遮るように互いの屹立したペニスをまとめ、乱暴に握りしめた。むき出しになった欲望同士を触れあわせ、先走りでぬるぬると柔らかくしごいてやると、ヴェンツェルはのけぞって祭壇に倒れ、焦れたふうに空いた手で自分の髪をかきむしった。
 それでもなお、ヴェンツェルは挑むような目つきのまま、クラウスから視線を外さなかった。すでに目縁はうっすらと赤く染まり、熱に潤んでいる。
 ひどく浅ましくて扇情的だった。
 誘っている。
 早く、強い快楽が欲しいからだ。
 クラウスは再びヴェンツェルの上体を引き込んで押しつけると、身動きがとれないように体をずらした。
「いいから、もう、さっさと挿れろ」
 ヴェンツェルから荒くうわずった声が上がったが、無視した。
「あ、ッ……!」
 前触れもなく後ろの窄まりに容赦なく指を突き入れると、ヴェンツェルがびくりとのけぞった。
 指でこじあけて擦り上げると、中途半端な刺激を嫌って、ヴェンツェルは頻りに髪を振り乱した。
「抜け、馬鹿……っ!」
「挿れろと言ったり、抜けと言ったり……うるさい」
「おまえのを、さっさと──つっこめ……っ」
 無視され、焦れた赤い瞳には怒気が浮かんでいたが、これにも気づかないふりをした。焦らすほど、後の快楽が深くなるのはわかっている。手っ取り早いマスターベンションに手をかしてやるほど親切にはなれない。
 襞をじっくり擦り上げて、クラウスは丹念に熱を掘り起こす。時折深くを掠める指が、ヴェンツェルから悲鳴じみた熱を引きずり出した。徐々に指を増やし、弱いところをそろりとなで上げると、ヴェンツェルは緩い快楽に粟だち、肌の上にみだらかな起伏を作り出した。浅く吐き出される吐息は熱く、亀頭からも先走りがひっきりなしにあふれ出て、急き立てるように脚がクラウスの腰に絡みつく。
「……まだるっこし、い」
 掠れた声でねだるくせに、指を引き抜こうとすると、まるで絡みつくみたいに締め上げてくる。クラウスは思わず鼻で笑った。
「どっちなんだ」
「……っあ!」
 気分が乗って、クラウスはそのままヴェンツェルに舌で触れた。髪を引っ張られたが、構わず喉の奥に当たるほど深く含み、わざとぐちゅりと音をたてては強く吸った。舌をとがらせて節にそって舐め上げると体をひくつかせながら甘い声を絞り出す。
「あ、っ……あぁ……!」
 乱れた声がクラウスの背中を撫で、ヴェンツェルの手が首筋にかかる。膝を折り曲げてクラウスに任せたまま、祭壇の上で背骨が浮いた。
 前と後ろからさんざん舐ってから、ひきつるように背中を震わせたヴェンツェルから指を引き抜く──と、すかさずヴェンツェルが跳ね起き、クラウスの肩を押しつけてまたがった。
「なにする……」
「うるさい」
 跨る恰好で、ヴェンツェルはクラウスの屹立するものを自らあてがい、ゆっくりと腰を落としていく。
 体を割り込ませた瞬間、耐え切れないように甘い息を吐き出した。
「あ、あ……っ!」
「き、つ……力、抜け」
「ん……あぁ、……ッあ、あ……」
 聞こえているのかいないのか、うなじにしがみつくヴェンツェルは、容赦なくクラウスを熱く締め上げてくる。
「ほぐしたのに、まだ狭い」
「早く……早くしろ──う、ァ……あ、あ」
 狭いそこを容赦なく、一気に奥まで突き立ててやると、噛み殺すそぶりも見せずに嬌声を上げた。
 尻を掴み、無理に下から何度も突き上げて揺さぶると、ヴェンツェルの声に微量の苦痛が滲んだ。だが開いた痛みはすぐに押しのけられ、息の止まりそうな快楽にすり替わっていくのがわかる。体を包んだ筋肉が、質量の大きすぎる快楽に耐えかねて、前のめりになった体が再び細く痙攣し始めた。熱くて狭い内壁がその度にひくついて、クラウスを挑発する。誘われて獰猛に腰を突き入れると、とろけそうな内壁にぶつかって、ひっきりなしにいやらしい音がまとわりついた。
 腰を浮かせるたびに、ヴェンツェルの腹へペニスが押しつけられるのが見え、戯れに握り込んでやろうとした瞬間、ぴしゃりと手を払いのけられた。
