「イ……テテ。オイオイ、どうした。落ち着けって、ケイスケ」
馬乗りになる男へ微かに笑ってみせながら、源泉は声を絞り出した。これくらい、どうということもないと呑んでかからないことには、全身が一気に総毛立ちそうだった。
「落ち着いてるよ……うん」
ケイスケの目つきがおかしいことに、源泉は今さら気づいた。光彩がひどく濁っている。だが、気づいたところで動けないことには変わりなかった。
「もったいないことしたな……そうか、そんなことならあんた、俺に渡してくれればよかったんだよ」
ケイスケの口の利き方がおかしかった。
「何をだ」
「アレ」
うっそりとケイスケが笑んだ。
「あんたが渡したんだろ? アレ、もう持ってないの? 俺によこせよ。そしたら次はうまくやるよ。アキラのやつ、いい具合によがってた。気持ちよさそうだったなァ……俺、あのとき何考えてたのかな。よく覚えてないんだけど、俺、何もしないで全部見てたんだよ。アキラのやつにひとりでやらせちゃった」
まるでいたずらをこっそりと打ち明けるように、ケイスケは楽しげにほくそ笑んだ。
「可哀想に、泣いてたよ。キレイでさ、ああ、そう……良いにおいがしたな」
「へえ……そうかい」
間の抜けた返事をしてしまった。どうしたらいいか必死で考えようとしても、驚きすぎていてうまくいかない。
(興奮性、麻痺、精神錯乱、光や音の突然刺激に対する過敏な反応、喉頭麻痺による嚥下障害……恐水病──hydrophobia)
こいつは病気だ。
すっかり忘れていた。
ラインは麻薬ではない、ウイルスだ──ほかでもない自分が、アキラへ忠告したというのに。
(こんなふうに、……なっちまうもんか)
ラインの過剰摂取で常軌を逸し、錯乱する人間なら今までに幾度も見た。
だがどこぞのチンピラが暴れているのと、見知った青年が病理に犯された姿を目の当たりにするのとでは、訳が違う。思えば噂はいくつか聞いたものの、ケイスケが罹患した後の状態を目撃したことはない。我知らず、背筋にそって怖気が駆け抜けた。
「へえって、もっとなんか感想はないのかよ」
顔をこわばらせて慄然とする源泉へ、上から含み笑いが降ってくる。
「まあいいか。なあ、アレ、もっとよこせよ。もっといっぱい泣かせてやらないと、アキラが可哀想だろ」
なあ? と繰り返してわずかに小首を傾げ、ケイスケが腕の付け根に体重をかけて乗りかかってきた。痛みと重みに腕が痺れて、そこから下の腕が麻痺してくる。動かそうと思えばできないこともないが、あまり逆らうとケイスケの神経を逆なでしてしまう。相手は精神がまともでないところに加えて、ラインによって運動能力が倍加している。形勢を逆転するならチャンスは一度きりだ、見誤ってしくじれば命が危ない。
「……わかった、取ってきてやるからどいてくれ。おいちゃんにゃ、おまえさんのスキンシップはちょいと激しすぎるんでな」
穏便にどいてくれれば、勝ち目のない格闘する必要はない。だが、ケイスケは目を細めて顔を歪めた。
「誰と誰が? スキンシップ? なにあんた、いい年したおっさんのくせに。ひょっとして昨日、アキラとヤった? 俺に内緒でさ」
ぞっとするほどの笑みを浮かべて、ケイスケが顔を近づけてくる。悲鳴まじりにケイスケをはねのけたくなるのを必死で堪えて、源泉はからからに干上がった喉から掠れた声を無理に押し出した。
「バカ、そんなことするわけねえだろ。ほら、どきな。薬がほしいんだろうが」
「どこにあるんだよ。俺が取ってくるから言えよ」
「おまえな、俺は一応ジャーナリストだぞ、ジャーナリスト。おいそれと、ものの隠し場所は教えられねえよ」
「へえ……」
ケイスケが、なるほど、といったふうにぱちりと瞬いた。
「なんだ。じゃあ……もう死ねよ」
