とある雑居ビルの応接室で、源泉はちびた煙草を咥えたまま、手元の書類に目を落としていた。
昼も夜もなく人が行き交うここは、新聞社の仮社屋だ。適度なざわめきが辺りを包んでいるが、文字をたぐり、紙をめくることにだけ集中していると、頭の隅がしんとしてくる。
「どうだい?」
控えめなノックの後、扉を肩で押し、両手に湯飲みを持った男が現れた。
「ああ、こりゃあ助かる」
言って、源泉は顔も上げずに差し出された湯飲みを受け取る。
「自分で頼んでおいて言うのもなんだが、こいつはちょいと骨が折れたろう」
源泉が今持っているのは、目星をつけた数名の出入国リスト、それからここ数年のとある事件をつぶさにファイリングしたものだ。几帳面にまとめられたそれらは、すべて目の前にいる彼一人の手作業によるものだった。
「面倒だとわかってるなら、もう少し感謝して欲しいんだけどねえ」
「してるさ。今度、その辺でどうだ。なんなら今晩でもいいぞ」
顔を上げ、くいっと杯を傾ける仕草で源泉は笑ってみせた。男は渋い顔つきで肩をすくめ、どっかと安物のソファに腰を下ろす。
「まったく、あんたも人使いが荒いよ」
「スマンスマン。もうちょい勘弁してくれや。今度いいネタがあったら真っ先に持ってくる」
男は再度、大仰に肩をすくめてみせる。
「まあ……あんたにはいろいろ借りがあるし、ついででいいならこれくらいの調べもの、かまわないけどな。それより」
ふいに、口ごもるようなタイミングで言葉が途切れた。
熱いばかりで味は出がらしの茶をゆっくりとすすってから、源泉はゆっくりと視線を男へと向けた。
「なんだ、どうしたよ?」
「あんた、一体何に首を突っこんでるんだい?」
いやに真剣な男の視線に射抜かれた。
「前後関係はわからなくても、調べていれば俺だって俺なりに情報を頭の中で料理することになる。ネタにならないとは言わないよ。だけど、あんたらしくないぜ。俺には、あんたがわざわざ危険の多い橋を選んで渡ってるように見えるんだがね」
「おっ、心配してくれんのか?」
ちゃかすように言うと、男は声をほんの少し荒げた。
「当たり前だろう。俺の回したネタで、川に浮かんだりしないでくれよな。頼むから」
「はは、まさか。そこまでヤバかないさ」
「今はね。でも、いずれ周りが気づけばヤバくなる。違うかい?」
男はよれたシャツの胸ポケットから煙草を取り出すと、いらだたしげにフリントを数度引っかけ、ライターの火を灯す。
「俺はもう長いこと軍の記者クラブに出入りしてる。ネタに触れば、本当にヤバイものはわかる。長年のカンってやつさね。ただでさえ、例の話は軍の連中にとっちゃ鬼門なんだ」
そう言って一息煙を吸い込んでから、男は源泉の手にあるファイルを顎でしゃくった。
「あんたは高飛びしていて知らないかもしれないが、当時、動揺は決して小さくなかった。なにしろまだ内戦中の話だったしな」
「そりゃあそうだろうなぁ。なにせ統治権を争ってたんだ。治安に対する世論は、軍──ひいては日興連の沽券に関わる、ってとこか」
「分かってるンじゃないか」
男は煙を吐き出し、押し殺した声で続けた。
「最初にそれとおぼしき事件が確認されたのは軍内部。保護監察下に置かれていた難民が、ちょっと目を離した隙に軍人を惨殺ときてる。それも立て続けに、あちこちの駐屯地で数件だ。医局へ引き渡しても原因がつかめないばかりか、症状が出れば手に負えず射殺、もしくは勝手に憤死。連中もメンツ丸つぶれだよ。最近じゃそれとおぼしき事件があっても、ただの傷害事件として処理される。表向きはね。それを、ENEDなんてCFC非公式研究機関の話と一緒くたにされたら、いくら俺が鈍くても怪しいと思うさ」
「おいおい、待てって。そこまで政治的な話じゃない」
「むしろ、政治的な話ならよかったんだよ。内戦の終結時に手を打てば、まだ間に合っていたかもしれない。状況はなお悪いさ。なにしろ実態把握ができていないんだ。この調子じゃ、くだんのENED製ドラッグは確実に闇へ流れてる」
