悪魔日記

■四月七日

 僕は一人で目を覚ました。
 夢は見ていたけれど、忘れた。
 そんなことはよくあることだから、夢を見ていたという事実も、僕はきっと、すぐに、忘れる。

 夢は、覚めるものだ。
 それがたとえどんな夢であっても──そう、至上の喜びに彩られた夢であろうと、万死の苦痛に覆われた夢であろうと。
(僕はそのどちらも見たことがないように思うし、想像もできないのだけれども。
 見たことがないように思う、とは、僕がすぐ夢を忘れてしまうから、見ていないとはっきり言い切ることができないせいだ)
 現実に立ち戻ることを余儀なくされている以上、それはただの夢でしかない。

 ──だが、一向に目覚めることのない夢は?
 「覚めることのない夢」とは、前述したばかりの夢の定義から著しく逸脱する。
 しかし、それならば今、僕が意識を持って見る世界──これが現実であるなら、一体どんな定義を用いればいいのだろう。

 知らない男がT・S・エリオットの「荒地」を諳んじた。
 そして
『私に……会いに来て』
 先生であったはずのヒトが僕にそう告げて、
 辺りは白い光に呑まれていった。
 そして、世界は丸くなった。

#いわゆる始まりは屡々しばしば終わりであり
#終わることは始めることである。(──T・S・エリオット)

 ──僕は一人で目を覚ました。
 夢は見ていたけれど、忘れた。
 そんなことはよくあることだから、夢を見ていたという事実も、僕はきっと、すぐに、忘れるだろう。

■四月八日

 僕は一人で目を覚ました。

 僕は唐突に叫び声を上げた。
 何かが喉を突き上げて、声を上げなければ気が狂って死んでしまうと思った。
 自分の叫び声が、更に恐怖をかき立てると気づいても、止めることができなかった。

 僕に突きつけられたのは、牙を持ち、蠢く無数の足を持つ、ねじけた、おぞましいものだった。人が思い描くかぎりにおいてもっとも禍々しいものが、臭気をまき散らしながら固まったように見えた。
 拳大ほどのそれは、よがりながら、僕の口の中へと落ちてきた。
 口の、中へ。
 無数の太い針が、ずぶりと粘膜へ食い込んだ。
 そして、更に、中へ。
 僕は喉をかきむしり、ありったけの叫び声を上げ、身体を海老反らせた。
 やがて僕の叫ぶ力が徐々に失せると、身体の底、耳の奥から、ぐちゅり、と肉を租借する湿った音が、鼓膜を舐りだした。
 僕は、内から喰われていた。
 それが肉も骨も血も──僕自身を全て飲み下して、ざらりと皮膚を舐めながら体中をはい回り、僕の真ん中を喰らいつくしていくのがわかった。
 僕は痛みよりもその感触に耐えきれず、床に這いつくばって、何度何度も嘔吐した。体中のものを、全部、ぶちまけてしまいたかった。しばらくすると胃液も出尽くして、とうとうからえずきだけになって、身体が痙攣した。
『……これできみはアクマになるんだ……』
 幼げな、ほくそ笑む声がこそりと聞こえた。

 僕は何者かになったのだろうか。
 そう──悪魔に。

■四月九日

 僕はまた、一人で目を覚ました。

 実際に眠りから覚醒したのか、それとも意識が不連続の状況にあったのか、はっきりとはしない。
 僕はベッドに座っていた。
 ふいに身体が疼いた。それにもまして、首筋に疼痛を感じた。
 僕は側にあった大きな窓に──そうここは新宿衛生病院で僕は先生のお見舞いにクラスメイトと一緒にやって来たんだ──自分の姿を映してみた。
 なぜか、そこに、僕の姿はなかった。
 鏡に映っていたのは、身体の至る所に幾筋もの幾何学模様が描かれた人影だった。
 首の付け根に牙のような尖りがあった。
 僕は恐ろしくなったけれど、振り向くことができなかった。
 あれは一体、誰だろう。
 あれに喰われたら、きっと、死んでしまうだろうと思った。

