クロニック・ラブ07

 その日何度目になるかわからない罵声が轟いて、工員たちは皆、一様に首をすくめた。
「馬鹿野郎! 何やってやがる、ケイスケ!!」
 怒鳴られた当の本人はぼんやりした顔のまま手元を見つめ、そのあと思い出したかのようにふらりと頭を上げて「すいません」とだけ言った。
「てめえは人を殺す気か! いい加減な気分でエンジンを触るんじゃねえ! 不愉快だ!」
「工場長……」
「働く気がないならやめちまえ! 今すぐだ、出て行きやがれ!!」
 ガツン、と力任せに壁を蹴り飛ばして、工場長は大股でハンガーから出て行く。誰もがどう声をかけたものかと迷っているうちに、工場長は片手によれたショルダーバックと着替えをわしづかみにして戻ってきて、ケイスケの襟首を掴んで外まで引きずり、ハンガーの入り口から外へと突き飛ばした。
 ケイスケが尻餅をついたところへ、バックと洋服がぶちまけられ、頭の上から降りそそぐ。
 すっかり荷を放り出すと、工場長は乾いた手をはたいてのしのしとハンガーへ戻っていった。
「おい、ケイスケ……」
 そのまましゃがみこんだままでいると、ほどなく若い工員ふたりがこそこそと近寄ってきた。
「おまえ、今日どうしたんだよ。調子でも悪いのか?」
「どうかしてるって。あれじゃ工場長が怒ってもしょうがねえよ」
 気遣わしげにあれこれ声をかけてくる同僚へ、ケイスケはああ、うん、とぼんやりした返事を返した。工員たちはお互いに目配せして、ため息をついた。
「ひとまずもう帰んな。工場長、あの噴火具合じゃ今日は何言っても無理だろ」
「明日、朝一番でとっとと謝っちまえよ。そしたらきっと大丈夫だって。まさか、ホントに辞めるつもりじゃねぇんだろ? どうにもなんなかったら、俺らも一緒に頭下げてやっから。な?」
「うん……ごめん」
「何がごめんだよ。ったく、ボケっとしやがって! しゃきっとしろっつの、しゃきっと」
 背中を思い切りはたかれた。

「ほら、立ちな」
 促されて立ち上がる間に、もうひとりが散らばった荷物を拾い上げてくれる。
「荷物、財布とタオルと……これで全部か? 服は? 上着とズボンでいいのか? 足りなきゃロッカーまで行って取ってきてやる」
「……大丈夫」
「うわっ! ……っと、おい、ケイスケっ!」
 荷物を手渡され、受け取ろうとしたケイスケの手は、しかしすれ違うように空を掴んでしまっていた。
「バカ、ちゃんと持て、ホラ!」
「ダメだこりゃ。おまえ、ホント大丈夫か?」
「ゴメン、ちょっと……目」
「目?」
「いや、……なんでもない」
「やっぱ体の調子悪いんじゃねえの? おまえ。無理してねえで、調子悪りィんだったら医者行ってきな。金ないのか?」
「そういやアキラも今日、具合悪いんじゃなかったか?」
 うつむき加減だったケイスケが、くらりと顔を上げた。
「おまえら、狭い部屋ン中で始終顔つきあわせてんだから、一緒に風邪くらい引くだろうよ。何もおまえが無理してがんばるこたあねえだろ」
「……まあね」
 ケイスケが、ふいに口元だけで笑った。
 二人は言葉を失った。もう一緒に働き始めて数年経つが、平素から穏やかなこの男がこんな笑い方をするのを、二人は見たことがなかった。どこか薄ら寒いものを感じて、彼らはひときわ明るい調子で続けた。
「と、とにかく、今日は一緒に休め。明日ンなって、まだ調子悪いようだったら、大家の電話借りて工場まで電話してこいよ」
「そうだ。7時きっかりにかけてきたら、俺らがとってやるよ。そしたら工場長にガチャ切りされねえですむだろ。──あれ? なんだこれ、おまえの?」
 彼がしゃがみこみ、つまみ上げたのは小さな紙切れだった。白い紙の大きさめいっぱいに漢字が二文字だけ、黒インクでしっかりと印刷されている。
「げんせん? なんだこりゃ。温泉か銭湯か何かか?」
