源泉とアキラ

 窓を叩く微かな音を聞いたように思い、アキラは目を覚ました。まだぼんやりとした目に、周囲はほんのりとした薄い闇に包まれていて、壁を隔てた遠くからさらさらと細かな音が聞こえる。
 やがて湿り気を含んだ音はいつしか間近になり、明確な規則正しいリズムとなって耳を打ちはじめた。
(……また、雨か)
 うつらうつらと揺れる意識に逆らわず、アキラは瞼を伏せ、耳を特にそばだてるでもなくその音に聞き入った。
 薄く響く水音に、とつん、とときおり大粒の砕ける音色が混ざる。
 ここのところ、毎日天気が悪かった。いつも空は鈍色をしていて、雨が寄せたり引いたりしている。
(雨は……あんまり好きじゃない)
 こうして夢うつつに、ひとり、雨の音を聞いていると、目を開けることが少しだけ怖くなるときがある。目を覚ませば全部が夢で、自分はまだひとり、廃ビルの隅に体を埋めて転がっているのではないかと──天気の悪い町、ずぶ濡れで立ちつくした路地裏を思い出して。
 とつん。
 またひとつ、雨だれが鳴った。
 妙に胸苦しくて、重たい。
 寝返りも打てないほどの息苦しさを感じて、アキラは再び薄く瞼を開けた。
 ──胸の上に、頑丈な腕が乗っていた。
「オッサン……?」
 大事な契約の話だと言い、張り切って朝から出かけて行った源泉がいつの間にか隣で寝ていた。
 しかも、出かけて行ったときそのままの格好──スーツ姿のままで。
 一体、いつ帰ってきたのだろう。時間がかかりそうだとぼやいていたから、まさか今晩戻ってくるとは思わなかった。
「おい、オッサン……重い」

 重い腕を無理に押しのけて、アキラは起きあがった。だが、源泉は目を覚ます気配がない。
 アキラは思わず小さなため息をついてから、源泉を見下ろした。
 ブツブツ言いながらも仕立てのいいスーツをひっぱり出してきたときは、一体どこに隠し持っていたのだろうと本当に驚いた。だが、せっかくの一張羅は寝乱れて、すでに取り返しがつかないほどしわくちゃになっている。
 がっしりとした肩を包むチャコールグレーの上下に、めずらしくアイロンを当てた白いYシャツ、色味を抑えたマスタードイエローのタイ。
(まったく……)
 なにを着ても全く構わないから、源泉の服はどれもあっという間にくたびれたふうになってしまう。
(いい大人のクセに)
 適当な部屋着に着替えて、自分のベッドへ倒れるくらいのことがどうしてできないのだろう。
 けれども、そんなイヤミを言ったところで「おまえさんがあんまり可愛かったんで、眺めているうちについ寝ちまってなあ」などとうそぶいて、ろくな反省もしないに違いない。
 しかも、その言い訳はウソじゃない。この男、本当に自分を好きなのだ。予定を繰り上げてでも早く帰ってきて、ベッドに滑り込むほど──そう、雨の日にひとりで取り残される自分を心配して、眠りの浅い自分を起こすのが嫌で、無用な物音を立てたくなくて、そのままの姿でベッドに潜り込む程度には。
(そんなことくらい……もうとっくに知ってる)
 つきあいが深くなってみれば、意外とウソを吐くのが下手な男だった。情をぶつけられることにはまだ戸惑いを覚えるし、どこまでが本心なのかと訝しむこともある。だがこの男のあからさまな態度に、なにも知らないふりをする方が難しい。
 けれど、自分がこんなふうに見透かしていることを、源泉はきっと知らないに違いない。それから、知らぬ間に隣へ滑り込まれてその体温がシーツ越しにどう伝わるだとか、見慣れない格好に心臓がどういう音を立てるだとか、そういうことも、一切。
 源泉と一緒に暮らしはじめてから、もう一年以上が過ぎている。なのに一回りも違う年齢のせいで、源泉は未だになにも知らないガキ一匹をひとり振り回しているつもりでいるのだ。
 大人の前では、安心して横たわるのが当たり前の生き物だと思われている。
 のんきな寝息を立てて寝入っている男がだんだんとしゃくに障ってきて、アキラは源泉に背中を向け、ごろりと転がった。
(そういうところが……嫌いだ)
 お互いの間に横たわる、歴然とした年齢の差。無意識に手加減され、甘く見られている。それがひどく悔しい。
