使わない手のひら

 手がたくさんあればいいのにと思う。
 取り替えられる手があったら。
 二本しかないと、どうしても、足りない。
「──あっ、あ……ぁ」
 利き腕は右手だ。だから、なんでも右手でする。
 たとえば歯を磨くとき、箸を持つとき、ハサミを使うとき、繕い物をするとき。
 人を殴るとき。相手の襟首や髪を掴むとき。ジャックナイフを逆手にするとき。
 男のそれを掴むとき。くびれを引っかけて扱き上げるとき。ぬかるんだそれを筋に沿って撫であげるとき。──歯を食いしばるだけでは足りなくて、自分の口を塞ぐとき。
「あ! ぅ……うあ……ッ!!」
 塞いだところで漏れる声の方が大きすぎる。けれども、ものすごい質量の痛みと嫌悪感が突き上げてくるから、声でも上げないことには耐えられそうにない。体中が汚物で膨れあがり、破裂してしまいそうだった。第一、意地でも声を上げまいとするとかえって相手の嗜虐心を煽るらしく、いつまでも執拗に責め立てられることが多い。そのことをふと思いだし、途中から口を塞ぐことを諦め、薄汚れたシーツを掴むことに切り替えた。
「ああああ……、っ!!」

 思うさま放り出される自分の声で、頭がいっぱいだ。
 だから、浴びせられる罵倒も、ばらまかれる嬌声も、荒い息づかいも、湿ったぐちゃぐちゃする音も、全部気のせいだ。
 組み敷かれて何度も揺さぶられるうち、頭がベッドの一番上に押しつけられた。申しわけ程度においてあったぺしゃんこの枕と、しわくちゃのシーツがわだかまって、そこからツンとすえた臭いがした。
 目は閉じればいい。音は聞こえないふりができる。
 でも、鼻は無理だなと思った。
(手が足りない)
 この状態で鼻をつまむ自分を想像して、少しおかしくなる。思わず笑ったら、下から突っこまれたまま殴られた。弾みで口の中が切れて、血の味がした。自分の呼吸に混じって、鉄の臭いがする。
 ──ぐらぐらと、世界が歪むくらいに目眩がした。
(ああ、そうか。息を止めればいいのか)
 それならば、手を使わなくて済む。
 けれど、このまま全部手放して死ぬには、度胸も覚悟も足りなかった。

:::

 目が覚めると薄汚れた部屋にひとり、取り残されていた。
 身じろぎし、顔を傾けると、頬の下にがさりと乾いた感触があった。
(紙……?)
 つまみ上げてみると、紙幣だった。
 軋む体をなんとか持ち上げると、自分が横たわった場所を中心に高額紙幣がばらまかれていた。意識をなくしていたのだからそのままとんずらしたって構わないはずなのに、なかなか律儀な変態だなと感心する。
(豪勢だな、札束ベッドかよ)
 口の辺りがぴりりと痛んだ。遅れて、自分が笑おうとしていたことに気づく。唇が乾いていて、無理に動かすと切れてしまいそうだった。
(ああ、殴られたっけな)
 まるで他人事のような順番で、思い出す。
 そんなふうにくだらない考え事を繰り返すうち、次第に意識がはっきりしてきた。
 急に、気持ちが悪くなった。
 札束をかき分け、ベッドの脇に放った自分の手荷物からペットボトルだけ掴みだして起きあがる。
 トイレで、口に手を入れて胃の中のものを全部吐いた。ペットボトルの中の水を煽ってすすぐと、酸味と血の味が舌を滑って流れていく。
 口元をぬぐってから、今度は後ろの窄まりに指を突っこんで、中のものを掻き出した。
 いつものことだ。
 もう慣れた。
 全然、平気だ。
「…………っ!」
 入り口を広げると、どろりとしたものが中からあふれ落ちてくる。家から持ってきたタオルを水に濡らし、ときおり手を拭きながら、何度も何度も同じ事を繰り返した。廃屋寸前、名前ばかりのホテルに、シャワーなんて上等なものは備え付けられていないから、洗いたければこうするよりない。歩きながらしたたってこない程度、家の風呂に飛び込むまでの間、辛抱できればいい。
「は……ッ」
 指が窄まりに触れるたび、傷つけられた粘膜がひりひりと熱を持って痛んだ。脂汗が皮膚から絞り出されて、再び吐き気がぶり返す。どうせ吐くものなんて胃に残ってはいないのに。
 ぽたぽたと、便器の水面を打つ音がする。
 壁の向こうから、女のすすり泣く声がかすかに聞こえた。
 気持ち悪い。
 こんなことは、もうやめてしまいたい。
 洗ったって、こそげ落としたって、本当はもう、きれいになりようがない。
(……バカ、そんなことじゃねえ。こんなこと、どうってことねえよ)
 かぶりを振ると、顔の上に乗った水気がふるい落とされて、顎を伝った。
(飯食って、糞して、寝るのと、違わねえし。そんな簡単に金出すって変態がいんだから、めっけもんだろ。こんなの。いつものことじゃねえか。俺は別にどうってこと──)
 なぜだか頭がとても重くて、支えきれずに臍の位置まで下がった。

:::

