クロニック・ラブ05

 じゃあ今度こそケイスケも一緒にな、と源泉は笑って帰っていった。
 工場に戻る道をひとり辿りながら、そういえば源泉が住んでいる住所も連絡先も知らないことに今さら気づいた。たしか外国から戻ったばかりだと言っていたが、しばらくはニホンに滞在するつもりなのか、それともまたすぐ旅に出てしまうのだろうか。
 源泉を頼れるかもしれないという心強さと同時に、いざというとき源泉がいなかったらと思うと急に心細くなってくる。
 いつどうなるかわからない二つの体を抱えて、ずっと胸の片隅に不安があった。だが、それは確かめることも手立てを講じることもできず、誰とも分かち合うことのできない懸念と虞れだった。だからこそ、話を聞いてくれただけで、ずいぶんと体が軽くなったと感じたばかりなのに。
(きりがない……)
 ひとつ叶えば、またひとつ欲や甘えが出る。そうして、どんどんと弱くなっている気さえした。
「よう、アキラ。おかえり」
 工場が見える距離まで来たころ、ガレージの向かいへと広く口を開けた道ばたで、年かさの工員が手を振っていることに気づいた。アキラがお疲れ様です、と言って軽く会釈してみせると、男は柔和な目元にシワを作って笑った。
「そっちこそお疲れさん。工場長の使いっ走りだって?」

 屈託ない笑顔で言われ、アキラは瞬いてから「ええ、まあ」と曖昧に頷いた。どうやら、そういうことにしてくれたらしい。そういえば源泉と工場長の関係も聞き忘れた。お互い顔見知りなふうだったが、一体どういう繋がりなのだろう。
「おやっさん、ついさっき取引先に行くって出ちまったんだが、帰ってきたら上がっていいって言ってたぞ」
「え、だけど……今日は3番で解体があるんじゃ」
「フロントのラジエータはもう外しちまってたけど、この時間じゃワイヤーハーネスの処理は明日回しだろ。気にしないで帰れるときに帰っちまえ」
「でも俺、昨日も半休だったので……」
「いいじゃねえか、たまにはゆっくりしろって。忙しくなりゃあ、土下座したって帰れねえような有様なんだ」
「……はい」
 あまり抵抗するのも不自然だろうから頷いた。
 それなら明日の朝一番で工場長に礼を言いに行って、聞けそうなら源泉との関係を少し訊ねてみよう。ひょっとしたら源泉の連絡先を知っているかもしれない。
「おまえは顔に似合わず、ホントに生真面目だなあ。若い連中ってのは、隙あらばサボりたがるもんだが」
 工員は半ば呆れたようにそう言い、肩をすくめてからもう一度笑った。
 ついさっきも同じことを言われた気がするが、手を抜こうにも抜き方なんてわからないだけ、不器用なだけだと思う。自分のことを真面目だと思ったことは一度もない。
(「おまえさんはちいと真面目なんだ」)
(「一回いい気分になってぶっ飛んでみれば」)
 だが、あれほどあけすけな言われ方をしたこともない。
 はおったブルゾンのポケットに手を突っ込むと、小さな金属の箱に爪が当たった。先ほど無理に握らされ、押しつけられたものだ。
「……無責任なんだよ」
「? どうした、なんか言ったか」
「いえ……なんでも。じゃあ俺、お先上がります」
 慌てて言って、アキラは頭を下げる。そそくさと背中を向けた後、ふいに工員がもう一度振り返ってアキラ、と呼んだ。
「ケイスケに、余ったブレーキパッドなんか、明日に全部持ってこなくてもいいからって言っとけ。おまえら二人、揃いも揃ってクソ真面目なんだからな」

:::