 裏返すと、汚い手書きの文字で住所と電話番号が走り書きしてある。
「源泉、……さん?」
 ぽつりとケイスケが呟いた。
「モトミ……? どっかで聞いたような……ああ! あれかぁ、昨日工場長ンとこに来てた客だ! へえ、これでモトミって読むンかぁ」
「昨日の客? あの黒いおっさんか? けど、なんで名前なんか知ってんだ? おまえ」
「俺が工場長の部屋まで連れてったんだよ。モトミってンだけど、おやっさんいるか? って、ホラ、そこんとこで呼び止められてさ。なんだ、やっぱりおまえら知り合いだったんか」
 ケイスケが首を傾げた。
「そのあと、用があるってんでアキラと出てったからさ。工場長は俺の野暮用だっつってたけど、お互い知った顔ってカンジだったし、てっきりおまえら二人の古馴染みか身元保証人かなんかじゃねえかって、ウワサしてたのよ」
「はあ、そんでおまえらコソコソしてたんか。あんとき」
「まあな」
 工場に勤める者の中には、身元のはっきりしない連中も何人かいる。大抵は工場長が世話を焼いて居着いた者ばかりだから、特にとやかく言う者もいない。だが、朝から晩まで顔をつきあわせて一緒に働く仲間のことだ。気にならないと言えば嘘になる。
「なんだ、おまえアキラから聞いてねえの?」
 ケイスケがゆるゆる首を振った。
「……まあいいや。ホラ、なくすなよ」
 肩をすくめて、紙切れを手に握らせてくれる。
「おまえら、ひょっとしてケンカでもしてんのか?」
「別に……」
 ケイスケの至極そっけない返答に、二人は困惑する。
「昨日はアキラが何だかちょっとボーっとしてたし、今日はおまえだろ? みんな心配してんだぞ」
「お節介かもしんねーけどさ……マジで二人そろってクビにでもなったら、しゃれになんねーよ」
「……うん」
 ややあってからぽつりと呟き、ケイスケは荷物を手にふらりと歩き出した。
 二人は思わず、再度見交わしてため息をついた。
「顔に出るやつだなぁ……一体どんなケンカしたんだ、あいつら」
「アキラ、まさかアパートでくたばったりしてねえだろうな」
「そりゃねえだろ、大体、怒るときはいっつもアキラの方が先だ」
「にしても、ありゃ相当だぞ。俺らの言うこと、聞こえてんのかね?」
「どうだかなあ……」

:::

 ケイスケは、ただ前へ前へと足を動かしていた。
 平衡感覚がおかしくて、人の声が遠くて、おまけに目がちかちかする。
(ああ、うるさい──)
 はっきりとは聞こえないのに、いろんな音が耳元で聞こえては、弾ける。それが頭の隅まで届くと甲高い耳障りな音になる。きりきりと堅いところに爪を立てられているみたいで、少し苛つく。
 自分でも、なんだかおかしいなと思う。
 思いはするのだけれど、何がおかしいのかはよくわからないから、少し困ってしまう。
 今までにもこんなことが何度かあった気がする。こういうときは、あまり外にいたくない。部屋に閉じこもりたい。カーテンを引いて、頭から布団をかぶってしまうのがいい。
 ──外は、明るいから。
 目がちかちかする。
 手に握らされた紙切れも白くて、目に痛い。
(なんだっけ、これ)
 目を細めてみると、大きな黒い文字がふたつ載っかっている。
 源泉。
(「──で、……は会えたの?」)
 思い出したのは、他人みたいな自分の声だった。つい最近のことだ。だが、確かに自分でそう言った気はするのに、中身が思い出せない。なんの話をしたんだったか。
 どうして思い出せないんだろう。
 とたんに苛々した。胃の底がざらつき、焼けつくような苦い熱が胸まで込み上げてきて、喉元へわだかまる。憤りを足裏に込めて、ケイスケは路面を踏みしだいた。
(「……は俺を心配して──そんなの、なんで俺に黙ってなんのためにだからどうして俺に言わないでコソコソして──なあ、どうなんだよ、──ア)