源泉は眉をひそめた。
「確かか」
源泉が食らいつくように問い返すと、男は目を細め、口端を上げて見せた。
「そんなの、状況証拠の憶測に決まってるだろう。……ふん、ようやく尻尾を出したじゃないか」
「あ?」
「俺はあんたに、ENEDのことはこれっぽっちも聞いてない。あんたに言われたとおりの人物を何人か捜して、軽く足取りを追っただけだ。非公式研究機関ってのも、ハッタリのつもりだったんだがねえ」
源泉は言葉を失って、ぱちりと瞬いた。
「……ったく、切れるブンヤ殿ってのは油断がならねえなあ」
「食えないフリーのジャーナリスト様が何を言うかね」
「頼むから、そこんとこはあんまり勘ぐらんでくれ。安全の保証ができなくなる。頭のいい、あんただから折り入って頼んだんだ」
「そっちこそ脅さないでくれよ。……本当にらしくないなあ」
いつの間にか小さくなった煙草を、男は灰皿がわりのアルミ皿になすりつけた。
「いいかい? 俺が切れるんじゃない、あんたが抜けてるのさ。抜け目ないあんたが、この話になるとどうも様子が違う。大体あんたは事件記者じゃない。恐らく個人的な件なんだろうが、俺としてはもう少し冷静になることをおすすめするね」
「……ご忠告、痛み入るよ」
たたみ掛けるように言われ、そう返すだけで精一杯だった。
大きく息をつき、源泉はソファに身を沈めると天井を振り仰いだ。
(未だに冷静になりきれんってのは、我ながらどうかねえ……)
十分に心の整理はついているつもりでも、やはりどこか感傷的になっているのだ。しかも他人に指摘されるまで気づかないというのは、相当重傷な証拠だろう。
ENED、ラインにまつわる一連の真相──そして、ニコル・プルミエ。
トシマが崩壊し、ヴィスキオも店じまいしたかに見える。ライン流通のメインルートは事実上壊滅したはずだ。ならば、いい加減忘れてしまうべきなのかもしれないと思う。こだわり続けることにどれほどの意味があるのか、とも。
だがその一方で、忘れないよう躍起になっている自分に気づく。
あの絶望──世界は終わったのだとすら思えた惨劇の傷が、時間という誰にも平等で親切な作用の前に、癒えていくとは信じたくないのだ。死んでいった我が子や妻を忘れることが、酷い裏切りに思えて仕方がない。きっと心の奥底では、決着と呼べるような、決定的な何かが訪れることを望んでいる。だから、未だにこうして嗅ぎ回ることをやめられない。
アキラたちに肩入れするのは、もちろん彼らが心配だからだ。なんとか手助けをしてやりたいと思う。ラインの磁力に巻き込まれて苦しむ姿を、自分や家族に重ねてしまうせいもあるのだろう。
しかしそれは、未だ見切りがつけられない自分への言い訳のために、彼らを利用しているのかもしれなかった。ひょっとしたら内心は、家族の影へ重ね合わせることで、何もしてやれなかった家族への罪滅ぼしのように思っているのかもしれない。
(自己満足もいいとこだなぁ)
やれやれと、大きなため息をつきそうになったときだった。
遠慮がちなノックの音がした。
「どうぞ」
「あのう……お話中にすみません」
顔を出したのは、アルバイトの女の子だった。
「ん? どうした。今日はもう帰るんじゃなかったか?」
「それが……外に変な人がいて」
「変な人?」
「ビルの入り口にずっと立ってるんです。なんだか雰囲気が怖くて、外に出られないんですけど……」
「なんだあ、変質者か? 最近は物騒だからなあ」
男がちらりと目配せしてくる。源泉は肩をすくめた。
「とりあえず警察でも呼んでおくか? サイレンが聞こえりゃ逃げるだろうしね」
「よし。そしたらその前に、ちょっとオイチャンが見てやる。なんなら途中まで送ってやろう。警察を呼ぶのもいいが、このまま待ってたんじゃ帰りがますます遅くなっちまうしな」