「よせ……」
「突っ込まれて、触られるの、好きなくせに」
 それには答えず、胸を波立たせながら、ヴェンツェルは自分のそこを握ってしごきはじめた。
 痴態の全てがクラウスの視界へ晒されていた。細い肢体が快感にしなるのも、汗が滑り落ちるのも、乳首が腫れぼったく色づいているのも、亀頭がぬるりと手のひらで滑るのも。
 気づけば、自分の口元からも忙しない喘ぎが漏れている。自分の歯と舌の間から浅ましく漏れ出る声に、耳をふさぎたくなった。
 ──と、クラウスの耳朶を囓りながら、ヴェンツェルがしがみついて細かく震えた。
「いっちまえよ……ッ」
「どっちがだ……我慢できないくせに」
「ぁあぁ……ッ!! ぁっ、あ」
 荒く、浅く吐き出す息の下で、ヴェンツェルが微かに笑って 、そして果てた。

 燻る熱で気怠い躰に反し、さえざえとする意識を持てあまして、クラウスは起きあがった。
 蒼い闇はつかの間の情事などさらりと飲み込み、静かに沈黙している。なんの気なしに立ち上がると、石の床が摩擦で乾いた音を立てた。思わず振り返ったが、規則正しく聞こえてくる寝息に乱れはない。
 ヴェンツェルはとっくに眠りの谷へ落ち込んでいた。行為の後、あっさり寝てしまうのはいつものことだった。一度こうなると、多少揺さぶったところで目を覚まさない。とはいえ、殺気があれば跳ね起きる。
(獣じみているな)
 そう思う傍ら、自分よりもこの男の方がよほどマシなのだと知っている。昔から自分の望むことにだけ、ひどく正直な男だ。自信に満ちた凄絶な笑みに嫌悪を感じるのは、認めたくはないけれど、そこに微量の憧憬があるせいだ。
 バラガーンの集落で同じように育ち、ここまで来た。子供そのものが少なかったから、同じ年頃の子供だというだけでひとまとめにされたし、散々比べられもした。だが、いくら一緒くたにされても、お互いの思考に接点は一切見いだせなかった。傍目から見てもヴェンツェルはきかん気の強い少年だったし、そういう自分はひときわ物静かな少年だった。
 ここまで二人で来てしまったのは、戦ううちに敵も味方も死に絶えて、気づけば隣にヴェンツェルしか残らなかったというお粗末な理由にすぎない。そして獣じみた行為に及んだきっかけもまた、人を殺した後の興奮に収まりがつかないから、或いはエリダラーダという国が寒く、人目を忍ぶと火も灯せず、暖を取ろうとすると寄り添う以外方法がなかったからだ──後者の理由は多少言い訳じみていると認めてもいいが、それ以上の明瞭な言葉など、クラウスには思いつかない。だから、それでいい。
 人殺しというシンプルな行為で、お互いが初めて結びついた。それだけは間違いななかった。
 エリダラーダとバラガーンの戦いはいよいよ凄惨を極め、同胞はもうほとんど残っていないはずだ。
 元々先細りの一族だったから、戦が長引けば堪えられないのは目に見えていた。だがここまで追いつめられた直接の原因は、力において人を黙らせることなど容易かったはずの年配者たちが、誇りと矜持を胸に人を殺すことを拒み、話し合いであるはずのテーブルで虐殺の憂き目にあったことだ。残された年若いものたちは理解ができず、タガが外れたように人間を殺し続けた。そのうち、次期バラガーンへの望みを託す白羽の矢が立ったのだ──勝ち続け、死体の山を築き上げた黒衣の男、クラウスに。
(冗談じゃない……)
 人が殺したかったわけではない。さりとて高尚な理由があったわけでもない。ただ、たくさんの近しい人たちが死んだ。クラウスにとってユージェニックスの主張などどうでもよかったが、ただそれだけが苦く胸を灼いた。
 物心ついた頃からずっと、このまま谷の集落から一歩も出ず、穏やかに暮らし、土へ還るのだろうとぼんやり思っていた。外の世界へ出てみたいという欲求がなかったといえば嘘になるが、外に出たからといって何がしたいとも分からなかったから、それでいいのだと信じていた。
