MAXIMILIAN03

 まもなくアキラとシキの取り調べは打ち切られ、共に下がることを許された。
 アキラは別の部屋で取り調べを受けていたシキを迎えに行き、血のこびりついたその手を取った。立ち上がるよう促しても、やはりシキは一言も声をこぼさず、しかし諾々と従ってみせた。
(聞こえては……いるんだな)
 もとより、あらゆるものから隔絶していた男だ。他人の言うことに頓着するなんてあり得ない。だが、無視することと反応しないことは、似ているようで全く意味が違う。自分の言うとおりに動くシキは、なんだかおかしかった。
「明日、朝にもう一度ここへ連れてくるように」
 しかつめらしい顔をした軍人の言葉に、わかった、と小さく頷いて、アキラは新たにあてがわれた別の部屋へと向かった。
 途中、先ほどの取調官と廊下ですれ違った。彼はどこか痛ましげな目でこちらを見ていた。何か勘違いをしているとは思ったけれど、無視する。
 ふいに、シキの手先が冷たいことが気になって、アキラは手のひらを強く、何度も繰り返し握り直した。

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 部屋のソファにシキをそっと座らせると、アキラは真っ先にバスルームへ飛び込んだ。
 頭から熱い湯を被ると、少しはマシな気分になる。血液が乾き、こわばった肌が気持ち悪くて仕方ない。削るように体を擦り、全身にこびりついた血の臭いを消したい一心で、贅沢に石けんを使って体を洗った。
 髪からこぼれる水滴も払わないままバスルームから飛び出すと、シキは先ほどと同じ姿勢のままで座っていた。
「待たせてごめんな」
 返事がないのを承知で、そう口にした。たとえ返事がなくても聞いていてほしい。そうしたら、いつかほろりと返事をしてくれるのじゃないか──そんなふうに、心のどこかで期待しているのかもしれなかった。
(……今までも、そうだった)
 期待させ、焦らし、思ってもみないような手酷いタイミングで切り込んでくる。いつ堕ちるか、音を上げるかと嘲笑いながら、こちらが油断して無様な姿をさらすのを待っていた。
 だから絶対に、何があっても、諦めて屈することだけはすまいと心に誓ったのだ。膝を折らず、ふいに返される手のひらに翻弄されながらも挑み、あがき続ける。どんなに惨めな姿をさらしても、失望だけはされたくなかった。理性の隅にかろうじて残った、一握りの意地だった。
 それに、挑み続けることでこの孤高の男を自分に引きつけておけることもわかっていた。
(俺はずっと、……シキが知りたかった)
 殺してやりたいほど憎んでいる。だが、男に対する憎しみで胸の奥がこすれて痛めば痛むほど、同時に不可思議な熱が自分を苛む。
 なぜ、こんなことをするのだろう。ただの陵辱めいた行為に、なぜ息を乱すのだろう。幾度となく痛めつけておきながら、無様だと嘲りながら、どうして何度も何度も目の前に現れるのだろう。
 まったくわからなかった。あまりにわからないから、知りたいと思った。
 言動や所作、その全てを見つめて焼きつけ、何がこの男を突き動かすのかを知りたい。だから、片時も目を逸らすことができなかった。
 けれど──今もやはりわからない。
 この男の身の内で、一体何が起こっているのか。
 動かないシキをもう一度見つめてから、アキラは小さなため息をついた。バスルームで湯にひたしてきたタオルを使い、血しぶいて汚れたシキの顔をぬぐってやる。それから、血液のこびりついた服を慎重に開き、くつろげた。
 もし怪我が酷かったら、と心配してシャワーを控えたのだが、ほとんどが返り血で、大したことはないようだ。頬に一筋、それから手のひらに二筋の切り傷。頬の傷はガラスに叩きつけられたときのもの、手のひらの傷は自ら力任せに掴んだ白刃で傷つけたのだろう。未だに鈍く出血するほどの深い傷口ではあったが、命にかかわるようなものではもちろんない。
 未だ握った形のままこわばった手のひらを、アキラはゆっくり開いてやった。傷口をタオルで丁寧にぬぐい、部屋へ来る前に調達した救急セットで簡単な治療を済、包帯を巻いた。これで一晩様子を見て、発熱したり、膿んだりするようなら医者に診せればいい。出自を怪しまれているとはいえ、怪我人を無下に扱う空気は感じられなかったのが救いだった。
「気分は? 頭打っただろ。気持ち悪いとか、ないか」
 やはりシキは答えない。
 本当に、一体どうしてしまったのだろう。昼間の取り調べの際も、すでにこんなふうだったのだろうか。
 それに、自分はなぜ気づいてやれなかったのだろう。地下通路から外へ出た折、確かに漠然と何かおかしいと思った。だが、それ以上は追及しなかった。
(……こんなことになるまで)
 酷い男だ、同情することはない──けれど、そんなふうに思ってみたところで、手当てしたばかりの包帯に血を滲ませ、表情の抜け落ちた様子でことりとも動かない男は酷く痛ましい。
 アキラはシキの手のひらを、そっと取った。手当ての前に皮の手袋は取り払っていたから、ひんやりした手のひらから肘まで、白い肌が剥き出しだった。
 ほっそりとしなやかな、ためらいのない右腕。
 シキが人を殺すところなら、何度か見ている。だが、明らかに今日は様子が違った。
 人を殺すことに目的も、憎悪も、優越も──何も持たないシキなど、見たことがない。
 感情を持たず、心の動きが失われたのなら、果たして脳は動いていると言えるのだろうか。
 脳が動いておらず、自ら動くこともしない──果たしてそれは生と呼べるのだろうか。
 シキは死んでしまったのかもしれない。
 整えられて、歪んで、美しく、動かなくなってしまった──死体袋の中の兵士と同じに。
「違う……」
 かぶりを振り、アキラはいたたまれない気持ちでシキ体を引き寄せ、胸に耳を当てた。
 規則正しい鼓動がする。まだ心臓が止まっていない。まだ生きている。
 だが、アキラの手に抵抗は戻らない。
 生きている。なのに、──死んでしまっている。
「違う!! そんなこと、……シキ!」
 胸に、頬をすり寄せた。冷たいと思っていた肌は、思ったよりも暖かかった。かすかに浮いたあばらが痛々しい気がして手をはわせると、滑らかな感触が伝わって──
「え……?」
 アキラは驚いて跳ね起きた。
「今の……」
 息を詰めるようにくぐもった、声にならないほどの、声が。
 確かに聞こえた。
 何が引き金だったのだろう。めまぐるしく思考を一巡りさせてから、アキラはもう一度シキの胸に頬を寄せ、慰撫するようにそろりと撫でた。
 小さく、腕の中の男が身じろぎした。
「シキ……」
 反応があった。そう思った。勘違いでもいい、すがりたくなった。この男はまだ、死んでなどいないと。
 だが嬉しさがこみ上げる一方で、抵抗のひとつもせずに反応だけを返すシキの体に酷く腹が立った。
 そういえば傷の手当てのために脱がせたとはいえ、シキが自分に肌を曝すなんて初めてのことだ。
 自分の運命をねじり上げ、殺すよりも酷いことをした男──それがシキだ。それなのに。
 やっぱり、許せない。
 頭の芯が痺れて明滅した。
 アキラはシキの肩を押し、大振りのソファにその体を強く沈めた。