すみません、と頭を下げる女の子の声と同時に立ち上がり、源泉は窓際へ寄った。ビルの入り口なら、ちょうとこの部屋の窓から見下ろせるはずだった。
ブラインドに指を差し入れて、窓の外を窺い見る。
日もそろそろ落ちようという薄闇に、ぽつんと男が一人、立っていた。顔を確かめようとしてじっと見つめていると、男がくらりと視線を上げた──気がした。
源泉はぎょっとしてその場に凍り付いた。
男の顔はかげっていて目許も見えず、表情は定かでない。なのに──視線がどこに向かっているかも分からないのに、見つかった、と咄嗟に思った。
(なにを、バカな……)
ごくりとつばを飲み込み、源泉はもう一度よく見ようと目をこらした。
若い男だった。髪は短く、がっしりとした首から肩の線が見える。白っぽいつなぎという出で立ちだ。
ふと、どこか見覚えがあるような気がして、源泉は首を傾げた。
誰だったろう。見れば見るほど、確実に知っているという気がした。ここですれ違っただとか、誰かの後ろについてきていただとかそういうことではなくて、何度か会い、きちんと目を見て話をしたという気が。
何度も記憶を探り、はた、と源泉はまばたいた。
「あいつ……」
「ん? どうした……おい、源泉!」
男の声を聞き終わる前に、源泉は慌てて応接室を飛び出し、階段を駆け下りていた。雑居ビルから飛び出すと、青年は窓から覗き見たときと変わらない場所にひとり立ちすくんでいた。
「ケイスケ! おまえさん、ケイスケじゃないか?」
声をかけると、薄暗がりに佇んでいた青年がややあって顔を上げた。
「やっぱりそうか、久しぶりだなあ」
そうそう顔の変わる年頃でもない。人の顔を覚えるのも、仕事柄得意な方だ。間違いない。ケイスケだった。
「なんだ。ひょっとして俺を訪ねてきてくれたのか? 嬉しいねえ」
そう笑って肩を叩いたのだが、しかしケイスケは再びほとりとうつむいてしまう。
首を傾げてもう一度口を開きかけ、源泉はケイスケが白い紙切れを堅く握りしめていることに気づいた。
「ん? そいつは昨日、俺がおやっさんに渡した名刺じゃねえか。なんだ、おやっさんに何か頼まれ事でもしたか?」
だがやはり、ケイスケは源泉の問いに答えようとしない。
ケイスケのどこか暗く茫洋とした表情に、源泉は眉をひそめた。
彼とは以前、トシマで何度か顔を合わせている。それほど多くの言葉を交わしたわけではなかったが、些細なことで慌てたり、言葉を飲み込んだり、困ったように笑う表情が淡泊な反応のアキラと対照的だったことを覚えている。だが決して陰気な青年ではなく、ときおり微かな人懐こさを覗かせていたから、気後れするたちなんだろうな、と感じた。ライン絡みの事件に巻き込まれたと分かったときは、もっとうち解けられていたら力になれたかも、と悔やまれたものだ。
なのに、この様子は一体どうしたのだろう。数年ぶりで顔つきがほんの少し大人びたようにも思うが、それとはまた別の理由である気がする。
「どうした、……ひょっとして何かあったか」
改めてのぞき込んでみると、ケイスケはひどく顔色が悪かった。おまけに着ているものは薄汚れていて、荷物をだらしなく肩からひっかけている。日が落ちればまだ冷え込む時期だというのに上着は着ず、手に握りしめていた。それどころかジーンズも一緒に握りしめていて、よく見ると整備工場の作業着を着たままだ。
これでは女の子が怖がるのも無理はない。何がどう、とは言えないのだが、全身がどこか荒んだふうだった。もし自分が見ず知らずの通行人だったら、やはりとっさに目をそらしていたに違いない。
とにかく汚れを払ってやろうとケイスケに手を伸ばしかけ──だが源泉は、わき腹の辺りにひときわ大きな染みを見つけた。
周りが暗くてよく見えないが、黒っぽくて手のひらほどの染みだった。
「おまえさん、そりゃあ……」
血じゃないのか? と言おうとして、源泉は息を呑んだ。
瞳が、暗すぎた。
隠さなければ──とっさにそう思った。
(ばかばかしい、なんでそんな……なあ?)