 ジャケットのジッパーを合わせながら、足早に路地を抜けた。
 夜の外気にはまんべんなく、重い宵の色が塗り込められている。
 だから白昼と違い、夜さりはどこか隔絶した気配が満ちているのだと思う。すき間というすき間に夜が滑り込み、膨らみ、分厚いそれに暖かみのある気配はすっかり遠ざけられてしまう。
 暗がりを通り抜けることができるのは光や音、それから悪意や、害意。
 どれも、温度のないものばかりだ。
 ただでさえ、政府によって夜半の店舗営業は規制されており、街路は灯火が乏しい。治安維持の名目で徹底されるそれはいっそう闇を濃くする手伝いをし、不穏なものを乱暴に地下へと押し込め、かえって夜の犯罪を増長させている。
(そういや今日はBl@ster、やってたっけな……)
 Bl@sterは恐らくこの界隈[AREA・RAY]で唯一、密度のある熱を帯びたものだ。抵抗、闘争、嗜虐、欲心──だが、どんな熱でも、冷気に縮こまっているよりはずっといい。
 しかし。
(……ダメだ、今日は)
 ふいに目の前がちらついて、ひとり、思い出す顔があった。
 面識はない。先日、遠目に見た男だった。
 その男は[AREA・RAY]の頂点に立ち、金も名声も、なにもかもを手にしているはずだ──なのに、熱狂の坩堝にあって、温度のない目をしていた。
 そう、思い出したのは、顔ではない。
 あの、瞳だ。
「畜生……」
 記憶からどっと吹き出した気鬱を振り払いたくて、強くかぶりを振った。
 視線が交差する寸前の気配に慌てて逸らした、あのときの瞳を思い出し──ひどい目眩を覚える。本当に気分が悪かった。こんな状態で参加はおろか、観戦してもたぶん、熱気には乗りきれない。もし膝をつくようなことがあったら、二度と立ち上がれないような気さえした。
 大勢の熱と人いきれに乗り遅れ、取り残されるのは、ひとりでいるよりもいっそう孤独だ。熱よりもさらに上から、冷ややかに見下ろされることも。
 耐えられそうになかった。
 四つ角へと向いていたつま先を反し、最後のためらいを蹴飛ばして、再び家路を急いだ。
 やがて住宅の密集する区画までくると、辺りに家々の明かりがちらつき始める。
(早く)
 ポケットに手を突っ込んだまま、思わず上体が前のめりになった。急いた足がもつれそうになる。
 戸に満ちた片明かりと熱はすべて分厚い壁と扉に閉ざされていて、見ればひとり、宵闇に閉め出されているのを思い知る。
 まるで気管から肺までが凍ったような気がして、ひどく息が苦しかった。
 だから、取りすがるようにして家の扉へと駆け込み、固く閉ざした。

:::

 扉の向こう、家を貫くように通るまっすぐな廊下は薄暗かった。電気はついておらず、床にはものが散乱している。
 洗濯物や、クッション、何組ものスリッパ。
(……また暴れたのか)
 ここのところ母親の具合が悪い。目を離すと何をするかわからないから、割れ物は目につかないところへしまってあった。
 ──壁と扉を隔てたここにも、闇がわだかまっている。
 ポケットにある紙幣を握りしめて歯を食いしばったとき、かたりと、廊下に面した扉が細く開かれた。
 ふと、ひとすじ、柔い明かりが漏れた。
「……お兄ちゃん、おかえりなさい!」
 目をこすりながら、妹の由香里がほとほとと頼りない足取りで出てきた。
「由香里」
 慌てて靴を脱ぎ、廊下の電気をつけて、上がりがまちに散らかったものを足でどけてやる。
 転ぶこともなく、暗がりの中を無事に目の前までやってきた由香里は、ふわあと大きなあくびをした。
「ごめんな、起こしちまったか」
「ううん、由香里、起きてたよ……ほんとうだよ」
「寝ててよかったんだぞ」
 苦笑しながら言うと、由香里がふるふると首を横に振った。
「お兄ちゃんにおかえりなさいをしたかったの。だってお兄ちゃん、由香里が学校から帰ってくると、いつもおかえりってしてくれるでしょ。それに、夜じゃないと見て貰えないもん」
 そう言って、由香里がくるりとその場で回って見せる。
「ほら、見て。着たんだよ」
 黄ばんだ蛍光灯の下、薄暗い玄関口で、目にしみるほど真っ白なレースがひらりと踊る。
 誕生日にと、買ってやったネグリジェだ。
「ね、似合う? お兄ちゃん」
「ああ、すっげえ似合う」
「えへへ……」
 照れくさそうに、ちょこんとうつむき加減で由香里が笑った。
 由香里の滑らかな髪をそっと撫でてやると、大きな瞳がぱちりとまたたいた後に、ふと、細められた。
 髪へと差し入れた指の先が、じんとする。
 乾いて、剥けて、潰れて、堅くなった皮膚の先から、柔らかな愛おしさが細やかに通い、満ちてくる。
 由香里をやんわりと引き寄せ、肩口に顔を埋めた。
「お兄ちゃん?」
 不思議そうな声がした。そのあと、そっと背中に温かな両手がそえられた。
「お外、寒かった?」
「ああ……めちゃめちゃ寒かった」
 言うと、肩先でちいさく綻ぶ声がした。
「お兄ちゃんは甘えんぼだね。大丈夫だよ、由香里がずうっと一緒にいてあげる」
「そうか……」
「うん」
 由香里を抱きしめた。
 左の手のひらを回して。

 ──だから、なにがあってもこの手のひらは、汚れないようにとっておく。