 着替えをすませて工場から帰宅すると、早々に出たはずが辺りはすでに薄暗くなっていた。
 そろそろ春とはいえ、まだ日が落ちるのは早い。刻々と遠ざかる太陽に襟首を掴まれ、気温もまたあっという間に落ち込んでいく。
 ブルゾンの襟をかきあわせつつ足早にアパートの階段を上り、アキラは突き当たりにある部屋の鍵を開けた。バックパックを部屋の隅に放ってから電気をつけ、台所に立つ。
(そういえば……言いに来なかったな)
 いつも帰宅時間がずれ込みそうなときは、ケイスケがしつこいほど知らせに来ることをふと思い出した。
 ゴメンな、ちょっと遅くなりそう。先に帰ってて。けど、俺が飯作るから。いいって、俺がやるよ。アキラは座って待っててくれよな。遠慮しないでいいから。俺がやりたいんだ──。
 先に帰った方が下ごしらえすれば早く食える、俺は客じゃない、という主張を間に織り交ぜても、ケイスケの耳へはうまく届かない。だから最近は何も言わず、ただ頷くことに決めていた。それから鍋にだしを取って味噌をつっこみ、米をとぐところまでは勝手にやることにしている。
 何も言いに来なかったのは、たまたま急いでいたからだろうか。それとも、声をかけづらかったのだろうか。
(別に……ケンカしたわけじゃないのに)
 本当は、いっそケンカができればいいのにと思う。なじってくれたらまだ気が楽なのに、こういうときのケイスケはいつだって笑いながらゴメンと言うばかりだ。それは昔から変わらないクセ──いつだって自分の方にばかり負い目があると思いこんでいる、ケイスケの嫌なクセだった。
 もし声をかけづらかったのだとしたら、おかしな雰囲気を作っているのは間違いなく自分の方だ。ケイスケに負い目があるとしても、原因は自分なのに──そんなケイスケの態度に少し、苛つく。そして、こんな些細なことに苛つく自分にも苛つく。
 アキラは深く息を吐き出して、着たままのブルゾンを脱ぐと、居間の座布団へと放った。
 とたん、はずみでポケットから堅いものが飛び出し、台所の板間に転がる。
 それはアルミかなにかの薄い金属でできていて、スライド式の蓋がついていた。おまけに紫ともピンクともつかない、安っぽい色の塗装がされている。
 ──小さなピルケース。
「こんなの、一体どこから持ってきたんだ。あのオッサン……」
 拾い上げながら思わず、悪態が口から飛び出した。
 蓋をスライドさせると、中にはつるんと丸い錠剤が入っている。大きさは小さめのビー玉くらい、色は茶色っぽいような黒っぽいような、とにかくあまり薬らしくない。しいて言うなら小ぶりの飴玉だ。
(……ばかばかしい)
 そう思うのに、捨ててしまえない。
 こんなものに──薬に頼ってまで、体の関係を繋ぎ止めておきたいのだろうか、自分は。しかも相手は幼なじみ、おまけに同性だ。冷静に考えてみれば、本当にどうかしている。
 大体、飲むにしてもいつ飲めばいいのだかわからない。効くかもしれないし、効き過ぎるかもしれない──そんなあやふやなものを一体どうしろというのか。ケイスケに「実は源泉から媚薬をもらったから今から試しに飲んでみてもいいか」などと聞くわけにもいかないし、話のネタにするといってもどう切り出すのか、考えるだけで途方に暮れてしまう。
 第一、源泉の名前を出したら、昨日の今日でなんの用だったのかを問われるだろう。実はおまえの脳細胞が今もウイルスに冒されているらしいなどと、簡単には切り出せそうにもなかった。
(「一回いい気分になってぶっ飛んでみれば」)
 それとも、こんな気分が続くぐらいなら、余計なことを考える余裕もないくらい「いい気分になってぶっ飛んだ」ほうがマシなのか。
(だけど……)
 それでも駄目だったらどうするのだろう。
 一生できないのだったら。
 どうしたらいいんだろう。
 ──ケイスケは、どうするんだろう。
「ただいま、アキラ」
 突然、扉が勢いよく開いた。

:::