自問し、だが笑おうとして失敗した。さっき二階から遠目に見たときもそうだった。ばかばかしいと思うのに、体が先にぎくりと嫌な感触を伝えてくる。
ふいにケイスケが顔を上げ、目が合った。
表情がごっそりとそげ落ちていて、何を思っているのか全く読めなかった。
「……おまえさんさえよければ、今から俺の家に来るか。どうだ?」
黙って視線を交わし合う沈黙に耐えきれずに、源泉はそう切り出していた。
きっと周りが暗いせいだ。だから些細な表情などよく見えなくても仕方ないし、目許に影が落ちているふうなのも当たり前だ。それに、何か事情があって自分を頼って来るのなら、道ばたで話し込む内容でもないだろう。
「よし、ちょっと待ってろ、荷物取ってくるからな。ま、家っつっても、しばらく借りたってだけの、狭い部屋だ。緊張せんでいいぞ。久しぶりなんだ、ゆっくり話でもしようや」
二度三度とケイスケの肩を叩きながら、源泉はできるだけ軽い調子で笑って見せた。
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源泉の借りている部屋は、繁華街を抜けて十分ほどの場所にある。雑居ビルに手を入れ、そこへ小さめのベッドを無理矢理押し込んで、アパートとして再利用した代物だ。外観は先ほどの新聞社のビルと大して変わらない。内装も壁はコンクリートがむき出し、床もタイル張りで窓は北向きだが、一人で住むには少々広めの間取りに業務用の大型エアコン設備と、珍しいことに有線電話が最初からついている。
基本的には寝泊まりできれば良かったから、選ぶにあたっては暮らしやすさよりも立地条件と機能が優先だった。ニホンに何ヶ月滞在するかわからない、定職にもついていない源泉に、うるさいことひとつ言わず入居を了承した大家の対応も決め手となった。金払いさえよければ、それ以上のことで店子に文句をつけてくることもない。願ったり叶ったりの条件だ。
内乱が終決し、日興連主権となったとはいっても、ここ数年のことだ。治安はまだまだ落ち着きを見せず、物騒なニュースがラジオや新聞を日々騒がせている。そして、その現状を伝えるインフラの整備もまた、整っているとは言い難い。国民は自分から外側へ向かって、漠然とした、必要以上の警戒心を抱いていた。だから、何をするにも──職につくにも家を借りるにも──なにか人間的な保証がないと難しいのが現状で、それはとりもなおさず、そのことを逆手にとったビジネスがあるということなのだった。
そうした世情を肌で感じるたび、人間の経済活動というものは図太くて逞しいな、と源泉は素直に感心してしまう。人々が安心して暮らせるよう努める姿勢は、当然ながら国家にとって重要だ。だが、国がいくら荒んでも人はその生命力で逆境を切り抜けようとし、その力強さで世の中はどうにか回っていく。
今この瞬間は、後世において嘆かれる時代となることだろう。だが、こうしたうねりの渦中にいることに、源泉は少しばかりのおもしろさを感じる。不謹慎かもしれないが、どこへ転がっていくかわからない不安定さと、その中にかいま見る人間という生き物の本質的な生命力は、平和な時代にあっては望むべくもない。少なくとも、美しく清潔で一部の隙もないほどに管理されていたCFCでの生活を"平和"と呼ぶのであれば、平和など二度と訪れなくてかまわないと言い切ることができた。
CFCの体勢が明るみに引き出されるにつけ、悪し様に言う輩も少なくない。だが、国に全てを委ねることを安寧と信じ、ひとりひとりが考えることや疑問に思うことを放棄したからこそ、CFCは崩壊したのだ。社会の歪みは源泉自身をひどく傷つけたが、それは自業自得とも言うべき怠惰のツケかもしれなかった。
「おい、突っ立ってないでこっちへ来て座れ、ケイスケ」
ぼんやりと部屋を見回していたケイスケに、源泉は奥の部屋から声を投げた。
「上に着てるものを脱げ。その傷、手当してやるからな」
一通りの救急道具を揃えて戻り、もう一度声をかける。ケイスケは頷くこともせず、ただ諾々と源泉が言うことに従った。のろのろとした動作でつなぎのボタンを外しにかかるが、しかし指の動きがたどたどしく何度もつっかえる。少し、指先が震えているようにも見えた。その仕草がひどく痛ましいものに見えて、源泉は誰にも聞こえない音量のため息をついた。
