おかしい、と気づいたのは、かなり後になってからだった。
震える手でアキラに襟首を掴まれ、いきなり口づけられたときは、不審に首を傾げるよりも驚きの方が先に立っていた。
「ん……っ、ぁ」
アキラから鼻にかかった甘い声が漏れ、なおも唇を押しつけられて、ケイスケは自分の下肢がどっと重くなるのを自覚した。
他の誰でもない自分を求めてくれている──キスなら今まで数え切れないくらいしたけれど、いつになくストレートなアキラの欲求に頭の隅がしびれた。理由を問いただすことよりも、目前の甘い熱を逃がさないよう、壊さないようにすることだけで頭がいっぱいになる。
「ん、──は……ッ」
アキラはときおり唇を離して、襟首を掴んだままの拳へ額をこすりつけた。肩で荒い息を何度もつき、治まりきらないうちにまた伸び上がっては口づける。苦しげな息を吐き出しながら、それでもアキラはキスをやめようとしない。
熱を分け合ううち、濡れてくぐもった喘ぎも混じり合い、どちらが発したものかだんだんわからなくなってくる。
止めどない熱の甘みに、くらりと平衡感覚が揺れた。たどたどしい仕草で押しつけられるくちびるに、ケイスケもまた、いつしかのめり込んでいた。キスをしたまま、首元を引きつけられた状態のままで、ケイスケはアキラの閉じた両足に自分の膝を割り込ませ、上から少しずつ体重を乗せてゆく。頃合いを見て顎を軽く下から押し上げてやり、薄く開いた唇から深く深く舌を差し入れて思うさま味わい、吸いあげた。
思いつく限りの唇と舌でできる愛撫を施して、溺れ込む。空気に溶けたアキラの香りが鼻先から後頭部に向けて突き抜け、甘い痺れと共に体の奥底をゆるゆると蕩かしてゆく。
「……は、……っ、く……っ」
ふと、アキラがひときわ苦しげな声を上げた。
(うわ、……しまった)
ついアキラの具合が悪いことを失念してしまっていた。ケイスケははやる気持ちをなだめながら、できるだけやんわりとアキラの指を絡め取り、そっと唇を離した。
かくり、とアキラが自分の胸に倒れ込んでくる。
握りしめたアキラの手は氷のように冷たく、傍目にわかるほど強く震えていた。
ケイスケは息を呑んだ。自分が調子に乗ったせいもあるだろうけれど、さすがにこれは体の具合が悪いとしか思えない。
しかも──よほど苦しいのだ。
意外とアキラは丈夫で、ケイスケの知りうる限り、大きな病気も怪我もしたことがない。だがそれ以上に、自分の体調を気遣われることを極端に嫌がる。微熱で気だるげにすることはときどきあったが、大抵は「平熱が低いから」と一蹴されるし、仕事も絶対に休まない。しかもあまりに細微な変化しか見せないから、どれくらい辛いのかわからない。ひょっとしたら、気づけないことがあったかもしれないとさえ思う。
「ケイ、スケ……っ」
かすれてざらつく声で名前を呼び、力なく面伏せていたアキラがふらりと視線を持ち上げて、ケイスケを見た。
目元がうっすらと濡れ、目縁も赤く染まっていた。
いつもならこんなときは、ぐっと歯を食いしばって少しでも声を漏らさないように堪え、名前なんて絶対に呼んではくれない。言葉を促すようにひたと見つめたところで、それこそあっという間に顔を背けてしまうのに。
ひょっとしたら、まだ昨日のことを気にしているのかもしれない。だから、もう一度抱き合ってなんとかしようと思っているのかも。
罪悪感からくる仕草なら少し辛い。体の不調を押してのことならなおさらだ。
けれど、どうしたんだ、と聞けばアキラが我に返ってしまいそうで
「アキラ、……」
ケイスケはそこから先の言葉を詰まらせた。
体の具合を心配する気持ちはもちろん本心だけれど、必死に求めてくる今のアキラも手放すのが惜しい。そんなさもしい思いが、ケイスケに次の行動をためらわせた。
何も言えずに、ただアキラの手を握りしめる。