 だが、永劫続くかのように思われた日常は、いきなり覆された。甘やかで時に気怠い日常も、いっぺんに亡くしてみれば一層胸に痛かった。
 それならばせめて、自分のために戦いたかったのだ。一族とその集落は、世界の全てだった。彼なりに一族を愛していたし、大切なもののために戦うこと、そのために自ら立ち上がることは意味があるように思われた。そうすることで、幼い頃からずっと胸にあった閉塞感──逆らえず、どこへも抜け出せないという──から、初めて自由になれる気さえした。
 だが戦って勝ち続け、賛美と、同じ質量の罵声を浴びるだけ浴び、気づいたときはもう引き返せないほど戦況が逼塞していた。弔いの黒は、いつしか死装束の黒へと意味を変えていた。他でもない自分自身の血にまみれた手が、出口に連なる最後の扉を閉めたのだと分かった──ヴェンツェルと自分は、言うなれば共犯の右腕と左腕だった。バラガーンという名の、目に見えない身体を持つ虜囚だ。
 今や、誰もが全ての結末を自分に求めている。ならば、せいぜい俺に縋って華々しく滅べばいい。それが世界の意志だと美しげに嘯くのなら、勝手にすればいい。
 ふと、炎の中で相まみえた男を思い出す。
(少し、惜しかったな……)
 もしエリダラーダに生まれ、知り合っていたなら、酒でも酌み交わせただろうか。
 いや、そんな過程は意味がない。それに、あの男は今頃死んでいるだろう。もし仮に生きていても二度と剣は握れまい。その事実は彼にとって死ぬより酷いことに違いなかった。
 クラウスは、鈍く熱を持つ脇腹に手を添えた。
 自分があの男から受けた傷は、とうにふさがりかかっている。その事実は、ひどく不公平だと思う。人間よりも多くのものを持つ一族、バラガーン──そんなものでなくてよかった。たとえ何も持たない人であっても、あの男の瞳が羨ましかった。ただひたすらに何かに殉じて生きることができたら、どんなに気持ちがいいだろう。
 祭壇の脇にある質素な飾り棚へ、クラウスは手を伸ばした。
 分厚い一冊の本──聖典と呼ばれる教本がおいてある。
『主はあった、ただそれだけだった』
 ぽつりと、素っ気ない書き出し。
 こんなものに人は、何を見いだすのだろう。それとも俺の目はもう、神の言葉など映しはしないというのだろうか。こんな救いようのない魂に、救済はありえないか。ならば、神とやらも万能ではない。──いや、違う。これは所詮、人間が作り上げた偶像にすぎない。それが証拠に、人がいなくなったこの場所は、とうに息を引き取っている。
 どんどんと思考が上滑りしてゆくのを感じて、クラウスは頭を振った。この期に及んで、くだらない思考を持てあます。強かな目をした者を見るたびに、どこか痛い。だから──
「オマエは神になどなれない」
「……ヴェンツェル」
 いつの間にか起きあがったヴェンツェルが、上目遣いにクラウスを見ていた。
「ただの浅ましい人殺しだ。本当のオマエは誰かに縋りたいくせに」
「分かった口をきくな」
 頭に来て、手にした本を放り出す。と、ヴェンツェルがそれを見て肩を竦めた。
「別に責めてはいない。俺は、どこにも縋れないオマエがおもしろい」
「この……ッ」
 言葉通り、ヴェンツェルは嗤っていた。かっとなって走りより、喉の硬い尖りを突き上げるように力を込めてさえ、ろくな抵抗もせずに嗤って見せた。
「殺してやる──」
「オマエは俺を絶対に殺せない。俺だけがオマエを見ているからだ。そうだろう」
 ヴェンツェルは掠れる声で、なおも傲然と言い放つ。
「オマエが高潔な顔をして堕ちていくところは、見応えがあって飽きない。せいぜい這い蹲れ。死ぬなら最後に、俺に縋って死ねよ」
「うぬぼれるな、ヴェンツェル……!!」
「ならば、みっともなく生き恥を晒せ。そうすれば誰もがオマエを蔑むさ」
 締め上げるクラウスの手を、ヴェンツェルが掴んだ。