拳が避けられたのは偶然だった。右か、左。どちらかを避ければいいと思っただけ、右利きのやつなら左にくる。そう思っただけだ。左利きだったら、今ごろ頭蓋が割れていた。
「よけるなって」
しかし、ケイスケが気を悪くした様子はなかった。むしろ一撃でかたがつかなかったことを楽しんでいるふう、源泉のむなしい努力を踏みにじるのが愉しくて仕方がないようだった。
顎を掴まれ、改めて後頭部を叩きつけられる。強烈な目眩に必死で歯を食いしばるうち、首の付け根に手をかけられ、床に押し付けられた。唯一自由になる足でケイスケの背を蹴り上げてみたが、衝撃は毛ほども感じられないようだった。
いつの間にか、ケイスケの喉からは哄笑があふれ出ていた。
嗤う声が、頭の奥に響いてガンガンする。
(ダメか──)
頭の隅で、少しばかり覚悟を決めた。
そのときだった。
頭の上から突然、生温い水が降ってきた。
:::
そのとき、ケイスケの手がわずかに緩んだのを、源泉は見逃さなかった。
とっさにケイスケの右手首を両手でしっかりと上から押さえつけ、左腕を右ひじで固定する。押さえた右手は離さないまま、源泉はすかさず左に転がってうつ伏せになった。
反動でケイスケがひっくり返り、仰向けになる。源泉は両足を使い、ケイスケの上半身を固定した。あとは、胸を押しつけるようにして掴んだ腕に力を入れる。こうして関節を取ってしまえばもうどんな怪力でも絶対に動けない。
「ふう……やれやれ。おい、ケイスケ。動くなよ。無理に動いたらおまえさんの骨が折れちまうからな」
そう声を放ったが、ケイスケからの返事はない。掴んだ腕から、細かに震えが伝わってくるだけだ。
かわりに──頭の上からケイスケの声とは違う、青年の声がした。
「あんたたち、近所迷惑だよ。なにやってんの? 夜も遅いってのに、くんずほぐれつしちゃってさあ。あー……と」
少し高めのキーで呆れたように言ってから、青年ははたと口をつぐむ。
「夜遅いからか。こりゃ失敬。お邪魔様」
源泉は思わず、大きなため息をついた。
「おまえってやつは……いくつになってもそういう言い方をだな」
「あのさ。そこの乗っかられて地べたに這ってるおっさんは、ほかに言うことあるんじゃないの? 俺に」
「この水、臭いぞ。なんだこりゃ」
青年は手に持っていたバケツを放り出した。伏せた源泉の目の前に転がってくる。赤いペンキで「消火用」と書いてあった。
「廊下に置いてあったんだよ。頭、ザクロにならずにすんだんだから、もっと熱烈に感謝してくんない?」
「ありがたいなぁ。おいちゃん、自分の涙に溺れそうだ」
「あんたってホントにカンジ悪いよね……って大丈夫なの、こいつ。なんか泡吹いてるけど」
そう言われて初めて、源泉は絡め取った腕と密着した胸から伝わる震えに気づいた。
「あ……、ぐ……っう」
ケイスケの口からうめき声が漏れ始め、震えがどんどん強くなっていく。押さえつけていなければ跳ね上がりそうなほどだった。
「ケイスケ! どうした、苦しいのか」
慌てて声をかけるが、やはり返事はない。何か喉の奥に詰まったような、からえづきにも似た音がひっきりなしに漏れている。答えようにも苦痛のあまり答えられない、といったふうだった。
(……水か)
源泉ははたと気づいた。
ラインの──狂犬病の症状のひとつである恐水病は、嚥下と呼吸を調整する脳の領域をウイルスが冒し、喉や声帯の筋肉が痙攣して起こる。さっき飲んだものを吐き戻したばかりのケイスケだ。水を見ただけで、痙攣が誘発されてもおかしくない。
だが手放しに介抱してやるのもためらわれる。ケイスケの意識がふらついているのは確かだ。いつまた襲いかかってくるともわからない。
「おい、手を貸してくれ。こいつは病気なんだ、俺一人の手には余る」
「なんで俺が──」
青年が言いかけたときだった。
するりと、ケイスケの腕が源泉の手から抜けた。
