ケイスケとアキラとマフラー

 ここのところ寒い日が続いていたが、今日は格別だ。
 夜半から冷え込みがいや増し、車両ハンガーにはしんしんと冷気が凝って、時間が経つほどに堆積してゆく。身を切るような凛冽とした空気がつき固められていて、雪にならないのが不思議だった。
「寒……」
 手のひらに吹きかけた息も当然、白い。
 間近で小型ヒーターをつけていても指先がじわじわとむず痒いばかり、そう思って熱から遠ざかれば端から手の感触が失せてくる。
「おい、ケイスケ! 3号車のラジエータ、どうした?」
 ベテラン工員の呼号が聞こえ、ケイスケははっと顔を上げた。
「チェック終わってます! 異常ありません!」
「──よし、これで上がってくれ。明日明後日は休みだ」
 おつかれさん、と無愛想な工場長の声がハンガーへ響き、どこからともなく安堵の息が漏れる。これ以上仕事を言いつけられてはたまらないとばかりに、工員たちは皆、手早く工具を片付けてそそくさと更衣室へ詰めかけた。
「やぁれやれ、やあっと休みかあ。何日ぶりだっけなあ。いい年の瀬だぜ、ったく」
「まあ、年を越すわけにゃいかなかったし、仕方がねえさ」
「終わりよければすべてよしってこった」
「違いねえ」
 作業着を着替えながら、談笑する声が引きも切らず聞こえてくる。一仕事終えた安堵からか、声のボリュームも心なしか大きい。
「おぅい、これから一杯どうだ。おまえら」
 遅れてやってきた年かさの工員が、更衣室に入って来るなりそう言い、わあっと歓声が上がった。
「いいッスね! おーい、ケイスケ! アキラ! おまえらどうする?」
 急に同い年の工員から声がかかって、ケイスケは瞬いた。

「いや、その……俺は酒、飲まないし」
 ケイスケが言うと、若い工員は大仰に肩をすくめた。
「なんだよ、つきあい悪りぃなあ。アキラは?」
「俺も別に」
 アキラもまた首を振って、そっけなく答える。
「ったく、引っ越ししてからオマエ、よけい愛想が失せたんじゃねえか? おい、おまえら仲良くやってンのかよ」
「やだな、仲いいですよ。……な、アキラ」
「……まあ」
 アキラが面倒くさそうに言ったものだから、工員たちが一斉に色めき立った。
「なんだなんだ、おいケイスケ。うまくいってんのは、おまえの頭ン中だけじゃねえだろうな?」
「ち、違いますよ!」
「我慢すっとよくねえぞ、アキラ。なんかあったらな、さっさと別居しろ、別居」
 ちらりとケイスケを見て、アキラがぽつりと言った。
「……考えときます」
「アキラ!」
 どっと笑いが弾けた。

:::