 触れた手が思ったより熱くて、驚いているうちに首元から取られ、指を絡められた。だが強引さはなく、むしろ慰撫するような仕草で、ヴェンツェルはクラウスの指先にそっと口づけた。
「…………」
 甘く伝わる体温にクラウスは困惑して、眩暈を覚える。
 烈しい気性の彼から与えられる柔らかい愛撫に、どうしていいのか、どう受け止めていいのか、よく分からない。
「……やっかいなものを連れてきたな、クラウス」
 その言葉に、クラウスははっとする。
 聖堂を包む気配がヒリヒリした殺気へとすり替わった。
「あの男、やってくれる……」
 すでに、無数の気配が建物を取り巻いていた。
 傷つき、意識が散漫になっていたことは言い訳にならない。あの男──騎士にしてやられた。どうやら後をつけられていたらしい。今にして思えば、あの冗長な言葉遊びも、先回りのための足止めだったかもしれない。
「だから俺を連れて行けと言うんだ」
 言い終わらないうちに、祭壇の真上に大穴が開いた。


 
 建物の周囲はいくつもの気配と殺気が渦を巻いていた。
 物陰と闇に紛れ、人影は見えない。だが、純度の高い力が辺りに充満している。
「……この気の中で動けば、確かに狙い打ちできる」
「連中、法具を使っているな。にわか仕込みでこれほど濃密に気を練れまい」
 ヴェンツェルが苦い顔で舌打ちした。
「村から奪ったベティルを使ったか。使い方を心得たヤツがいるとはな」
「ナザール=リンツェだろう」
 ベティルは魔力を高めるために使われる、魔石のひとつだ。結晶にする業を保つのはバラガーンしかいない。作り方はおろか、使い方でさえ知っているものは僅かのはずだった。考えられるのは、細々と口伝で残っていたか、カビの生えた古典文献を読み解いたか──さもなければ同胞が口を割ったかだ。うんざりすることだが、後者の可能性が最も高い。
 戦いに飽いた内戦の末期、黒の導師さえ殺せばと考えているのは、もはや敵だけではないはずだ。憎しみの熱だけで志気が保てる時期は、もうとっくに終わっている。
「本人が来ているという可能性もある。騎士団第七隊を直接指揮しているのかもしれない」
「目障りな男だ。殺してやりたいが、どうせ城から高みの見物だろうさ──ちっ!」
 ヴェンツェルの舌打ちと同時に、圧力で壁がぶち抜かれた。
「帳よ落ちろ──アクティリズム!」
 法術が紡がれ、透明な障壁が現れる。瓦礫が遮られ、細かく砕けて積み上がった。
 爆発による煙が晴れると、ぽっかりと大きく口を開けた天井から夜空が切り取られて見えた。
 空には、満天の星が静かに腰を下ろしている。
(たしか、星が……最初に歌うんだったな)
 敵に囲まれ、退路を塞がれている状況にも関わらず、ふと気まぐれにめくった聖典──創始の一節を思い出す。
 世界が夜に生まれたなら、やはり最期は夜に死んでいくのだろうか。
「なにを考えている」
 低く耳元で囁かれて、ぎくりとした。
「……なにも」
「死にたいのか」
 改めてはっきりと問われて、クラウスは返答に窮した。だが、なにも答えずにいると、ヴェンツェルはすっと瞳を細めてみせた。
「いいだろう。ならばお望み通り、まとめて消し炭にしてやる──」
 訝しんで口を開きかけたが、それよりも早く、ヴェンツェルの口端から美しい旋律がこぼれ落ちた。
『暗い月より生まれしリリトの子、スクブスよ』
「…………!!」
『暗き民、ピトリの賛美歌を歌い、月を狩れ。ネツァッフ=ザルマット=グアディ──』
「なにを、馬鹿なこと……ヴェンツェル!」
 叫ぶクラウスを気にも留めず、ヴェンツェルは詠唱と魔法陣の空書を続ける。
 ヴェンツェルが紡ぎ始めたのは、『始祖の業』と呼ばれる禁呪だった。『世界を紡ぐ音』と呼ばれ、バラガーンの集落でも口伝で伝えこそするが、使うことは許されていない。
 扱う力が大きすぎるせいだ。周囲に与える影響も大きく、下手をすると空や大地に取り返しのつかない傷跡を残す。当然、術者本人への負担も大きい。