 ガツン! と大きな音がした。
 吃驚して目を見開くと、自分の踵がめり込んでいた。
 道ばたに据え付けられた、ダストボックスに。
「…………あれ?」
 たったいま目が覚めたみたいにいきなり意識がはっきりして、ケイスケは凹んだ金属の箱の前でしばらく呆然と立ちつくした。
「俺……なにやってんだろ」
 中から押せば直るかな、と声に出して呟いてから、ケイスケはダストボックスの蓋を開けた。
「はは……、俺、ホントに……なにやってるんだ。しょうがないな。こんな」
 誰がいるわけでもないのに、言い訳がしたくてたまらない。それに、何か喋っている自分を意識すると、少し落ち着く気がした。
 ダストボックスの歪みは全然元に戻らない。そもそもなぜ蹴飛ばしたのか、自分でもよくわからなかった。
 だが一瞬、気持ちがすっきりしたように思う。何か胸にせき止められていたものが、一息に解放されたような軽さ。しかしそう思えたのは文字通りほんの一瞬で、時間が堆積していくうちにさっきよりもかえって体が重くなった。
 いっそ気の済むまでこのダストボックスを蹴り続けたら、気持ちいい時間は持続するのだろうか──くだらないことを考えているうちに、頭の隅が痺れてぐらぐらしてくる。どうも苦しいと思ったら息を止めていた。慌てて息を吸い込むと、むっとむせかえるような、腐ったものの匂いが鼻をついた。
 一つのことをすると、他をどんどん忘れてしまう。もう、ほんの少し前に何を考えていたのか、何をしていたのか、全然思い出せない。
 ──どうしてダストボックスの蓋を開けて、淵を掴んで、体を斜めにして、中をのぞき込んだりしているのだろう。自分は。
(ひょっとして俺、……また、おかしい……?)
 じっとりと、背中に嫌な汗が浮いた。確かに、今日は仕事場でたくさん怒鳴られたし、いろんな人から大丈夫かと声をかけられた。そのときは全く意味がわからなかったけれど、端から見ていてわかるほど自分の行動がおかしいのかもしれない。
(どうしよう……俺、今ひとりなのに)
 ひとり、という言葉に突き当たると、また胃のあたりが焼き切れそうにじりっとした。
 ひとりなのは、怖い。自分の思考が滑っていっても止めようがない。
 こういうときは何も考えない方がいい。
(アキラ……)
 なのに今、一番思い出したくない言葉がぽつりと頭に浮かぶ。
 思い出したくない。
 思い出すと、普通でいられなくなる。
 ガン! ともう一度、堅い音がした。
 自分で自分の額を、ダストボックスに打ちつけていた。
(アキラ……)
 いつもならアキラが側にいてくれて、アキラがこちらを見て、アキラが大丈夫だと言ってくれて、アキラがほんの少し手を繋いでいてくれて、アキラのにおいを嗅いでいられれば普通にしていられるはずなのに、今日は違う。
 大体、そんなことをしてくれるわけがない。酷いことを、したのに。
 もう二度と、側にはいてくれないかもしれない。
(どうしよう)
 自分の心臓の音がいきなり近くなる。
(俺、……どうしよう)
 その場にしゃがみこんで、泣き出したい気がした。
(違う、……泣いてたのはアキラの方だ)
 眉根を寄せ、堪えきれないといったふうに泣いた。あの顔。きれいだった。思い出すだけで目眩がする。鼻先でやたらといいにおいがしていた。力ずくで抱きすくめて、身動きが取れないようにして、思い切り吸い込んでおけばよかった。ああそう、あのままいきなり背中をひっくり返して突っ込んだら、もっといい声で泣いてくれたかもしれないのに──。
 突然、間近に何か飛び出してきたのはそのときだった。
 どん、と脇腹に衝撃があった。ケイスケの左手、路地を曲がったところから人が飛び出してきて、ケイスケは思わずよろめいた。
 見たこともない男だった。なのに、嗅いだことのある懐かしいにおいがした。