■四月一〇日

 僕は眠らなかった。
 眠らずにも生きられるようだった。

 ときおり、見たこともない生き物に襲われた。
 うるさかったので殴ったら、みんな死んでしまった。
 だから僕は一人になってしまった。

 順序だてて記憶を手繰ることができるのだから、僕は案外正気らしい。
 それとも完全におかしいのか。
 どちらだろう。

 名前のわからないものたちが僕を指し、見たことのないアクマだ、と口々に言う。
 いかにもヒトでない彼らが言うのだから、そうなのだろう。
 (そういう僕こそが、今はいかにもヒトではないらしい)

 途中、一緒に行ってやってもいいと言う、小さいものがいた。
 僕は一緒に行って欲しいと頼んだ。
 誰もいないよりマシな気がしたので。
(きっと僕は、言葉が恋しかったのだと思う)

 ヒトが一人もいない。
 僕は魂たちが無性に羨ましくなった。

■4月11日

 ヒトが一人もいない。

■4月12日

 千晶にシブヤで会った。
 けれど、僕は何も話すことができなかった。ただ彼女の言うことを黙って聞いているばかりだった。

 そして千晶は、これを覚めない夢だと言って、たったひとりでいなくなった。

 確かに僕はあの日から眠らずに生き続けている。
 それなら、眠るということは目覚めではなく、ただ心臓が止まるその日のことかもしれない。

■4月13日

 またあの、ヒジリと名乗る男に会った。
 彼は、ずいぶん悪魔らしくなったな、と感心したように言った。

 なのに、僕はなにも答えられなかった。
 浅ましくて、僕は自分がいっそう嫌になった。


 すべてを払いのけながら、僕はまだこの世界の片隅にいる。

 死の恐怖から逃れたいばかりに災厄を払いのけ、返す腕で己の本能を嫌悪する。
 けれど、その気持ちが本当ならば、僕は地下に息を潜め、荒れ狂う嵐の音にただ小さくなっていればいい。
 マネガタたちのように。
 だが、僕はそうなれない。彼らが哀れだとも思わない。

 マガタマに喰われたとき、アクマになったのではない。
 きっと生まれ落ちたときからずっと、奥底がこうであったのだ。
 汚いものに中身を喰われて、もっと汚い部分が手をつけられずに残っただけなのだ。
 喰われ、消化され、排泄されたものと、化学反応を起こしただけなのだ。

 なのに、ヒトからもアクマからもはみ出したまま、僕はまだこの世界の片隅にいる。

■4月14日

 僕は眠ってみようと思った。
 眠れたなら、幸せになれる気がして、興奮した。

 けれど、結局眠れなかった。
 諦めた。

■4月15日

 僕を振り返った一瞬の、あいつの目の色。
 恐怖、嫌悪。そして、安堵、憐憫。

 僕は一瞬のうちに違う生き物になった自分を思い知らされて、ひどく目眩がした。
 あいつは僕の記憶そのままで、だからよけい胸が苦しくなった。

 あいつのマガツヒの色はとてもきれいで、きらきらしていて、透明で、ほんの少し甘そうで、噛んだらかつりと音がしそうで
 僕はあれがどうしても欲しいと思った。
 けれど、あれは僕が欲しいものなので、他のやつにはやれないものだった。

 だから、震えた。

 僕は自分がアクマだということを、いきなり思い出した。
 僕は笑いが止められなくなった。

 なんでもできる気がしてきて、思いつくあれやこれはどれもみんな面白くて、またおかしくなって、ありったけの声を上げて笑った。

 骨を全部へし折って、
 皮をむしって、
 中身を引きずり出して、
 肉を引きちぎって、
 血を全部絞って、
 部屋を真っ赤に染めるんだ。

 ああ、そうだ。
 勇には一番に見せてやらなくちゃ。

 だって、確かに僕は嬉しかったんだ。
 名前を呼んでくれて、嬉しかったんだ。

 僕は息が苦しくなって、手の先が痺れても、まだ笑った。
 眠れるわけがなかった。

■4月16日

 どうしてあのとき、死ねなかったんだ。
 笑いながら地獄へ行けたのに。

■4月17日

 それが世界の意思ならば、いずれ成就し、全てを呑み込んでくれるだろう。
 そうしたら、僕など欠片も残さずにいなくなるだろう。
 最期の瞬間を想像した。
 心臓が震えた。