 着替えや片付けを済ませて外へ出ると、すでに日付が変わっていた。
 昼に充分ため込んだはずの陽の残滓も、さすがに冷気の刃で刮げ落とされて跡形もない。
 刺すような厳寒に肩をすぼめ、足早に工場を出ようとしたところで、背中からふいに声がかかった。
「ケイスケ、アキラ」
「女将さん!」
 驚いて、ケイスケは思わず大きな声を上げた。
「こんな遅くにどうしたんですか」
 ひょっとして工場長の帰りを待っていたのだろうか。工場の敷地に母屋を構えているとはいえ、この寒いのに寝間着姿で羽織ものひとつ──ひょっとしたら、わざわざ寝床から這いだしてきたのかもしれない。
「お見送りくらいさせてちょうだい。大変だったわねえ、あなたたち。ここのところ毎日毎日、疲れたでしょう」
「いえ、年内にちゃんと一区切りついてよかったです」
 ケイスケが言うと、女将さんのまなじりが優しい形に緩んだ。
「明日と明後日はお休みなんでしょ。ゆっくりなさいね。そうそう、なにか足りないものがあったら言いなさいよ。越したばかりで不便でしょう。あなたたち、遠慮をするから心配で」
「ありがとうございます」
 これでもずいぶん頼っているつもりなのだが、世話焼きの女将さんからしてみれば足りないようだ。顔を合わせる度に同じことを言われている気がする。
「それにしても早いわねえ、もう年の瀬なんて。この年になると一年が本当に短くて……あなたたち二人がここへ来てから、もう一年以上経つなんてねえ」
「本当に、今年はいろいろお世話になりました」
「とんでもない。ふたりとも不満も言わずに本当によく働いてくれて、うちも助かるわ。ああそう、アパートの近くにお寺さんがあるでしょう」
 急に切り替わった話題に、ケイスケはぱちりと瞬いた。
「ええと……ああ、そういえば帰る途中の路地に山門があって気になってたんですけど、あれかな」
「そうそう、奥へ入ると意外に広いのよ。明日はふたりでお参りして、除夜の鐘でも聞きに行ったら?」
「除夜の鐘……俺、聞いたことないです。アキラは?」
「いや」
 アキラが小さく首を振った。
 お互いにひとり暮らしをしていたころ、寺の近くで暮らしていたことはない。施設にいたころのことは曖昧だが、まあ、アキラも初めてと言うなら、確かに自分も聞いたことがないのだろう。
「ニホンもずいぶんお寺さんが減っているようだし……若い人は興味がないかしらね」
「そんなことないです。なんか、楽しそうだなって思います。せっかくだし」
 ケイスケが言うと、女将さんは嬉しそうに笑った。
「ええ、ええ。除夜の鐘を聞いて、お蕎麦でも食べて、のんびりなさいな」
「はい、そうしてみます。それじゃ」
「あら。あなたたち、今から帰るの?」
「ええ、おやすみなさい」
 ケイスケが頭を下げると、隣のアキラも小さな声でおやすみなさい、と会釈してみせる。
 しかし、女将さんは心配そうに眉をひそめた。
「もう遅いし、今晩は寮に泊まっていったらどう?」
「え……」
 ふたりは思わず顔を見合わせた。
「あなたたちが出て行った後も、ちゃんとお掃除してますよ」
「でも」
「シーツだけ出してくればすぐに寝られるから、ね。そうなさい」
 熱心な女将さんの様子に、なんと答えるべきか少し迷って、ケイスケは並んで立つアキラをちらりと伺った。
(確かに疲れた顔してる、よな……)
 ここのところ毎日のように朝早く、夜は夜中までの勤務が続いていた。軍から無茶な日程で、車両整備の依頼が舞い込んだせいだ。納期がずらせないため、連日工場を上げての作業となった。
 ようやく馴染んできたとはいえ、続く激務にアキラはここ数日、口数が少ない。疲れているのだ。帰宅してふとんを敷いたとたん、服も着替えず、墜落するみたいに眠り込んでしまうことも何度かあった。
 引っ越した家まではさほどの距離でもない。けれどアキラの体調を考えるなら、少しでも早く横になるのがいいだろう。そう思って、口を開きかけたときだった。
「いえ、帰ります。……すみません」
「アキラ」
 アキラが横目でちらりとこちらを見てから、続けた。
「大丈夫ですから」
「遠慮するんじゃないのよ」
「本当に、平気です」
 静かに、しかしきっぱりと言って、アキラは女将さんに頭を下げた。
「おまえら、そんなとこでなにしてる」
 背後から放たれただみ声に振り返ると、工場長が母屋へ向かって歩いてくるところだった。
「いえね。もう遅いから、ふたりとも泊まっていきなさいって勧めてたのよ」
 女将さんが言うと、工場長はわずかに顔をしかめた。
「余計なことをするんじゃねえ。おまえら、さっさと帰れ」
 そう言って、工場長はさっさと母屋へ引っ込んでしまう。
「いやねえ、あの人。ホントに愛想なしで」
 肩をすくめてみせてから、ふと、女将さんが口元に笑いを含ませた。
「本当はね、あなたたち二人がちゃんと暮らしてるかどうか、心配でしょうがないんですよ。あいつらはどうなんだ、なんてわたしに聞くんだから。あなた一日中一緒じゃないの、って言ってやったら、馬鹿野郎、おまえ、仕事のときにそんな話をするか、って」
 女将さんのしてみせる工場長の口まねがあまりにそっくりで、ケイスケは思わず吹き出してしまった。
「気になるなら、直接聞けばいいのにねえ。──あら、いけない。わたしったら、疲れているところを立ち話させちゃったわ」
「いえ、こちらこそすみません。気をつかっていただいちゃって」
「あなたたちはホントに遠慮ばっかりして……そうだわ、ちょっと待ってなさい」
 慌てて女将さんが家の中に引っ込み、手にマフラーを掴んで戻ってきた。手編みらしいざっくりとした毛糸で編まれたそれは、長くて暖かそうだった。
「慌てるとダメね。一本しか見つからなくて……はい、これ」
「え……」
「ないよりはマシでしょう。家までかわりばんこにつけてお行きなさい。暖かいわよ」
 どうするかわずかに迷ったが、あれもこれも断るのはかえって気が引けたから、ケイスケは素直に受け取ることにした。
「……ありがとうございます」
「風邪を引かないようにね。よいお年を」
「はい。……よいお年を」
 いつまでやってる、と中から工場長ががなり立てる声が響いてきて、女将さんは肩を竦めて手を振ると、母屋へと戻っていった。