 大きな術を行使するには、相応の代償を求められる。力や時間、貴重な物質──様々なものと引き替えにすることで初めて完成する。ましてリリトグラムは、この世界の構成を揺さぶる音なのだ。たった一人で振り回すなど、自殺行為に等しい。
 咄嗟に見上げると、夜空へ七色のシミが広がっていくところだった。一カ所を中心に、まるで紙を灼くようにねじくれていく。破れ目からは光がこぼれ、呼応するように大地が光り、盛り上がって震え、軋みを上げた。
 ひっ、と息を詰めるような呟きが漏れ聞こえた。目の前で広がってゆく怪異に、身を隠していた兵士たちが堪えきれなくなったのだろう。
 ヴェンツェルが陣を手繰る手先もまた、見る間に光へと溶けはじめた。やがて手首までが光に飲まれ、腕まで達する。
 それでも彼は、詠唱をやめようとしない──否、すでに引き返せないところまで踏み込んでいた。ここで詠唱を途切れさせたら、宙に浮いた力がどうなるのか想像もつかない。
 彼の表情から余裕の色が少しずつ削げてゆき、かわりに隠しきれない苦痛が浮かびあがる。相当逼迫しているのだ。タイミングを計って手をかさなければ──何とか術を完成させなければ、この辺り一面を巻き込んですべてが消滅するしかない。
 だが、唐突に別の衝動が喉を押し上げてくる。
(このまま……俺が何もしなければ……)
 クラウスは降ってわいた思いつきに背筋を粟立たせ、戦慄した。
 何もしなければ、この男は──ヴェンツェルは死ぬ。自分が手を下さなくても勝手に死んでゆく。力の重みに堪えかねて、おそらく跡形も残らない。
 自分もまた、この距離で巻き込まれたら死ぬしかない。
(何もしなければ、全てに片が付く……全部が終わる。俺の胸一つで)
 大陸上はおろか、歴史上からもきれいさっぱり消えることができる──そう言った騎士の声が、はっきりと谺していた。
 あのとき、呪を受けたのだ。
 漠然としていた思いは、言の葉から形を結び、小さな楔となって胸に穿たれた。そして今、こんなにも鮮やかに脳裏へ甘く閃く。どろりとした汚穢となって胸を埋め尽くす。
 これが呪いでなくて、一体なんだというのだろう。
 苦痛の気配がいよいよ烈しく吹き付けてきて、足下を凝視していたクラウスは再び顔を上げ、覚悟を持ってヴェンツェルを見た。
 もうやめようと、これで終わりにしようと言うつもりで──なのに。
「──ヴェンツェル……」
 クラウスは、ただ呆然と名を呼ぶしかできなかった。
『カリ=ユガ=カルパ』
 美しい旋律を謡いながら、彼は口端を上げて、確かに笑っていた。
『ラジャス=ラツィエル』
 クラウスから、少しも目をそらさずに。
『アイン=ソフ』
『ピトリ=ソマハ=ヴァ=ダァト……!』
 苦痛と恍惚とがない交ぜになった凄絶な笑みを浮かべて──ヴェンツェルはクラウスをじっと見つめ続けた。

 夜の帳を、日の光が揚々と払いのけはじめた。
 隠匿も不貞も、全てかしましく暴き立てては白日に晒す──容赦のない正しさだ。
 目の前には、淡々と白茶けた大地が広がっている。
 ただ、それだけだ。
 時折黒ずんだ染みが落ちていたが、もちろん物の影ではない。
 影になる高さのものは、辺りに全く存在しなかった。
 高く鋭く連なる樹木、枝葉が地面を覆うように茂った岩場の窪み、石畳に佇む教会──全てがかき消え、息づいているものなど見つけられない。
 自分以外の、ひとつしか。
 どろりとした染みを踏みしめると、時折鈍く砕けるような音がする。
 人が内側から破裂して飛散した痕──人間の骨片だった。
「だから言ったはずだ」
 落ちてくる声もまた、容赦のない強さだった。
「オマエは俺を殺せない」
 静かに、だが勝ち誇った色を帯びた声──そう。いつだってこの男は、俺より遙かに冷静だ。
 俺は、大勢の命と引き替えにしても、この男の命が惜しいのだ。