■4月18日

 ついさっきまで、僕は彼を憎んでいた。
 けれど今、僕は彼が羨ましい。

■4月19日

 千晶に会った。
 彼女の言うことが、僕にはさっぱりわからない。
 もう言葉も通じないほど、僕は何かが違ってしまっただろうか。

■4月20日

 強さとはなんだろう。
 いかなる意思も貫けることか。
 相手を殺すことか。

 けれど、そんなことはどうでもいい。
 僕はただ、死にたくないだけだ。
 そして、同じ強さで死んでしまいたいと願っている。

 死ぬなら、心臓を潰されるのがいい。
 肉を抉り、掻き出し、僕の目の前で握りつぶしてくれたらいい。

■4月21日

 人修羅と呼ばれた。
 詩的だと思う。綺麗すぎるようにも思う。
 けれど、彼の口から出る言葉は気持ちが良かったから、ただ黙って聞いた。
 音楽を聴いているようだと思った。

 そして今日、僕は唯一ヒトである証を、永遠に失った気がする。
 誰もが捨ててゆかないと生きられない。
 そんなことは、ずっと前から知っていたような気がする。
 けれど、彼の口から出る言葉は悲しくなるばかりで、ただ黙って聞いた。

 日を追う事に世界から拒絶され、こんなにも閉め出されてゆくのに
 僕はどうしてまだ生きながらえているのだろう。

■4月22日

 アサクサでヒジリに会った。
 僕は今日、アクマより、ヒトが恐いと思った。
 僕がアクマになったせいだろうか。

■4月23日

 マガタマを吐くには、こつがいる。

 喉元を絞り上げ、指をねじ込み、尻尾をつかまえたら、一息に引きずり出す。
 (でも、どうしたって肉に食い込んで絡みつくから、吐いた後は喉がひりひりするのだけれど)

 床に投げ捨てると、そいつはしばらくギチギチと身もだえるように跳ね、
 しばらくたつと堅くなる。

 ──僕を喰らって、虫になる石。

■4月24日

 聖女は、人間だった。
 ただ無性に泣きたくなる姿をしていた。
 それは、悲しみでも、喜びでもなかった。

 けれど、それだけ僕が隔たったのだと思うと、最後はやっぱり悲しくなってしまった。

■4月25日

 名前のない気持ちに翻弄されることに、僕は疲れている。
 早く、静かになりたい。
 お前が神だと言うのなら、
 どうして僕のこんなちっぽけな願いすら叶えられないのだろう。

■4月26日

 ひとりは好きかと聞かれ、僕は迷ったあげくに、否と答えてみた。
 駄目なヤツだと言われた。
 ひとりで生きていけるかと言われて、答えられなかった。

 ひとりで生きて行けと、そう言われた。

■4月27日

 変わり果てた身体で、勇はとても嬉しそうだった。

 ひとはひとりで、たったひとりで、世界の真ん中にいる。
 そうかもしれない。
 けれど、僕はやっぱり頷くことができなかった。

 僕はどこへ向かえばいいのか。
 誰しもがもっともらしくて、
 だけどどこか違うような気がして、
 僕はたったひとりで世界の真ん中に取り残されている。

■4月28日

 僕は全てが怖いのだ。
 アラディア、僕にはあなたの言葉が強すぎる。

■4月29日

 アマラを手に入れる、と言った彼はアマラに取り込まれ、
 そして戻ってこなかった。

 人の身でこの世界を渡るのは難しいと
 人の命は意味がないほどかそけきものだと言った彼。

 僕は彼を憐れむことも出来なかった。

■4月30日

 トウキョウが消えてから、また街がひとつ消えてしまった。
 僕はこの街が好きだった。
 好きだったと、思い出した。

 陽気な彼らが、僕はすきだった。
 人修羅という名を与えてくれた聡明な彼が、僕はすきだった。

 力で他者を踏みにじる理想郷。
 そんな場所、僕はいらない。

■5月1日

 涙が出た。
 生きながらえて、寄る辺のなかった僕を
 君はずっと見ていてくれた。

 ごめん。
 けれど、僕は今日初めて、力があることを誇りに思えた。

 確かに、彼らの理想はとても稚拙なものだったかもしれない。
 だけど、僕はそれが暖かくて好きだったんだよ。

 もう、君には届かないけれど。

■5月2日

 僕は紛れもなくアクマになってしまったけれど、
 心がアクマになれたのならこんなに苦しくはないはずだ。

 僕の望む自由……?
 そんなものは知らない。何かを作りたいとは思わない。

 創世を成す──コトワリを説くとのだいう。