:::

 容赦なく吹き付ける寒風に追い立てられるようにして、ふたりは家路を急いだ。辺りは静かで風鳴りの音と自分の呼気のリズムばかりが聞こえ、ひどく心細い感じがする。
 寒くて暗いと、それだけでどこか寂しい。
 なのに、アキラはどんどん先へ歩いていってしまう。せめて並んで歩きたくて、ケイスケは歩調を早めた。
「ねえ、待ってよアキラ。これさ……」
「いらない」
 差し出したマフラーを、見向きもせずにアキラが答える。
「けど……」
「おまえが受け取ったんだから、おまえがすればいい」
「そんな。けど、俺だけなんて……女将さんだって、かわりばんこにしろって」
「俺はいい」
 そう言って、アキラは吹き付けてくる風にコートの襟をほんの少し立てた。
(……ホントは寒がりのくせに。ていうか、暑いのも結構ダメだけど)
 極度の気温差が苦手なのも、心配すると突っぱねるのも昔からだ。
 怪我でも病気でも「平気だ」の一点張りだから、余計に心配になるのだけれども、あまりしつこく言うと本気で怒られる。
(女将さんの言うことは、わりと聞いてくれるんだけどな)
 遠慮からか、さすがのアキラも女将さんにはあまり抵抗しない。体調を崩したときなど、自分が言ってもらちが明かないので、休むように言ってもらったことがある。
(そういえば……さっきは泊まるの、どうして断ったんだろう)
 疲れているのだし、家がいくら近いとはいえ、泊まった方が体は楽なはずだ。
「なあ、アキラ」
「しつこい」
「そうじゃなくて……さっき、なんで帰るって言ったの」
 アキラがこちらを向いて、ぱちりとまたたいた。
「……別に」
 言いよどむような仕草の後に、ふい、とすぐに顔を背ける。
「? ……アキラ?」
「……別にいいだろ。家があるんだから、帰れば」
 そう言って、ポケットに手を突っ込み、アキラはさらに早足でどんどんと先へ行ってしまう。
(ひょっとして……帰りたかった?)
 確かに、引っ越しはアキラからの提案だ。けれども、それは他人に迷惑をかけないため、というややネガティブな理由だったはずだ。
 それだけのことなのだろうと、それ以上の意味などないと、ずっと思っていた。
 だが、アキラはアキラなりに、引っ越したばかりの狭いアパートをとても大切にしてくれているのかもしれない。
 初めての、ふたりの家を。
「アキラ……」
 少し嬉しくなって、ケイスケは横からさらうようにアキラの手のひらを掴んだ。
 指の先を握ると、染み入るほど冷たい。
 振り払われるかと思ったけれど、アキラはこちらを見上げて
「……なんだよ」
 少し乱暴にそう言った。
 けれど、その言葉もまた、本当に機嫌が悪いときのそれではないとわかって、ケイスケはもうひとつ嬉しくなる。
 今までよりもさらに強く、手のひらを握りしめた。
「うちに、……早く帰ろう」
「言われなくてもそうする」
「俺、俺さ。今の、なんかすごく嬉し──っくしゅ!」
 思わず飛び出したくしゃみに、アキラが呆れた顔をした。
「バカ、マフラー巻けよ。せっかく借りたんだから」
「え、やだよ。俺だけ」
「寒いんだろ」
「い、今のはたまたまで……」
「やせ我慢するな」
「アキラだって」
「くしゃみしたのはおまえだろ。俺は別に平気だって言ってる」
「けど」
「うるさい」