すると、ふいにアキラがケイスケの手のひらにキスをし──唇ですくい上げるようにして、指を口に含ませた。
「ッ、……アキラ……!?」
呼ぶ声には答えず、アキラは湿った音を立ててケイスケの少し節くれ立った指を舐め、ときおり噛みついた。
舌の滑らかな感触と、甘い痛みが交互にケイスケの指先を翻弄する。指と指の間を舌が這い、思わず声を上げそうになった。くすぐったさと気持ちよさの真ん中辺りをさまよう刺激に、手を引っ込められない。引っ込めるどころか思わず指を二本に増やして、ケイスケは自分の指をアキラの口腔へと滑り込ませた。
中からなで上げ、歯列をなぞると、アキラは切れ切れに喘ぎながらも必死で舌を絡めてくる。
「ん……、っん、……う」
頭の中が湿った音と、アキラの口から絶え間なくこぼれ落ちる声であふれかえった。指を必死で頬ばり、根本までくわえこもうとして、飲み下しきれなかった唾液がアキラの顎を伝ってゆく。かすかに眉をしかめる表情がひどく淫猥だった。
思わず別の行為を想像して、ケイスケはかっと頬が熱くなる。
(まさか……そんなの)
さすがに、そこまでしてくれとねだったことはなかった。こっぴどく怒られるのは目に見えていたし、アキラが嫌がることは極力したくない。
(駄目だ俺、落ち着け……)
ケイスケは自分の浅ましい思考を頭から追いやろうと、小さくかぶりを振った。
感じ入るアキラの顔を見て、つい勝手に引きずられるのは悪い癖だ。昨日と今日だって痛いほど気まずい思いをして反省をしたばかりだというのに、熱に翻弄されやすい自分の薄弱さを呪いたくなってくる。
「ケイス、ケ……、……っ」
腕の中でアキラが身じろぎした。途端、
「あ──、……ッ!!」
大きな悲鳴を上げ、アキラの下腹が緊張したようにびくりとそげた。
弾みで歯が思いきりケイスケの指に当たる。
だが、そんなことよりも太腿へ当たったものに視線を移してケイスケは仰天した。
(どうして……こんな)
アキラのものがすでに堅くなってはりつめ、ズボンの布地とジッパーをきつく押し上げ、突っ張らせていた。
(だって俺……今日はまだ、一度も)
触ってもいないのに、痛いほど勃ち上がっている。
元来さほど性的なことに興味がないアキラは、わりと淡泊なたちだ。鈍いわけではない。怖がらせないように優しく触れて、お互いの声に感じ合い、徐々に熱を交わし合う──できるだけ丁寧に、少しずつ力を抜けるように気をつければちゃんと甘い声を聞かせてくれるし、こちらが驚くくらい濡れて、乱れてくれたりする。反対に、気が急くばかりに無理なやり方をすれば、気持ちを閉ざしてしまってどうにもならないこともある。
これまで、アキラがこんな短い時間で上りつめたのを見たことがない。
風邪をひいていることと何か関係があるだろうか。
(だけど、具合が悪いっていうか……なんか。……)
どうも釈然としなかった。大体咳き込むわけでも、くしゃみをするわけでも、鼻をかむわけでもない。体は少し熱い気がするけれど、こんなにたくさん汗をかくなんて一体どういう病気なのだろう。
……本当に風邪なんだろうか。
昨日のこともあって、どうしたら自然にふるまえるかとそればかり考えていたからあまり気が回らなかったけれど、今にして思えば、帰ってきたときから少し様子がおかしかった気がする。アキラも気まずいのだろうと思って、少し機嫌が悪そうだったけれど気にしていなかったし、てっきり風邪を引いているものと……だって、薬を。
(……薬?)
風邪どころではなく、難病だったらどうしようと考えてから、ケイスケはふと小さな違和感を覚えた。
(確かに帰ってきたときちょっと様子はおかしかったけど、別にこんなじゃなかった……よな)
そういえば薬を飲んで布団に入って、こっちはご飯を食べて一息ついて──アキラの呼気が荒いことに気がついたのはそれからだ。
(それって……薬が効いたから?)