 男は苦しげに荒い息を吐いていて、足下もおぼつかない様子だった。
 なんだよ、鬱陶しいな──そう思った。

:::

 アキラが目を覚ますと、日はすでに高かった。
 体がだるくて、関節がひりひりする。少し熱っぽい。酷く億劫で到底起きあがる気にはなれなかったから、そのままもう一度布団にくるまって、次に目が覚めたときはもう日が傾いていた。周囲は暗くて、風の音だけが壁を隔てた遠くで響いている。
 半分夢うつつの状態で、何もかもが現実感を欠いていた。だが意識が冴えてくるとどうにも胸が塞いで、落ち着かなくなってくる。
(いい加減……一度起きよう)
 無理に体を起こすと、頭の芯を捻ったみたいにくらりとした。
 うつむき加減で目を落とすと、敷き布団の周りには足下まで蹴り落とされたシーツと、ねじくれた上掛けと、ぐしゃぐしゃに丸まったフェイスタオルが散乱している。
 部屋の空気がよどんでいた。時間が止まったまま堆積していて、ひとり取り残されているような感覚に息が詰まる。
 アキラはふらつきながらも立ち上がって窓をあけ、床に落ちているフェイスタオルを拾うと、台所で軽くゆすいだ。
(着替える前にもう一度よく体を拭いて、……洗濯もしないと……シャツは手洗いするとして、シーツ、……)
 情事の痕跡を握りしめていると、頭が重くなって、肩の位置より上まで持ち上げられなくなる。
 勤めて初めて、仕事をさぼってしまった。
(あいつは……行ったんだよな)
 いつも使っているショルダーバックがなくなっていた。ということは、あれから一度は部屋に入ってきたのだろうけれど、全然覚えがなかった。
 もうそろそろ帰宅してもいい時刻のはずだが、物音もしなければ階段を上る靴音も聞こえてこない。立ち上がって怖々と玄関の扉を開けてみたが、やはり姿は見えなかった。
 ひょっとして、今日は帰ってこないつもりだろうか。
(……俺が、出て行けって言ったんだし)
 自家中毒めいた甘い熱で勝手に酩酊した挙げ句、もう嫌だ、触るな、出て行けと喚いた。今思い返してもあまりに惨めで、忘れることの方が困難だった。
 あんな、みっともない八つ当たりを。
(ケイスケ……)
 昨日ケイスケが出て行った後も、何度も自分で自分を慰めて、放って、最後は床に放り出されたタオルで必死に自分をぬぐって、起きあがる気力もなくそのまま昏倒した。
 浅ましく息を乱し、刺激をばかりを欲しがる自分の姿は、果たしてどんなふうに映っただろう。
(……呆れられたに決まってる)
 しかもあんなことを言ってしまって、ケイスケがすんなり帰って来るとは思えない。
 胸に重しをされたように息苦しくなり、アキラは堪えきれずに胸を押さえた。ケイスケが身を寄せるところなど工場の寮くらいしか思いつかないが、とにかく今夜一晩でも離れていられるのは正直ありがたい気がした。
 一つ屋根の下では、お互いにどこにも逃げ場がない。狭さに不自由を覚えたことなどないが、顔を合わせたくないときに間を隔てる余分な壁がないのは、思っている以上にしんどい。
 だがそうして自分を宥め、重い荷を下ろした気分で玄関を閉めて振り返ると、狭い家の中はがらんとして見えた。
 電灯の明かりがやけに白々しい。
 ケイスケが欠落し、家の中にはケイスケのぶんだけの空洞ができて、光に晒されているのだと気づいた。
 そして空洞の周りには、まるで欠落を補おうとするかのように、形を持たないケイスケの影ばかりが隙間なく重ねられている。
 そろそろ夕飯の時間だと思って時計を見れば、二人で給料袋を握りしめて時計を買いに行ったことを思い出す。布団は寮から貰い受け、別に俺は一組でもいい、バカ、二組もらってこなければおかしいと本気で口論した。コタツは引越しするという家から譲ってもらい、二人して一時間かけて家まで担いで帰ってきた。凹んだバケツはゴミ捨て場から失敬してきたものだし、玄関のすのこは廃材を切って自分たちで作った。