 そしてやはり、自分の命も惜しいのだ。
(なんて、浅ましい……)
 死んでしまいたいなんて、自己陶酔もいいところだ。疲れて、誰かに慰撫されたかっただけだ。
 本当は誰を押しのけてでも死にたくないのだ。そうでなければ、死体の山に埋もれながら平然と生きていられるはずがない。
 お互いしかいないからだと、相哀れんでいるからだとずっと思ってきた。
 だけど、そうじゃない。
 俺はこの男しか見ていたくないのだ。この男しか欲しくない。この世の全てがどうでもいい。ただ、この男が感じられればいい。だから、世界がどうなろうと関係ないのだ。
 なんて──浅ましい。
 出来損ないの朱に染まった瞳には、白と黒の歪んだ世界しか映せず、血の色やぬめりを感じとることができない。
 そして、どこまでも歪んだ世界には、俺とこの男だけがまっすぐに映る。
「アイテールの双子のことが書いてあった」
 どさりと何かが目の前に投げ出された──一冊の本だった。四隅のひとつが、重みで砂に埋まる。
「ストラナーとの間を結ぶ、エヴェストルムの流れについても記録がある。誰が言いふらしたのか知らないが、こいつは立派な魔道の教本だ。もっとも背びれ尾ひれがついて、まるで暗号だがな。まったく、神だ聖典だのと笑わせてくれる。──こっちを向けよ、クラウス」
 むりやり頤を掴まれ、あおのく。そうして初めて、クラウスは自分が跪いていたことを知った。
 頬がべたついた感触に濡れ、よく見るとヴェンツェルの右腕がこそげて骨が覗いていた。
「アイテールとの接触周期が近い。アダムの息子、イヴの娘と呼んでいるらしいが──うまくすればヤツらをあと数年から十数年の間に呼び込める。リリトグラムのいい触媒になるだろう。詠唱もテトラクティスもすっ飛ばして、この世のあらゆる望みを叶える」
 そう言って、ヴェンツェルは食らいつくようにクラウスの唇を奪った。
 されるがままに、クラウスはそれを受け入れた。疲れた躰へ唇から甘い熱が降りてくると、それはすぐさま即物的な劣情を惹起した。このまま引き倒して、もつれて、むさぼって、引き裂いて、吐き出して、全て忘れてしまいたくなる。この期に及んでこの躰は、心は、まだそんなことを思う。この浅ましさ。
 このまま両腕に抱えきれないほどの罪を抱えて、一体どこへ行き着けば気が済むのだろう。
 土台に屍を積み上げた二人だけの国で、世界へ続く通路を全て閉ざし、二人がけの玉座に座って、一体何になるというのだろう。
 あのまま光に飲まれて、なにもせず二人で消えてしまえばよかったのに、死ぬ覚悟すら決められない。
 なんて、愚かしい。
「触るな、ヴェンツェル……」
 風音に掻き消されそうに微かな声を絞り出すと、おとなしく唇が離れた。
「もう、側にいないでくれ」
 嗄れた声で言うと、ヴェンツェルがじっと見つめ返してから手をほどいた。泣きたい気がしたけれど、涙は出なかった。
 一人だと寂しい。けれど、一人だとこんなにも苦しい。
「バラガーンは滅んだ……黒の導師はもういない。それでいい……俺はもう、存続のためにどこまでも奉仕する自分を見ていたくない」
「……言いたいことはそれだけか」
 ヴェンツェルが冷たい視線でクラウスを睥睨した。
 そのまま答えずにいると、彼はいっそう瞳を細めてみせる。
「ならば俺がやる。俺は俺のやり方で望みを叶える。だが覚えておけ。秩序もモラルもなく、縋る神もない──それが俺たちバラガーンだ。今やこの瞳はスティグマだ、逃げる場所はない。そして、おまえと俺はどうしたって違うものにはなれやしない──」
 そう言って、ヴェンツェルはクラウスの黒い外套を引きはがした。
 畏怖の象徴であった、長い黒衣を。
「おまえにはもう、用のないものだろう。俺が貰っていく」
 千切れて、血の染みた外套をヴェンツェルは体へ巻き付け──そしてきっぱりと背を向けた。


 好きだ──という免罪符は、お互いに最後までかざせないままで。