「!」
追いかけても間に合わなかった。ケイスケは、源泉の背中から転がり落ちた。
源泉はとっさに跳ね起きて、慌てて壁まで後じさった。
だがケイスケは飛びかかって来たりはせず、床にうずくまって自分の喉を掻きむしった。
ほっとして力が抜け、源泉はとっさに駆け寄れなかった。喘ぎながら嗚咽に似たうめきを漏らすケイスケを見ると、青年が不快な面持ちを隠そうともせずに眉をひそめた。
「……なにこれ、どういう病気なわけ」
「ラインさ」
鼻で笑って、青年が肩をすくめた。
「ばっかじゃないの、おっさん。それ、ヤク中っていうんだよ」
にべもなく青年が言い放つと、ふいに、ケイスケがくらりと体を起こした。
大丈夫か、と声をかける間もなかった。
いきなり、拳が突き出された──目の前にいた青年に向かって。
「リン!!」
「──ち」
舌打ちしてからそれをさらりとかわし、青年──リンはケイスケの腹へ向かって下から突き上げるように蹴り入れた。
「グ、……ァッ!!」
ケイスケはうめいて、派手に転がった。
「おい、バカよせ! そこは怪我してる」
源泉が慌てて言うと、リンはもう一度鼻を鳴らした。
「そんなのわかってるよ、こいつ腹かばってるもん」
「わかってるなら、頼むからおまえさんの脚力でそいつを蹴らんでくれ」
「なに言ってんの。ケンカふっかけられてんだから、狙うに決まってるっしょ。ったく、弱いクセに俺にケンカ売らないでくんないかなあ……、っと!」
ケイスケが跳ね起き、再び拳が唸りを上げてリンの頬を掠めた。バックステップで体をひねり、なおも追いすがる腕を蹴りで牽制する──が、ガツリと踵に手応えがあった。
「──ッ!」
舌打ちして、ケイスケが飛び退いた。
(何やってんのこいつ……あんなの当たるかよ、フツー)
当てるつもりの蹴りではなかった。飛び込まれないための、間合いを計るための蹴りだ。
駆け引きもなにもない、稚拙な動きだった。呆れるしかない。だが、なんの思惑も感じられない拳は、次の動作がひどく読みにくかった。
「……あのさ、俺、バカは嫌いなんだよね。図体でかいばっかのバカとか、バカ力ばっかりのバカとか、脳みそ筋肉の連中ってホントにやんなる」
「へえ……今のでよく折れなかったな。脚」
いきなり、ケイスケが低く凄味のある声でそう言った。
「……なんだ、口きけるんじゃない」
リンが笑うと、ケイスケもまた口端を上げてみせる。
(冗談、だから避けなかったって……?)
わざと当てさせて折るつもりだったのだと、言外にそう言っている。確かに、反対の脚だったら折れていたかもしれない。少しぞっとした。
「弱いヤツほどさあ、よくしゃべるんだよ。助けてくれって、鳴かせてみるのもキライじゃないけどさ」
そう言って、ケイスケは暗い笑みを漏らした。
気にくわない。
「へえ、上等じゃんか。やってみな」
リンの、その一言が合図だった。
ケイスケが、リンに飛びかかった。組み付いてくる腕を左肘で払いのけるようにして外し、リンはケイスケの左襟首を掴み上げる。首元をねじりあげられ、ケイスケがよろけた。
その一瞬を逃さずに、リンはつま先が頭につくほど振り上げ、体の外側からケイスケの背に向かって踵を叩きつける。
ひゅっと、脚が風を切って鳴った。
「──っぐ、は!!」
突き立てられた衝撃に喉を詰まらせて、再びケイスケが床へ膝をついた。
「おい、リ──」
「おっさんは黙ってろよ!」
振り向かずに源泉を怒鳴りつけ、リンはその場から飛び退いた。
ケンカは身に染みている。仕掛けられれば頭で考えるよりも早く体が動くし、組めば相手の強さもある程度わかる。
目の前でケイスケが再びふらりと立ち上がった。首を左右に倒し、わざとらしくこきりと鳴らしてみせる。
「それで……オシマイかよ」