 一緒に暮らす上で面倒なことにならないように、と源泉の扶養家族に収まる提案は、当然の成り行きだと思ったから反対しなかった。だが、守る義務がある、とは──たとえそれがほんのひとくさりであっても思われたくないのだ。絶対に。
(義務、なんて)
 またいらっとした。社会の仕組みにまで、勝手に腹を立てるなんてどうかしている。そんなことはどうだっていいはずだ。だがどうでもいいと呟く数だけ戸惑い、戸惑うそのたびに自分の気持ちを持てあましていることに気づく。
 どうしてなのだろう。他愛もない調子で保護者だと言われるたび──便宜上の言い訳であることも知っているのに──たったそれだけのことが、どうしてこんなにも我慢ならないのか。
(それに……)
 アキラはふと、ベッドへ投げ出された男の、丈夫な腕へと触れた。
 腕は肩から二の腕にかけて質量のある筋肉が纏いつき、触れれば布地越しにもどっしりと感じられた。そこから更に肘を通り過ぎれば、骨張った手首、大きな手のひらから、節の太い指へと連なって行く。
 一見無骨なふうだが実は案外器用に動く、この腕が好きだと思う。
(どうして……なんだろう)
 恐らく自分よりも、自分の親にあたる誰かの方が歳の近いこの男に、どうして触れたいと思うのだろう。こんな衝動は一体どこから来るのだろう。
 全然わからない。
 わからないから全部歳のせいにして、相手のせいにして、イライラしている。
 その矛盾した様子がひどく子供じみていて、自分が嫌になる。
「アキラ、どうした」
 ふいに背後から声がした。
 驚いてアキラが振り返ろうとすると、遮るように太い腕が巻き付いてきて、後ろから抱きしめられた。
「……ビックリした。起きてたのか、あんた」
「ついさっきまで寝てたさ。けど、誰かさんが可愛いことするから、なあ? もうちょっとばっかり大人しくしてたら、おはようのキスでも降ってこないかと思ってな」
 とろんとした声音で言って、笑む気配がする。
 起きたばかりのクセに、やたらと機嫌がいい。大体そんなこと──キスが降ってくるなんて──思ってもいないくせに。
 オッサンはバカだな、とこちらが答える隙をわざと作って待っている。
「……あんたの、そういうところが嫌いだ」
 言うと、またひとつ笑んだ気配のあとに引き寄せられ、背中をすっかり源泉の胸へと預ける格好になった。
「くすぐったい」
 アキラが抗議するのも構わず、源泉は背中からアキラの首筋に頬を擦り寄せて、思い切り深く息を吸い込んだ。
 源泉がよくしてみせる、肌に馴染んだ愛撫──なのに、今日はなぜだか落ち着かない。
「……オッサン」
「んー?」
「いい加減、もう離せよ」
「なんでだ」
「なんでって……おい、人の話聞けよ。離せ」
 腕の中で身じろぎしたが、がっちりと腕の中に囲い込まれてしまう。むしろ巻きしめる源泉の腕の力がいっそう強くなって、抜け出すことなどかないそうになかった。
「いいじゃねえか。一日ぶりなんだ、匂いくらい好きなだけ嗅がせろ」
「……あんた、ナフタリン臭い」
 悔し紛れに言うと、まだ匂うか、と源泉は忌々しげに鼻を鳴らした。
「ったく……慣れない格好をするもんじゃないな。肩が凝ってしかたない」
「仕事はうまく行ったのか」
「あー……」
 何気ない調子の問いに、源泉がおかしななタイミングで口ごもった。
 うまくいかなかったか、それともなにかトラブルがあったのか。
 問いただそうとしたところへ、次のセリフが降ってきた。
「あのなあ、アキラ。ものは相談なんだが」
 いきなり口調が真剣みを帯びたから、ぎくりとした。
「なんだよ」
 だけど、たった一言にすくみ上がったなどと、知られたくない。子供扱いされる隙を与えてしまう。けれど、こんな距離ではなんてことないように答えるのが難しくて、アキラは歯がみする。
 しかし源泉は、アキラの様子など気にも留めずに続けた。
「次の取材先、ニホンの外でな……その、近いうちにここを引き払おうと思うんだが……」
 その後に続く言葉を、アキラは息を詰めて待った。だが、源泉はそれきり黙ってしまう。