 ぴしゃりと言って、アキラは繋いだ手のひらを振りほどいた。
(うわ、……言い過ぎた!)
 せっかくいい雰囲気だったのに、これでは台なしだ。
「あ、アキラ、その、ごめん……」
 どうしたらこの場を収められるだろうか。しかし、焦ってしまってうまく考えがまとまらない。
「けど……俺、そうじゃなくて、その」
 するとアキラがため息をつきながら、手の中のマフラーをむしり取った。
「──え?」
 アキラの腕が円を描くように振るわれて──ケイスケの首元に返される。
 手当たりの柔らかな毛糸に、外気に晒されていたケイスケの首すじが、ふわりと緩くくるみこまれた。
「すぐそこなんだから、早く帰ればいいだろ。どっちでも」
 そう言ってもう一度くるりと巻き付けて、手を握り直してくれる。
「ほら行くぞ、ケイスケ。……ケイスケ?」
「アキラ」
「……っ、オイ!」
 腕の中で鋭い抗議の声が上がる。
 思わず手を引いて、アキラを抱き寄せたからだ。
「なんだよ、ケイスケ!」
「うん……ちょっと寒くて」
「だから、早く帰──、……っ!」
 アキラの喉元で息が詰まった。
 キスしたからだ。自分が。
「ん……ッ」
 縫い止めたままの腕の中で、アキラがなにか堪えるように小さく震えていた。
 いま理由を問いただしたら、こう言うに決まっている。
(寒かっただけだ、って……)
 唇を離したあとに思わず笑いをこぼすと、睨まれた。
「なに、笑ってんだよ」
「……なんでもない。このマフラー、結構長いね。ふたりで巻いて帰ろうか」
「そんなことしたら歩きにくいに決まっ──おい、ケイスケ!」
 道路端の塀に押しつけると、押し殺した声でアキラが呼ばわった。
 アキラに呼んでもらうのが好きだ。自分が間違いなくそこに生きているのだという気がする。
 不安なことがある。自分が信じられなくなることも。
 だがこうしてアキラが馬鹿な自分を呼んで、諫めてくれるなら、なにも心配はいらない。そんな気がして、胸の奥がふわりと暖かくなる。
「アキラ、俺ね。俺、アキラがいてくれたらきっと大丈夫」
「いきなり、なにを訳のわからないこと言って……」
「あ……ごめん。一応、俺の中では繋がってたんだけど」
「いいから放せ」
 もぞもぞと身動きしようとするアキラを、ケイスケはさらに強く抱きしめて、耳元へ唇を寄せた。
 こうして吐息を落とすと必ず震えると、最近知った。
(もっと震えたらいいのに)
 冬は、いいかもしれない。寒いんだからしょうがないよと言って、アキラに言い訳を作ってあげることができる。
 熱にまみれた腕でしがみつくのが嫌いだなんて、そんなことなら本当はもうとっくに知っている。
 言わないけれど。
「ね、……もう一回キスしていい?」
「放せって言ってるのが聞こえないのか」
「だってアキラ、帰ってふとん敷いたらすぐ寝ちゃうし」
 意地悪く言うと、アキラの抵抗が少し弱くなる。わずかに面伏せて──それから。
 急に首へ巻いたマフラーが手繰られたから、前屈みになる。
「アキ──」
 今度はケイスケが黙る番だった。
 アキラの唇が押し当てられたから。
「……ん」
 冷えた街路に、体を寄せて、もつれた。
 重い冷え込みの中、お互いの息だけが白く弾む。

 やがて──空から白い雪片が舞い降りてきたけれど、もう、少しも寒くはなかった。