ケイスケも、そしてアキラもCFC出身だ。三人とも同郷であるのに、CFCにいたころはお互いの存在など知り得るわけもなく、それがトシマを経て、今こうして日興連で再び顔を合わせている。不思議な縁だと感慨にふける一方で、ここまでたどり着くのにどれほど大変な想いをしただろうと思わずにはいられない。
彼ら子供は紛れもない被害者だ。管理社会という名の器に押し込め、教育という名の美しい言葉と矯正という名の正義で、彼らの人生を歪めてしまった。直接的ではないにしろ──いや、黙っていたからこそ──自分たち大人はやはり加害者だ。時代が時代なら、まだまだ遊び盛りの年頃だったろうに。
(やっぱり自己満足か)
だが、それでもいいと思う。できることなら、この後の人生を伸びやかに生きていって欲しい。そのための手助けなら、たとえ偽善であっても何もしないよりはずっとマシなはずだ。
源泉はケイスケの体を検分し始めた。傷は刺し傷だった。かろうじて出血は止まっていたが、傷そのものは浅くない。処置を施しながら、身の内にまだこびりついているらしい応急手当の手際に思わず苦笑した。皮肉な話だが、かつて人を殺しに赴いた地での経験が役立つ場面によく出くわす。そういう役回りなのかもしれなかった。
傷は脇腹を掠めるようにして斜めに走り、後ろへとまっすぐに抜けていた。誰かに刺されたのは明らかだった。自傷なら、傷はもっと体の正面に寄るはずだし、角度は内向きになるはずだ。
どうしたんだ、と聞くべきか。源泉は手当をしながらしばらく迷い、結局は訊ねることができなかった。刺された、などと穏やかな話ではない。無理に聞き出そうとするよりも、自分から話し始めたところを助けてやるのが一番いいだろう。
「これでよし。全治三週間ってとこだな。傷口が開いちまうから、しばらくはあんまり暴れるなよ。仕事も力仕事はやめとけ。俺がおやっさんに口添えしてやるからな。あのおっさんも容赦ねえからなあ。仕事、結構大変だろ?」
話しかけながら、源泉は血にまみれたガーゼと、ケイスケのシャツを不透明なビニールに押し込めて口を結わえた。
「シャツはこりゃあ、廃品にしたほうがいいが、つなぎは洗ってやるから、脱いだらこっちに寄こしな。とりあえず俺のシャツを着てろ。おっと、後で返せよ。手持ちが少ないんだ。下はおまえさん、自分のジーンズがあるからそいつでいいな」
黙り込むケイスケの手によれた白シャツを押しつけ、源泉は形ばかりの台所に立った。部屋はかろうじて水回りのみ確保されていたが火はなく、携帯用の小さなガスコンロを持ち込んでいる。そこへ、唯一の調理器具である小さな手鍋を置いた。
「もう遅いから泊まっていくだろう? もし気になるなら、そこの電話でアキラに連絡していいぞ。かけ方分かるか。番号は? おまえらの家になくても、大家には電話くらいあるだろ」
だが、やはり返事が返ってこない。源泉は振り返り、やれやれと大仰に肩をすくめた。
「ま、いいか。今日はもう寝ちまえ。一日くらい戻らなくたって子供じゃあるまいし、別に平気だろ。大体おまえさん、その傷だって浅かねえぞ。病院に叩き込んだっていいくらいなんだからな」
傷を受けた経緯が分からないから、病院には入れられないだけだ──と思わず言いそうになって、源泉は口をつぐんだ。
そう言えば、傷に気づいたときも思ったのだ。
隠さなければ、と。
──いやそれは違う、と源泉は自分の考えに軽く首を振った。ケイスケの傷は誰かに刺されたものだ。ならば、ケイスケは被害者であって、隠し立てする理由などどこにも見あたらない。本来であれば警察にきちんと被害を届け出て、しかるべき手配を受けるのが筋のはずだ。
だが、そういうことは明日でいい。もう夜も遅いし、なによりケイスケもどこか参っているふうだ。憔悴していたから留め置いた、と言えば警察も軍もそれ以上は怪しまないだろう。いざとなれば伝手もある。万が一気まずい雰囲気になったとしても、多少であれば大目に見てもらうことは可能だ。
「よし、今から俺が特製ホット牛乳を作ってやる。飲んだらよーく眠れるぞ。明日は付き合ってやるからな」