ケイスケはこわごわと、布団にあおのいて倒れるアキラを見つめた。顔を、触れるギリギリまで近づけてみる。あとほんのわずか身をかがめたら、全てが手に入るのじゃないかと錯覚を起こす距離で──なぜだか、踏みとどまらなければいけない気がしていた。
「なあ、どこが具合悪いんだ? アキラ」
ぼうっとした視線で見上げるアキラが二、三度まばたいた。相変わらず息が整わない。口元が何度もわなないた。だが、何か言いかけてはやめる──そんなふうにも見えた。
「さっき飲んでたの、なに? その……薬、体に合わなかったりしたんじゃないかって、ちょっと心配で、だから……」
すると──目を見開いてから、掠れた声でひとつ吐き出すように短く笑って、アキラは敷布に顔を押しつけた。
笑いながら堅く瞼を閉じたから、ずっと目縁で潤んでいた涙が閉め出され、ほろりと粒になって滑り落ちた。
「アキ……」
絶句した。アキラが泣くなんて、その事実だけで頭が真っ白になる。
それ以上の声が出ないどころか、動くこともできなかった。
「はや、く……好きに、しろよ……」
麻痺した思考へ、アキラの吐き捨てるようなかすれ声が突き抜けて響いた。
(なんだよ、それ……)
背中が滑るように冷たくなった。
「ッ……アキラ! 聞いたこと答えろよ、なあ、アレ、なんだよ……!」
声が微かに震え、顔がこわばっているのが自分でもわかった。けれども、アキラは今度こそ本当に焦点の合わない目をして、まるきりこちらを見ようとしなかった。
蛍光灯の下、煌々と照らされて敷布に散った髪の毛、投げ出された白い腕、波立つ薄めの胸──その扇情的な光景が突然、黒い色の強烈な目眩に取って変わられた瞬間だった。
:::
アキラはずっと、ケイスケにとって肉の体を持たない相手だった。
小さい頃からずっと憧れていた。アキラは誰よりもかっこよくて、強かった。自分と同じ、周りの人間と同じ生き物だなんて嘘なんじゃないかと何度も思ったし、あの瞳にはきっと自分とは違うものが映っているに違いないと半ば本気で信じていた。
そんなアキラの隣に立つ、対等で、颯爽とかっこいい自分を何度も想像してみた。そうすると自分がなんでもできるような、力がわくような気がしたものだった。
アキラが好きだと自覚してからもそうだ。現実にはおくびにも出せなかったけれど、夢の中でならなんでもできた。アキラに何度も何度も触れて、強引に抱きしめて、思うさま舐って、ねだる甘い声を上げさせることも簡単だった。
──でも、違ったのだ。そんなことをしても、悲しくなるばかりでちっとも幸せにはなれなかった。
ずっと長いこと、自分の手で本当のアキラに触れたかった。
夢でねだったり、甘えたりする、都合のいいアキラじゃない。無愛想で口数は少ないけれど本当は優しい、今、自分の隣にいるアキラでなければ駄目だ。
颯爽とした誰かではなく、たとえ情けなくても自分自身でなくては嫌だった。
欲しかった。
だから、アキラが拒まず受け入れてくれたと知ったときは、アキラのまま、そして自分もありのままで、もうなんの心配もいらないのだと信じられたし、今ここで死んだらきっと世界中で一番幸せだと心底から思った。
だが、そうして具現化した肉体は、当たり前のように熱と重みと、痛みを連れてきた。
夢でない現実を確かめるようにむさぼれば、自分の飢えばかりがアキラの上へくっきりと浮かび上がる。うまくいかない自分に焦れ、とまどい……怯え、アキラが苦しんでいることも知っていて、けれども結局はどこへも行かないように、夢でないことを証明するために、強くかき抱くことしかできなかった。
自分がアキラをどれほど好きか、自分の愛撫に声を上げるアキラがどんなに愛おしいかわかってほしくて、伝えたくて、いつもそれだけで頭の中がいっぱいになってしまう。
けれど、それでもアキラはいつだって、行きすぎて止まれない自分を受け止めようとしてくれていた。
だから、いつかなんとかなる。勝手にそう、信じていた。
(俺は別に最後までいけなくたってよかった。アキラが隣にいてくれるだけでよかった……)
そう思う気持ちはたぶん嘘ではないけれど、きれい事だ。
そしてきっと、触れたお互いの薄い皮膚越しに、隠し事なんてひとつもできない。
追いつめたのは紛れもなく自分だ。
(思い詰めて、……薬に頼るほど……?)