 二人で過ごした時間ばかりが、ぎっしり詰まっている。
 ぽつんと立ちすくんでいると、押しつぶされて窒息しそうになる。
 逃げ場がないのは、ケイスケがいてもいなくても同じことだった。
(ケイスケ……)
 伸ばした手を、振り払われた。
 当たり前だ。誰があんな倒錯した行為に手を貸すだろう。しかも自分は薬の効果に振り回されていたのだ。まともに相手をするほうがおかしい。
 頭ではそうわかっている。けれど、ショックを隠しきれない自分がいた。そして、そのあと差し延べられたケイスケの腕には、明らかに自分への憐憫しかなかった。あまりに惨めで、とても縋ることなんてできなかった。
 振り払われた、手。最初にあったのは紛れもなく、はっきりとした拒絶の意思だった。生理的な忌避だったかもしれない。
 手を伸ばそうとして届かなかった、という感覚が痛烈に残っていた。すぐそこにいるはずなのに、途方もなく開いたケイスケとの距離。たとえ意に沿わなくても無理に笑ってみせることさえあるケイスケが、あんなふうに自分をはねのけるなんて初めてのことだったから。
(……初めて?)
 ふと、奇妙な既視感を感じた。
 以前にもこんなことがなかっただろうか。
 そのときは、うずくまっているケイスケに、自分から手を伸ばした気がする。
 確か、そう──ずいぶんと前に。
 暗いところで。
 意識がそこへ突き当たったとき、背筋から体温が滑り落ちた。
 昨日、源泉はなんと言っていたか。
 向神経系のウイルス、一度病気が治まったように見えても──再発。ストレスの重圧、病気で免疫が弱まったり、何かのきっかけで。特有の症状、光を嫌う、暗所を好む、水が──
(いや、……考えすぎだ。そんな)
 しかし、アキラが知っていて、源泉は知らないことがひとつだけある。わざと黙っていたことが。
 今までの五年間、何事もなく平穏だったわけではない。
 トシマから脱出した後──ケイスケは、ラインの症状を再発させたことがある。

:::

 いてもたってもいられず、アキラは手早く着替えるとブルゾンをひっかけて外へ飛び出した。
 これ以上、ひとりで家にはいられなかった。
(気のせいでいい。ちゃんとケイスケに会って、話をして、謝って、それで)
 こんな気分を、明日や明後日に持ち越すなんてできそうにない。自分のしたことが恥ずかしくても、失望されることが怖くても、とにかく顔をあわせたい。早く安心したかった。
 考えすぎだと言ってほしい。叶うことなら、ケイスケに「アキラは心配性だな」と慌てた自分を笑ってほしかった。
 必死に走って工場までたどり着くと、なぜか人だかりができていた。
 ずきんと、いやな音を立てて心臓が鳴った。
(何が……何かあったのか)
 それ以上、棒を呑んだように動けなくなる。あと一歩でもそちらへ向かったら嫌なものを見てしまう気がして、知らなければなかったことになる、と馬鹿げた考えが頭をよぎった。
「アキラ! どうしたんだよ」
 どれくらい立ちすくんでいたのだろう。アキラに気づいた同僚の工員が数人、走りよってきた。
「おまえ、具合が悪いんじゃなかったのか?」
「……ああ、まあ」
 自分のことを聞かれて、アキラは内心とまどう。そんなことはどうでもよかった。
「その、ケイスケは? まだ仕事……終わらないのか」
 走って来たせいか、それとも急いた気分のせいか、まだ整わない息で切れ切れにそう言うと、同僚が一様に顔を見合わせた。
「まだ帰ってないのか?」
「え……」
「もうとっくに帰ったよ。確か……ありゃあ四時過ぎだったかな」
「四時過ぎ……なんでそんなに早く」
 愕然とした自分の声が遠かった。
「なんか様子が変だったんだよ、今日。工場長に帰れって言われてさ」