言って、牛乳の入った鍋を火にかけると、再び沈黙が訪れた。
(やれやれ、どうにもならんなあ……)
狭い部屋の中、ケイスケの存在感は無視できる大きさではなくて、源泉はだんだん辟易とし始めていた。全く口を開こうとしないのも気になる。今まで何の事情も問いたださずにいたが、むしろ少しは話の糸口を作ってやってもいいのかもしれない。ひょっとして、ケイスケも切り出せずに逡巡しているのかも。だとしたら軽く話を振ってやって、特に返事がないようなら深追いしなければいい。
そもそも、停滞している状況は苦手だ。いかに厳しい状況でも、何もしなくていいと労られるくらいなら、死にものぐるいで動いている方がずっといい、そういう性分なのだ。
そして──そんな心づもりで発せられた一言は、後から思えばひどく短慮なものだった。
「ひょっとしておまえら、ケンカでもしたのか」
本当に軽い気持ちで口にした、何気ない言葉だったのだ。
だから間を置かずにケイスケが「源泉さんは……」と重い口を開いたときは、本当に、心底ビックリした。
だが、自分が慌ててはいけない、と源泉は振り向かずに堪えた。鍋を相手に何気ない態度でいようと努め、すぐに振り返ったり、言葉を募らせたりはせずに次の言葉を待った。
だが、それきりまたふつりと言葉が途切れてしまい、源泉は観念してちらりと肩越しに振り返った。
ケイスケと、いきなりぱちりと目が合った。今までいくら合わせようとしても、一向にうまく結ばれない気がしていたのに。
ケイスケはしっかりとこちらを見ていた。だが、その表情はまるで途方に暮れているかのように見えた。
「うん? なんだ。どうした」
柔らかく促すと、何度か瞬いてからかすれた声がした。
「……昨日、アキラに会ったんですよね」
そう問われ、やはりアキラとのことが原因なのだ、と合点がいった。おおかたケンカでもして、家に帰りづらいのだろうと思ったら、源泉はとたんに気分が軽くなった。子供相手になんて余計な心配をしていたのだろうとおかしくなり、ついつい言葉も軽い調子になる。
「ああ、そうそう。おまえさんは出かけてたんだっけな。せっかく一緒に会いたかったのに惜しかったって、アキラとも話をしてたんだぜ。悪かった……」
言いながら、源泉ははたと思い至った。昨日の今日でもめたというなら、自分にも少しだけ心当たりがあったからだ。
「ひょっとしておまえさんたち、アレ、使ったのか」
「……アレ」
ぽつりと落とされた、ケイスケの呟きが持つ低い響きに、源泉は自分の勘が外れていないことを確信した。
(アレを使ったのか……なるほどなあ)
昨日アキラに手渡した、あの薬。
源泉は無意識に頭をかいた。それなら今まで口が重かったことも合点がいく。恐らく何か文句を言おうにも、切りだそうにも、恥ずかしかったのに違いない。
実際のところ、源泉も少しお節介だったという気はしていた。だが、そもそも二人の絆が深いことは──肉体関係云々は横へおいておくとして──分かっているつもりだ。手に手を取ってトシマを脱出し、相談できる相手もなく、なんとか二人で切り抜けてきた苦労は相当のものだろう。今さらセックスがどうこういう理由で破綻する仲だとは思ってもいなかったが、当人たちにとっては深刻なのだろうと、想像はついた。第一笑い飛ばせることなら、アキラが自分に相談などするわけがない。当のアキラも促せばぽつぽつと話をしたものの、どうしてこんなことをこのオヤジに告白してしまったのだろうと、困惑している様子がありありと見て取れた。
だから、まあ、薬そのものは体に悪いものでもなし、こじれた気持ちが単純に肉体的なことだけで解決するならと、源泉なりに二人の背中を押してやったつもりだったのだが──しかし生真面目な二人のことだ。恨み言の一つも言いたくなったところで不思議はない。
少しだけバツが悪くなって、源泉はケイスケの視線をかわし、再び手鍋へ視線を落として続けた。
「あー……だからあれほどマジになるなって言っておいたんだがなあ。いやその、アキラがな……」
だが、源泉はそれ以上続けられなかった。
「アキラが?」
ケイスケが、先を促すように呟いた。
発せられた声は低く、そしてそれきり沈黙する。