目を細め、ケイスケはさもおもしろそうに笑んだ。
リンは内心舌打ちした。ケイスケの戦い方は確かに稚拙だ。だが鈍重でもない。恐ろしく力が強く、その上タフだ。ひるむ様子も全くない。
ウエイトが軽い分、変則的な戦い方を強いられるのは昔からだ。力が相手の半分でも勝つ自信はある。
だが、こういう相手はやりにくい。
精神がまともでないからだ。
(ったく、これだからイヤなんだよ。ヤク中は……)
荒んだ暴力に気分が高揚しているのと、本当に気が狂っているのとでは、似通っているように見えても全く違う。人間的な弱さや隙は、本来誰もが持っている。そしてそれは、ルールのないケンカにとって、とても重要なのだ。
あの腕に捉まったら抜け出せない。持久戦も不利だ。しかも、相手は痛みも恐怖も感じないときている。自分の身をかばう様子は一切見られない。
ひとつ手が塞がれているも同然だった。
「俺が強いって気がついた?」
ケイスケが目を細めた。
「おもしろいじゃないか。殺人ゲームなんて言ったって、所詮はバカの吹きだまりでさ。どいつもこいつも弱くて、つまんないって思ってたとこだったんだ。やっぱりこれくらい反抗してくれないと、やりがいがいないよな」
「……いつの話してンだよ、バカ。ぶっ飛ぶのもいい加減にしろっての」
「その生意気な口、塞いでやるよ」
まるで舌なめずりするように、ケイスケが呟いた。
「冗っ談、願い下げだ。……なあ、おっさん」
やはり後ろを向かないまま、リンは源泉に声をかけた。
「なんだ」
「悪いけど、俺もうムリ」
リンが歯がみすると、ケイスケが眉をひそめた。
「もう根を上げるのかよ。早いじゃないか」
いきなりテーブルが宙を舞った。ケイスケの片手から軽々と放たれたそれは、リンの頭上目がけて飛んだ。リンはとっさに右脚を突き出し、後ろ蹴りを繰り出す。
重心が下がり、頭より上に右脚が上がる。下からの突き上げで机の天板がV字に曲がり、床に当たって折れ、周りのものをなぎ倒しながら跳ね上がった。
「おいコラ!! おまえら、部屋を壊すな!」
慌てて源泉は数秒前まで机だった残骸を避け、怒鳴った。だが二人とも当然、止まる様子はない。
「そうこなくっちゃなあ!」
ケイスケはなおも執拗に、リンに掴みかかろうとする。
バカの一つ覚えに見えて、実は至極もっともなやり口だ。力ずくで押さえつけることができれば、ケイスケの方が俄然有利なのだ。痛みなど大して感じないなら、そうした応酬の間にリンが疲れるのを待てばいい。
「ホンットに最悪……!」
軽いステップを踏んでリンは体をひねり、ケイスケの頭へ横殴りに一撃、回し蹴りを叩きつける。
ケイスケはよろけて後じさった。だが体を曲げただけで、倒れはしなかった。倒れるどころか、口元に笑みさえ浮かべたのがちらりと見えた。
「──のやろッ!」
だが、そこで止まるつもりは最初からなかった。リンは回転する勢いを殺さず、もう一度地面を蹴った。間髪入れず、ケイスケの腹部へもう一撃蹴りこむ。
傷に響いたせいか、ケイスケは渋面を作り、今度は前屈みにたたらを踏んだ。だがリンはさらにケイスケの正面へ体を沈ませると、下方から顎へ踵を叩き入れて蹴り上げ、軽々とバック転してみせた。
がきり、と歯を噛み合わせた音がした。
さすがに堪えきれず、ケイスケは顎を仰け反らせて後方へひっくり返った。うめいて腕が空を掻いたが、何も掴めないまま、背後に転がったテーブルの残骸へしたたか背を打ちつける。だがそれでも受けた衝撃の勢いは殺せなかった。そのままもんどり打って壁にぶつかり、はねた腕が窓硝子を叩き割ってから床へ崩れ──そこでようやく、止まった。
リンは詰めていた息を大きく吐き出した。
「ったく、やってらんないよ。……おっさん、ホントにもう俺、ムリだから」
無意識にリンは自分の唇を舐めて湿し、ごくりとつばを飲み下した。