 それならば、もう三時間以上経っている。どこをどうさまよっても、帰宅していなかったらおかしい。
「やっぱり。おまえら、ケンカでもしたんだろ」
 しょうがないな、と笑う工員の声がした。
「ま、今日一晩帰ってこないからってどってこたあねえよ。お子様じゃあるめえし」
「そうそう。見つけたらアキラの分まで俺らがぶん殴っておいてやっからさ」
 談笑する彼らの胸ぐらを掴んで、叫び出したい気分にかられた。
 そんなことじゃない。そんなふうに笑って話すことじゃない。あいつは今、どうしてここにいないんだ。どこにいるんだ。様子がおかしかったなら、どうして連絡してくれなかったんだ──。
 アキラが思わず口を開きかけたそのとき、近くでひときわ甲高くサイレンの音がした。
 警察か、軍の車両が鳴らすサイレンだ。
 ふと気づけば、周囲に人垣を作っているのは工場の人間だけではなかった。近所に住んでいる住民まで、つっかけ履きに上着を引っかけるような姿で集まってきている。遠巻きにして、ざわめいてはいるのにどこかひっそりしているふう。奇妙な緊張が立ちこめていた。
「……どうしたんだ? 工場で何か……」
「ああ、いや、それがさ……」
 言いかけたところで、やはり見知った工員がとこちらへ小走りにやってきた。
「おい! やっぱり死体だってよ」
(死体……?)
 ぎくりとして、アキラは息を呑んだ。
「うわ、マジだったのかよ、どこで!」
「裏だ裏、路地の向こう。ゴミ貯めンとこに頭突っこんで、引っかかってたってさ」
 そう言って、彼は再び人混みの中へ消えていく。その背をしゃくって「血まみれの死体があるって、近所で騒ぎになってたんだ」と説明された。
「見間違いじゃねえかって言ってたンだけど……お、おい、アキラ!」
 最後まで聞いていられなくて、アキラは走り出した。
 人波をかいくぐり、肩を何度もぶつけ、避けられなくなると無理矢理両腕でかき分けた。
 ──唐突に人垣が切れ、出会い頭に生臭い匂いがした。
「…………ッ!」
 足下に男がひとり、転がっていた。
 地面には黒い染みが点々としていて、近くに血まみれのナイフが放り出されている。男は目を剥き、首に掻きむしった跡があった。
「こら! なんだおまえは。入って来ちゃいかん!」
 警官が飛び出したアキラを見咎め、きつい調子で言った。あっちへ行け、と手を払って見せたが、しかしアキラはその場から一歩も動けなかった。
「おい、アキラ!」
 後方から声がした。追いかけてきた同僚たちだった。無理矢理に腕を取られ、そのまま引きずられるようにしてアキラは人の輪から遠ざかった。
「なにやってんだよ! バカ、ケイスケじゃねえってば」
「落ち着けって」
 いくつもの手に引かれ、宥めるように声をかけられたが、アキラはひとつも返事ができなかった。
「なんだ、おまえら。あの仏と知り合いか?」
 警官のひとりが不審そうに声をかけてくると、同僚たちはみんな慌てて首を振った。
「ち、違います、全然見たこともないです。今、ちょっと連絡の取れないやつがいて、そいつじゃないかってコイツ、マジに心配しちゃって……スンマセン!」
 うさんくさそうな顔をしたが、忙しいからだろう。それ以上は何も言わず、不機嫌そうに鼻を鳴らして警官は戻っていった。
 とたん、周りを取り囲む同僚たちから一斉に、ため息がこぼれた。
「落ちつけよ、アキラ」
「そうだよ。あいつはただ、アキラとケンカしてバツが悪くて帰ってこれねえだけなんだから」
「過保護なのはケイスケかと思ってたけど、アキラも案外心配性だなあ」
 返事ができなかった。
 まさか、という思いに絡め取られ、嫌な想像をし始めたら止まらなかった。
 だが、誰にも言えない。言えるわけがなかった。
(どうしよう、もしこれが──)
 ケイスケの仕業だったら。