ケイスケが、自分の反応を待っているのだとわかった。これから何を言うのか、どう答えるのか、少しも聞き漏らさないと言いたげに、じりと息を詰めている。
源泉は唐突に、背中へ痛いほどの視線が当たっていると気づいた。しかしあまりの張りつめた空気に、振り返って確認することができない。
そこへ来てようやく、自分が何かまずいことを言ったのだと理解した。
どうしてこんな気分になるのか、しかとはわからない。けれどもぎくりとすくみ上がるような気配が、背中の向こうからひときわ強く放たれている。それだけは確かだった。
「……まあ、いろいろあってな。お、やっとできたぞ。こいつはあんまり煮立てたらいけないんだ。少し砂糖を入れておくからな。疲れが取れる」
ごまかすようにそう言い、源泉はことさらていねいに手元のミルクをかき混ぜた。それからマグカップへとミルクを移すと、気力を振り絞って振り返り、そうとは気取られないように注意を払いつつカップをテーブルに置いた。
「ほら、いいから飲め。あったまるぞ」
勧めると、ややあってからケイスケが何も言わずにマグカップに手を伸ばし、引き寄せた。源泉はほっとしたことを気取られないように笑った。
「飲んだらさくっと寝ちまえ。おまえさんも疲れてるだろう。折りいった話は明日にしようや。ここにゃあいにくソファしかないが、床よりはましだろ。向こうから毛布を取ってくるからな。ちょっと待ってろ」
すぐにでも駆け出したい気分を堪え、源泉は隣の部屋へと滑り込んだ。扉を閉め、大きく息をつくとどっと汗が噴き出す。
(まったく……今日はどうかしてる)
何が自分をこんなにも逼迫した気分にさせるのか、自分でもよくわからない。少しばかりケイスケが気分を悪くしたからと言って、すくみ上がる必要はないはずだ。すまんすまんと笑って、或いは冗談が過ぎた、悪かったと真剣に謝ればすむ話なのに。
クロゼットから旅行用のザックを取り出すと、グルグルと巻きつけてある毛布の紐を解いた。部屋を出る口実だったとはいえ、手ぶらで戻るわけにもいかない。
客人に寝床も毛布も提供し、どうやら今晩は隣室で徹夜をすることになりそうだった。幸い今日仕入れた資料もあるし、やることはいくらでもある。一晩くらい起きていたところでどうということもない。
異音を聞いたのはそのときだった。はたと源泉は顔を上げた。物音に続けて、隣の部屋からうめき声が聞こえた。
「ケイスケ!?」
驚いて扉を開けると、マグカップが床を転がっていた。ソファの上ではケイスケが喉元を押さえ、しゃくりあげるように悶絶している。駆けよったときには、すでに顔色を失っていた。
「どうした、おい! 大丈夫か」
言葉にならない喘ぎは、明らかに苦痛の色を帯びていた。頭を下にし、ソファから斜めにずり落ちたケイスケを、源泉は慌てて抱き留める。だが横たえて気道を確保しようにも、体が痙攣していてままならない。
「ケイスケ、聞こえるか。おい、しっかりしろ。落ち着け」
むせかえり、喉の奥がゴボゴボと音を立てていた。ホットミルクを飲み下し損ねたのだろうか。それにしては反応が激しすぎる──そう、まるで溺れたみたいだ。
ふと、思考の底辺を何かにひっかかれたように感じた。だが、そうしたささやかな気配はケイスケの上げる苦悶の声に攫われてゆく。
そうして宥めるように背中をさすってやるうち、痙攣も次第に治まってくると、どっと安堵の波が押し寄せ──だから、源泉の頭からはそれまでの経緯などすっかり抜け落ちていた。
「源泉、さん……」
ケイスケが名前を呼んだ。やれやれ、と源泉は大きく息を吐き出した。
「頼むから脅かすなよ、ケイスケ。ほら、ソファに横になれ。起きあがれるか? 一体ぜんたい、どうしたんだ」
「源泉さん、あの」
「ん? なんだ。何か欲しいものでもあるか」
「──あの薬をアキラに渡したのって、源泉さんなんだ?」
源泉は思わずぎょっとした。
間近にあるケイスケの顔が、あまりに暗かった。
身を竦ませてしまってから、しまったと思ったが遅かった。
獣は、自分に怯えた人間を的確にかぎ分ける。
逃げ出そうと思ってはいけなかった──。
「うわっ!」
不意をつかれ、源泉は抵抗する余裕もなく床へと叩きつけられていた。