「……それで?」
 息をつぐには長い沈黙に耐えきれず、アキラは先を促すように相づちを打った。
「それでって、おまえ、……その」
「……? なんだよ。ハッキリ言えよ」
「いや、だっておまえ、外国だぞ?」
「なにか不都合があるのか? 行きたかったからあんなに張り切って、慣れないスーツまで着て出かけたんだろ」
 めずらしく歯切れの悪い源泉の様子に、アキラは首を傾げた。最近、電話で耳慣れない言葉を口にする場面も幾度かあったし、行き先が外国だと告げられたところで特別な驚きはない。
 一体なにが気に入らないんだ、と口を開きかけたところで、
「そうじゃなくてだな。おまえさんはいいのか、それで」
 遮るように、源泉は早口でそう言った。
「俺?」
「……俺は、もちろん行きたい」
 源泉が小さく、けれどもきっぱりと言い切った。
「世界が見たい。俺の目で見たことを、耳で聞いたことを伝えたいんだ……本当のことを、誰よりも早く」
「だから、別に反対してないだろ」
「けど、俺はその仕事をやるって答えた瞬間……おまえさんのことをすっかり忘れてた」
 首筋に、皮膚の擦れる感触がした。腕に囲い込まれたままちらりと目だけで横を向くと、肩越しに源泉の強い黒髪があって、額をこすりつけたのだとわかった。
「……俺は昔からそういう男でな。誰も見たことのない、新しいものを知りたいって衝動に逆らえない。大事なものが目の前にあるってのに、スパッと頭ン中が真っ白になって、全部放り出してでも走っちまう。家族のことをほっぽり出して、仕事に没頭して……それで一度、こっぴどく失敗した。なのに、まだ懲りてねえことがわかってな。さすがのオイチャンも落ち込んでるってわけだ。ああ、そうか……アキラのせいにして俺がてめえ勝手に自己嫌悪して落ち込んでんだな、畜生」
 長い呟きの後半は、誰に聞かせるつもりもないものとわかった。お定まりにちゃかそうとして、失敗した。そういうふうだった。
「落ち込むって、あんたが?」
「若者の特権じゃねえさ。オッサンでもな、落ち込むこたぁあんだよ」
 めずらしく、まるで吐き捨てるような語気だった。感に障ったのだろうか。だが、相変わらず源泉は腕をほどこうともせず、正面へ向き直るどころか腕も動かせない。
 少し考え込んでから、アキラはほんの少しだけ首を傾け、源泉の強い髪に自分から頬を擦り寄せた。
「……アキラ」ややあって、驚いた声がした。「そいつはひょっとして、……慰めてくれてんのか?」
 改めてそう言われると急に気恥ずかしくなって、アキラは短くかぶりを振った。
「そんなんじゃない。ただ、あんたが……ヘンな声でしゃべるから。こんな体勢で体も動かせないし、それに」
「それに?」
「俺は……なんでオッサンが落ち込むのかわからない。やりたいことがあるのはいい……と思う」
 今まで、これといって周りに興味を抱くこともなく生きてきた。だから正直、そうして体の中で膨れあがる衝動のことはよくわからない。けれども、全て放り出せるほどのなにかがあるのは、少しだけ羨ましい気がする。
 そう正直に告げると、背後からため息が聞こえた。
「……ったく、ガキがなにをものわかりのいいこと言ってんだ」
「あんた、俺に反対されたいのか」
「そりゃあ、頷いてくれりゃ嬉しいに決まってるさ。けど、ずいぶんと勝手に決めたからな……おまえさんにも心の準備ってもんがあんだろ」
「なに言ってるんだよ、今さら」
 思ってもみないことを言われたから、つい、呆れた口調になってしまった。
「そんなことは別にいい。……俺はあんたが行くところなら、どこへだって行ける」
 墓まで連れて行く──なんて、威勢のいいことを言ったクセに。どうして今さら、そんな遠慮をされなければならないのだろう。
 大体、自分は家でひとり帰りを待って悲しげに佇む妻でも、なす術のない子供でもない。それは、源泉が幼なじみの気安さを持たないのと同じことであるはずだ。
 なんとなく、口に出してそうとは言えない。けれど、そんなことは口にしなくてもわかっていて欲しかった。
 ふたりで歩いて行く。そう決めた。