「こんなバカ、手加減できない。つうか、してたら先に俺がやられる。顎のひとつやふたつ、割れても文句言わないでよね」
「……顎はひとつなんじゃないのか」
源泉がとぼけたふうに言うと、リンは眉をつり上げた。
「あのねえ──」
だが言いかけたところで、再びケイスケが立ち上がる。
その気配にぎょっとして、リンは目をむいた。
「あいつ……ゾンビかよっ! 俺の義足蹴り、何発食らったと思ってんの!?」
「リン。なるべく顎と頭は割らない方向性で、もうちょい持ちこたえてくれ。頼む」
「あんた、注文多いってば!」
悪態をつきながらも、もう一度の攻撃に備えて構える。──が、なぜかケイスケは突然、がくりとその場に崩れ落ちた。
「え……?」
しばらく立ち上がるのを待ったが、そのまま一向に動かなかった。
「ち、ちょっと……待ってよ。俺、蹴りは手加減してないけど、絶対に急所狙ったりしてないからね!」
「そっちは俺だ」
「あ?」
源泉がそう言って、ケイスケに近づいた。しゃがみこんで触れたが、しかしケイスケは襲いかかってくる様子もない。
リンもまた怪訝な面持ちのまま近づき、ケイスケ覗きこんだ。
「なにこれ、ひょっとして……寝てる?」
「正解。さっき、ちょいとおっかなくなってな。一服もっておいた」
唖然として、リンは一瞬、ぽかんと口を開けたまま言葉を失った。
「……うっわ……最悪! やだやだ、もう二度とあんたの家で飲み食いしない!」
「バカ、おまえに一服盛ってどうするよ」
「普通に考えたら、俺が可愛くてかっこいいから、一発犯るんじゃないの」
「阿呆か。俺にもな、選ぶ権利っちゅーもんがある。おまえなんぞ相手に勃ってたまるか」
「失礼だなあ」
リンが唇を尖らせた。失礼に当たるのか、と喉元まででかかったがそれ以上言うのはやめておいた。
リンが大きなため息をついた。
「けどさ。どっちみち、こんなふうじゃ早死にするよ。コイツ。自分と相手の強さくらい、わからなきゃさ」
「ここはトシマじゃないんだ。殴り合わなくたって生きていけるさ」
「うっかりだろうと病気だろうと、ヤクザ殴れば返り討ちにあっても文句言えないだろ? 鼻がきかないやつはいつ、どこにいたってさっさと死ぬよ」
「リン」
源泉がとがめるように言うと、リンは肩をすくめた。
「おっさんが肩持つのは勝手だけど、俺の寝覚めが悪いからぶち殺されたりしないでくんない?」
「おまえさんが止めてくれるんだろ?」
「いっつも都合良く現れるなんて、思わないでよね。でなきゃ金払えっての! あんたがノコノコ帰ってきたって連絡寄こすから、ほんっとに仕方なく、たまたま顔出したばっかりにこんな目に遭ってさ、あったまくるよもう!」
「へいへい。ありがとさん。連絡しといてよかったよ。ホントに助かった」
そう言って、源泉は眦を和ませてリンの頭をくしゃくしゃとなでた。リンはぴしゃりとその手を振り払って、源泉を睨みつける。
見上げる距離が、ずいぶんと縮まっていた。けれども、やっぱり源泉の中で自分はいつまでも子供なのだろう。そして不覚にも、どこか懐かしくて甘ったるい感傷が自分の胸へもこみ上げてくる。
そんな胸中を見透かされたのか、ひっぱたかれたのにも関わらず、源泉はにやにやと笑ってこちらを見ていた。
リンは慌ててそっぽを向いた。
「大体どんな理由があったって、俺はヤク中の肩なんか持たないよ。あーあ、アキラが関係なければケイスケなんて、今すぐこっから叩き出してやるのにさ!」
:::
目が覚めると、見たこともない部屋の床に転がっていた。
(……俺、どうしたんだっけ)
さっきまで眠っていた。そして今、目が覚めた──ぼんやりとした頭で考えても、そこまでしかわからなかった。自分はそれ以外の記憶も持ち合わせているはずだ、とわかるのに、内容が全く思い出せない。