嫌悪感に、全身から嫌な汗がどっと噴き出した。
薬に負けたときの気持ちなら、誰よりもよく知っている。
ましてや、アキラが軽い気持ちで薬なんて使うわけがない。
自分が馬鹿で浅ましくて、アキラが優しくてひどくて、──どうしようもない。
涙が出そうだった。
「ぅ……ん」
アキラが呻いて、唐突に身じろぎした。
「アキラ……、──!?」
ケイスケはぎょっとして目を見開いた。
アキラが震える手でズボンのジッパーを下ろし、下着を押しのけて、自らの屹立したものを引っ張り出した。やがてためらいがちに、すでに堅くなったそこを自分の手のひらでゆっくりと擦り上げ始める。
緩慢な手つきで筋をなで上げ、くびれを引っかけ、先端をこねて押しつぶした。
「……ん、──あ、あ……ぁっ!」
吐息と一緒に吐き出される声が、うわずってひときわ高くなる。少しずつためらいを吹き飛ばし、行為に没頭してゆくのが手に取るようにわかった。
ふいに、アキラのとろけるような視線が自分に突き当たった。
あまりの倒錯した光景に、浅ましく喉が鳴った。
早く、早く、欲しい──早く?
もっと、もっと、もっと、欲しい──もっと?
すぐそこにある、世界中で一番愛おしいひとの、からだ。触れて、舐めて、突き入れたら、そうしたらきっと全てを投げ出して、すがって、泣いて、ねだってくれる。深い快感に身を浸して、自分だけを見て、自分だけが与える刺激に溺れてくれる。
(──違う……駄目だ)
そんなこと、できるわけがない。
こんなの、夢の中と変わらない。
でも、夢じゃないから、アキラがあとで辛いに決まっている。
(だって、そんなの……俺が一番よく知ってるじゃないか)
「アキラ……!」
呼ばわると、ぼうっとした熱っぽい視線が持ち上がった。
そしてアキラの空いた左腕が、伸ばしかけたケイスケの手を取って──自分の熱へ導き、あてがおうとした。
勃ち上がって、今にものぼりつめてしまいそうな、アキラ自身へ──
「……ッ!」
考える余裕などなかった。
ケイスケは反射的に、その手をぴしゃりと振り払ってしまっていた。
「あ……、……ッ」
何をしたか遅れて気づき、愕然とした。
だけどもう、取り返しはつかなかった。
何をされたのかわからないふうで、アキラはしばらくの間、ぼんやりとケイスケを見つめ──やがて、口元がゆるゆると笑う形に歪んだ。
「あ、アキラ……その、だけど俺……そうじゃなくて」
何か言わなくてはという気持ちだけが空回りした。
うまくまとまらなかった。
「も……いやだ……」
笑っているのか、しゃくり上げているのかわからない調子でアキラが言った。
そして、顔を思いきり背けて肩を震わせながら、再び昂った自分の幹へと手を添えた。先走りがまんべんなく絡まった手のひらが、鈍くぬめって屹立したものの上をゆるゆると滑る。
「……っ、く……」
「アキラ……っ!」
「いや……も……いやだ。こんな……、行けよ……出てけ……ッ」
左右に首を振って、喘鳴の下で切れ切れにそう言った。
「いやだ……!」
手を伸ばしかけたが、すぐさま拒絶の声で制される。
全身で拒まれているのだと、分かった。
「……ッ!」
ケイスケは逃げるように部屋から飛び出した。
:::
玄関へ蓋をするように、ケイスケはアパートの廊下でしゃがみこんだ。
ドアへ背を押しつけ、膝頭に顔を埋めるようにして頭を抱えこむ。
(「いやだ……!」)
聞いていられなかった。
なぜこんなにも苦しいのかとあれこれ考え、そしてほどなく気がついた。
初めてだったのだ──嫌だ、と言われたのは。
よせ、やめろ、と押しのけられることはあっても、嫌だと言われたことは一度もなかった。
「ごめん、アキラ……」
いつだって受け止めてくれた。
自分自身ですらどうにもならない熱を引き受けてくれた。
熱を残らずすくい上げようとして、受け止めきれないことに焦って──けれど、絶対にはねのけたりしなかった。
「ホントにごめん……」
ずっと隣にいてくれた。
たくさんの酷いことをしたのに、傷つけたのに、それでも、どこへも行かないと言ってくれた。
ケイスケはケイスケだろうと言ってくれた。
今ならわかる。不器用な自分が行き詰まってしゃがみこむたびに、アキラはいつだって同じところにしゃがんで待ってくれていた。駆け上がる速度についてこようとしてくれた。
なのに、──その手を振り払った。
「ごめん……」
背中越しに今もアキラの荒い息づかいが聞こえる気がして、ケイスケは耳をふさいだ。
そして──雨など降っていないのに、さらさらとこすれ合う水音がいつまでも耳の奥にこだまして、止まなかった。