 ならば、ふたりの間でしかありえない、そんな関係を作ってゆければいい。誰に当てはめる必要もない。
 そして誰よりも近い距離、対等な高さで、最後まで源泉の横に立っているのは自分でありたい。たとえすぐには無理でも、大人と子供の境界に阻まれても、いつかは同じ男として並び立ちたい。
 それを、わかって欲しかった。
「俺をトシマから連れ出して、どこへだって行けるって教えてくれたのはあんただ。あんたが俺を連れて行くんなら、急でも、世界の果てでも許してやる」
「おいおい、おまえ……ちょっと待て。どうするんだそれは」
 源泉の途方に暮れた声がした。
 なんだよ、と言いかけたところを、息もつけないほどの強さで抱きしめられた。
「どうするんだ。俺をこんなに……惚れさせて」
 そんなふうにうわごとみたいに言ってから腕を緩めると、かわりにTシャツの裾から手のひらが忍び込んできた。


 後ろ抱きにするクセがある。
 顔を見られると嫌がることを知っているからだ。そして同時に、何をされるかわからない不安を煽るためでもある。
「ほら……怖くないからな。もっと力抜け、アキラ……このまんまじゃあ、きつすぎていつまでも動けない」
 そうして源泉が耳元で囁き、あやすように髪を撫でてくる。
「……っも、むり、……っあ」
 ぶるぶるとかぶりを振ると、後ろから耳たぶを甘噛みされた。
 全身の皮膚が一気に粟立つ。
 さっきから源泉は挿れたまま、一向に動こうとしない。なのにその姿勢でさんざん胸や前を弄られたから、一度ひとりで勝手に達してしまった。だが下肢にいつまでも押し込められた存在感と、ときおり落ちてくる甘い声と、好き勝手にはい回る手のせいで、自分のそれは再び張りつめて半ば上を向いている。
「じゃあ、動くのはやめとくか?」
 わざと低く抑えた声が再び耳元から吹き込まれる。
(絶対にわざとだ……今の)
 微量に甘い、錆びた声音を落とされるたびに傍目にもわかりやすく背骨が震える。そんなふうに、いつまでも手慣れない様子を半ば面白がって、源泉はいじわるく口端を上げ、息を詰め──見ている。
 その余裕が、悔しい。
「たまには、このまんまってのもいいかもな。そうだ。なあ、こんな格好もなかなかいいだろう?」
 そう言われて、自分の肌の色と源泉の着ている真っ白いシャツが目に飛び込んできたから、かっと頬が熱くなる。
 抱え込まれたまま、あっという間にTシャツを剥かれて、ズボンも下着と一緒に膝の位置まで下ろされた。なのに、源泉は今も前を開いただけ。ノリのきいたYシャツもプレスのきいたズボンも、すっかり台なしにして、背中から腕を絡めて腰を押しつけてくる。ジャケットを脱ぎ捨てたからてっきり脱ぐつもりなのかと思っていたのに、内ポケットに入れておいて良かったなどと嬉しそうに四角いパッケージを取り出したときは、本当に殴ってやろうかと思った。
「この……エロオヤジ……ッ!」
「そいつはアキラが一番よく知ってンだろ。ん?」
 なじりたかったけれど、次の言葉が出てこない。下肢の違和感が大きすぎてうまくものが考えられない。
 いくらほぐしたところで、やはりここは男を受け入れる器官ではないし、源泉のそれは大きいから苦しい。体を繋げようとするたび、自分は男と寝ているのだと嫌でも思い知らされる。
 少しの屈辱と、この場所には自分だけが立っているという少しの優越。
 くらくらする。
「も、苦し……っ、動くか、抜くか、どっちかに……し、……ッ」
「たまにはもうちょっと、色っぽいこと言ってみな」
「うるさ……、っあ!」
 胸の尖りを押しつぶすようにされ、思わず悲鳴じみた声が飛び出た。
「体は素直なのになあ」
「あんた……それ、ホントにオヤジくさ……い」
「なあ、おまえのそれ、もう一回触ってもいいか?」
「いやだ……」
「じゃあ自分で擦ってみな」
 そんなのはなおのこと嫌だ、と口にするより早く、空いた右の手のひらをすくいとられた。どろりとしたものがまとわりついた、自分のそれに触れさせられる。
 だが、とても手など動かせなかった。ものを考える余裕が残っていなくて、とても自分の快感を掘り起こすところまでたどり着けない。むしろ達してしまいそうなそれを握りしめて、押しとどめるのが精一杯だった。