どこか釈然としないまま体を持ち上げると、妙にだるくて節々が痛かった。壁は古びた色合いのコンクリート、床はタイル張りで、そっけない風体の机と椅子が一組置かれている。天井には蛍光灯があったが明かりはついておらず、部屋は暗く、暖かみの気配がいっさい削げている。
音もない。
どこかにうち捨てられた感じがした。
……悲しい。
急にひとりでいることが寂しくなって、立ち上がった。しかしドアノブに手をかけて引いたけれども、がちりと堅い音がしてそれ以上はいくら揺すっても動かない。
(鍵なんて……なんで)
内鍵は見あたらない。どうして外から鍵をかけられているのだろう。
囚われているのか。どうして。
それとも棄てられたのか。冷たくて狭いところに押し込めて、厳重に鍵をかけて──もう二度と出てこないように。
(どうして)
呟いたつもりが、音にならなかった。かすかすとした息がもれるばかりで、声が出ない。急に恐ろしくなって、拳で扉や壁を何度も叩いた。傍らの椅子を振り上げ、叩きつけてもみた。けれど、誰かが駆けつけてくることも、扉が開かれることもなかった。
その場に膝をついた。息が上がっていた。
(誰か……)
床へ爪を立てた。涙が出そうだった。頭が重くて、肩より下に下がる。ひどいめまいがして、どこに自分の重心があるのかわからなくなった。
ふと、既視感が頭を掠める。昔、こんな気分になったことがあった。
暗い空の下、暖かな家の明かりを見たら、うらやましくて立ち去ることができなくて──それで。
(「おかあさん、あそこによその子がいるよ」)
言われて、恥ずかしくなって、逃げ出した。
家族が欲しかった。ずっと、長いこと。いつでも自分を迎え入れてくれる、暖かな手が欲しかった。
あのときは、自分の方が閉め出されていた。今は、自分以外の一切が閉め出されている。
今も昔もやっぱりひとりだ。他人と自分を隔てる何かがあって、いつもうまく届かない。人は触るとすぐ死んでしまう。弱くて、ナイフで心臓を刺すと本当に死んでしまう。ひどく簡単でびっくりする。
つい最近も、目の前で人が死んだ。いきなり自分で自分の腹を刺して、横に引いて、ばったり倒れて、そのまま動かなくなってしまった。すごく驚いたし、動けないほど怖かったけれど、刺された自分からも同じように血が出たから少し嬉しかった。脇腹がしっとりと暖かかったのを覚えている。
だが──そのあとはどうしたのだったか。
やっぱり思い出せない。
(もう……ダメなんだ。きっと)
もうずっと長いこと、自分の奥底に大きな空洞と違和感を飼っている。知っている。それは、昼間は息をつめ、身を潜めているのだけど、夜になるとときおり頭をもたげてくる。そのたび、なにかに頭からすっかり喰われてしまったような気分になる。
ひょっとしたら、もう"自分"なんていうものはどこにもなくて、本当は死んでしまっているのかもしれない。たくさんのひとの心臓を握りつぶしたから、罰を受けて、細切れにされて、喰われてしまったかも。
だって、あんなに人が死んだのに、自分だけが生きているのはどこかおかしい。
(もう、ダメなんだ。きっと)
そう思ったとたん、闇の中から部屋の四隅から腕が伸びてきて、足を、腕を、首を、体を掴まれた。
繰り返されるこれは、喰われる儀式なのかもしれない。
そして毎日のように喰われて咀嚼され、消化されていく。
きっともう、体なんて呪詛でとっくにバラバラなのだ。
(今度こそ死ぬんだ)
いまさらのように、声が喉を破ってあふれ出し、鼓膜を突いた。
死ぬのが怖かった。人の命をいくつも奪ったくせに。
逃げだそうともがくと、ひときわ、強く腕を掴まれる。
それを振りほどいて後じさり、壁に突き当たって喘いだ。
「大丈夫だ」
何が大丈夫なのかわからない。
「大丈夫だから、──ケイスケ」