「おい、なにやってる。我慢するなよ……悪いことしてるみたいだろうが」
 見咎めた源泉が、手のひらを重ねてくる。
「何度でも達けばいい。気持ちいいんだろう?」
 そう囁いてアキラの手のひらごと、上下に揺すった。
「やめ……っ、いや、だ」
 アキラはぶるぶるとかぶりを振る。
「あんた、一度も……」
「俺のことはいいから」
「いやだ……て、言ってる……ンっ」
 強く言うと、やれやれというふうに源泉が息を吐き出したのがわかった。
「しょうがねえな……わかった。腕、片方貸しな。こうして」
「え……」
「そのままにしてろ」
 脳に言葉が落ちてくるより早く──くるりと上向きにされた。
 挿れたままで。
「あ、ぁあ……ッ!」
 今まで全く動きのなかったそこに、発火するような摩擦が起きた。
 アキラは声にならない悲鳴を上げ、堪えきれずに快感を弾けさせた。
 なのに、なぜかまだ痺れがやまない。奥が熱くなって膨れあがり、源泉をきつく食い締めているのが自分でもわかった。押し寄せてくる得たいの知れない熱が怖くなって、アキラは胸を喘がせながら源泉の逞しい肩に両腕で取りすがった。
「……アキラ」
 ため息のように呼ばれて、やがて背がゆっくりとシーツに横たえられた。
 源泉の大きな手のひらが、労るように体を撫でさする。こわばった四肢から、少しずつ力が抜けるのが自分でも分かった。熱をあおり立てる動きとは明らかに違う仕草にほっとしながらも、それ以上の気遣いはいらないと伝えたくて、アキラは必死に目をこじ開けた。
 すると驚くほど間近に源泉の顔があって──アキラは思わず言葉を失った。
「…………っ」
 それはなにか堪えるようにひそめられた眉のせいでも、顎を目がけて滑って行く汗のせいでも、興奮に赤く染まる目縁のせいでもなかった。
 大体、源泉が自分に心底感じ入っているなんて、そんなことは知っているから驚かない。
「あんた……ヒゲが」
 いつも顎の周囲を取り巻いている無精ヒゲが、きれいさっぱり消えていた。
 さっき、背中から首筋に唇を寄せてきた──あのときおかしな感じがしたのは、いつもなら当たり前のちりちりとした感触がなかったせいだ。だからおかしな違和感があったのだと、今さら遅れて気がついた。
 よく見ると髪も少しこざっぱりとして、たぶん、整髪料かなにかで後ろへなでつけてある。寝ていたときはシーツに散っていて気づかなかった。それに、あんまりナフタリン臭かったから、整髪料の匂いにも。
「なんか、ヘンだと思った……」
「うるせえ、かっこいいだろう。エライやつに会うって言われて、勝手に弄られたんだよ」
 よほど不本意だったらしい。拗ねた調子があんまりおかしくて、アキラは思わず吹き出した。
 ひょっとしたら、このせいで今日は正面を向きたくなかったのかもしれない。バカにされるのが悔しくて。
 そう思うと、なおさら笑いがこみあげてくる。
 だってそんなのは、あまりに子供じみている。
 自分より、一回りも大人のクセに。
「バカだな……あんた」
 半分笑って言いながら、自分も本当にバカだなと思う。
 大人だ、子供だと、本当にどうしてこんな些細なことで、意地の張り合いをしているのだろう。自分たちは。
「……アキラ」
 ふいにざらざらした声音が、自分の名を紡いだ。
 だが、掠れた声の意味を問いただす間もなかった。
「も、……俺がダメだ。動くぞ」
 そう言われ、いきなり体を折り曲げるようにしてのしかかられ──一気に奥までねじ込まれた。
「あ……あ、ぁああ……っ!」
「この……なんて顔しやがる、おまえ……っ、クソ!」
 源泉が何度も強い抜き差しを繰り返す。中を容赦なく抉られて、アキラはひっきりなしに喘いだ。
 酸素が足りない。
「あ、バカ、なにす、やめ……、ぁ……く!」
「なんだ、また達きそうか? 元気だな」
 からかいを含む笑い声が落ちてくる。上目づかいに睨みつけると、お互いの腹に当たるアキラの屹立をいっそうこすりつけるようにされた。
「や、……っ! よせ……ッ、や、あ」
「それじゃあ、オイチャンがちょいと蘊蓄でもたれてやるよ」
「い、らな……っ、そんな……っ!」
「人間様特有の愛情表現って、なんだかわかるか?」
 目をつむったまま首を振る。すると、アキラが答えることなど期待していなかったかのように、源泉は続けた。
「同性愛と正常位」
「は……?」
 一瞬なにを言われたのかわからなかった。
 目を開けたら、源泉が心底面白そうな顔をして笑っていた。
「バッカ……あん、た──ホント」
「そいつは違うぞ。いろいろと頭使わんとな、できないってことだ」
 源泉の顎を伝って、ぱたぱたと大粒の汗がいくつも落ちてくる。首筋から顎のラインを見上げると、喉元がごくりと上下するのが見えた。
「あんたの方が……ホントはイっちまいそうなんじゃないのか、それ……っ」
「ばれたか」
 そう言うと、いきなり深く突かれ、アキラは再び顎を上げてのけぞった。
「ああ、あ、あ……ッ!」
 弓なりに反ってはねるアキラの体を、源泉が自分の厚い胸で受け止め、抱え込んだ。
「……っ!」
 源泉が息を詰め、中で震えたことがありありとわかったからひどく興奮した。もっと震えさせたくて、アキラは自分からも腰を押しつける。
 ひとりだけこんなに喘いでいるのは悔しい。
 一緒に、ダメになってしまえばいい。
 掠れた声で、意味を成さない音をアキラはまき散らした。
 源泉と呼べ、と言われた気がしたけれど──言ったかどうかは覚えていない。


 緩く意識が持ち上がってきて、裸の背中に日差しが当たっていると気づいた。秋からそろそろ冬になろうという時期なのに、じんわりと汗をかきそうなほど陽が強くて、瞼の裏側が明るい。
「……っ」
 なんの構えもなく目を開いてしまってから、あまりの眩しさにアキラは小さく呻いた。
 どうやらカーテンを閉め忘れていたらしい。ふさぎ損ねた窓の反面から、大量の光が部屋一面になだれ込んでいる。
 何度か寝返りを打ったあと、アキラは意を決して上半身をベッドから持ち上げた。威勢良く上掛けをはねのけ、腰のだるさも振り切ると、一緒くたに脱ぎ捨てられていた下着とズボンをはいて早々にベッドから立ち上がった。
 カーテンが閉めたかった。たとえ光量に目が馴染んでも、くしゃくしゃになったシーツや脱ぎ捨てられた衣服を照らし出すには陽の光が強すぎて、どうにも落ち着かない。
 外の景色を切り取った窓枠からは、久々に雲ひとつない青空が見える。雨は夜のうちに上がったのだろうか。地面はもうすっかり乾いていた。
(気づかなかったな)
 雨は好きじゃない。けれども、雨の音を消し去るほど耳をふさいでしまうのは胸が痛む。
 窓の側に立ち、わずかなすき間を残してアキラはカーテンを引いた。
(ああ、そうか)
 全てを振り切る強さでなにかに惹かれ、ほかを忘れ、遅れて後悔する──こういうことなのかもしれない。
 それならば、痛みごと連れてどこまでもゆくしかない。
 雨が降るたびに、何度も思うことがある。これからも幾度となく思うだろう。
 あのとき、雨の中を飛び出して行くことだってできたはずだと。
 けれど自分はこの男の、大きな暖かい手を選んだのだ。紛れもなく、自分の手で。
 振り返るとカーテンから漏れた細い光が帯になり、部屋とベッドと源泉をまっすぐに貫いていた。途中、無理やり引っぺがして遠くへ放ったスーツやシャツも。
 アキラはベッドへとって返し、素肌で寝ころぶ男の脇に腰を下ろした。
 そっと腕に触れ、骨をたどるようになで上げ、肩から背中へゆこうとして──逞しい肩の裏側に赤い爪痕を見つけた。
 自分でつけたなら、たとえどんな傷も痛みも全て拾って行く。
 そうしてふたりで歩いて行くと決めた。この手を取ったことを、絶対に後悔したりしない。
 だから、男のこめかみにかかる堅い髪を払いのけてキスをひとつ、落としてみた。
「……アキラ?」
 タヌキ寝入りしていた男がいきなりばちりと目を見開いて、ビックリした顔をしたからおかしかった。
「オッサンはバカだな。……おはよう」
 口端を上げて、笑ってやる。
 それから、眩しいみたいに寄せられた源泉の眉根へもう一度、アキラは唇を押しつけた。