「遅くなっちゃってゴメンな。しかも出がけにバタバタしてて、遅くなるって言い損なっちゃって。慌てて帰ってきたけど、もう外、真っ暗だ」
 あまりに急なことだったから、アキラは気を呑まれて立ちすくんだ。
 重そうな荷物を担ぎ、肩で扉を押し開けているのを、手助けもせずにただ呆然と見守ってしまう。
 ケイスケは玄関へ上がるなり、荷物をどさりと床に置いた。
「参ったよ。同じ第拾四殻都っていっても、やっぱりさすがに遠かった。川を越えて、もう一区先だもんな」
 ほっとしたように息をついてからちょっと顔を上げ、アキラを見ると目を細めて笑った。
 いつもと変わらない顔をしている。まるで昨日のことなど夢だったかのような、そんな顔だ。
「しかも行った先で他の車も見て欲しいって言われて……ブレーキの調整してたんだ。おまけに、納品しちゃうと帰りは足がないしさ。ああ、腹減ったなあ。すぐ飯の支度するから……アキラ?」
 一向に返事をしないアキラに気づき、ケイスケが不思議そうに首を傾げた。
「どうかした? ……それ、なに?」
 アキラの手の中にあるものに気づいて、ケイスケがじっと見た。
「薬……?」
 言われて、自分の手の中のものだと咄嗟にわからなかった。
 だから、手のひらを握りしめて隠そうにも、もう間に合わなかった。
「ひょっとして、どっか具合でも悪いのか。大丈夫?」
 そうだとも、違うとも言えず、アキラは薬を見つめたまま、俯いて立ちつくした。
(なんでもないって……そう言えばいい)
 詳細など話せるわけがない。けれどもある程度つっぱねれば、それ以上ケイスケも深追いしてこないだろう。ただ黙っているほうが不自然だ。わかっている。わかっているのに、うまく言葉が出てこない。
「あ、ひょっとして医者へでも行ってた?」
 のぞき込むようにして言われても、絡め取られたようにまだ動けない。
 明らかに、手の中の小さな錠剤を持てあましていた。
 これをどうしたいのか。捨ててしまいたいのか、それとも……飲みたいのか。
「みんなが工場長の使いっ走りに出たって言ってたけど……だけどそれ、なんだか不思議な色した薬だな。なんの薬? 風邪の?」
 そう言いながらケイスケが手を伸ばしてきた。
 アキラはとっさに、手のひらにあったそれを口の中へ──放り込んだ。
「アキラ?」
 蛇口をひねり、コップに水を注いで一気に飲み干すと、アキラは荒い息をついて口元をぬぐった。
 ケイスケの顔が見られなかった。
「どうしたんだよ、アキラ」
「ちょっと……具合が悪いから。もう寝る」
「大丈夫? ……ホントだ、顔色悪いな。ちょっと待って。布団しくよ」
 どんな顔をしているのかと思ったら、いたたまれない思いがどっと押し寄せてきて、ますます顔を上げられなくなった。
「いい、自分でする」
「いいから、ちょっと待って。それから何か食べたいものとか──」
「いいって言ってるだろ、放っておけよ!」
 思わず声を荒げてしまい、ふすまを開けたケイスケの手が固まった。
「……アキラ?」
 気を悪くしたふうではなかった。ただ、とまどいがまっすぐ伝わってくる。
 当たり前だ。こんなのは八つ当たりだ。ケイスケは悪くない。
「……悪い。疲れてるんだ」
 のろのろと自分で布団を引っ張り出すと、アキラは服もそのままで布団にくるまり、ケイスケから背を向けた。

:::

 しばらくは布団端でこちらを伺っていたケイスケも、アキラにまるで返事をする気がないとわかって、すごすごと遠のいた。
 それからほどなくしてコンロをひねる音、鍋の蓋をする音、湯だつ音、食器の音が聞こえはじめる。夕飯の支度をはじめたのだろう。たいした音量でもないはずなのに、やけに耳につく。聞くとはなしに聞きながら、結局何の下ごしらえもしなかったな、とアキラはぼんやり思った。
 妙に静かな夜だった。
 ラジオがあるわけでもない。お互いが一言も発しなければ当然静まり返るしかないのだが、何故だかいつもよりもいっそうしんとしているような気がする。普段は気にしたこともない、時計の針の音すら聞こえてきそうな静寂は、自己嫌悪と絡まり合ってじんわりとシミのように胸へ広がっていく。ひどくいたたまれない心地がした。
 だが、自分から怒鳴ってそっぽを向いた手前、今さら引っ込みがつかなかった。それに、謝ったところで経緯を全部を話さなくてはならないかと思うと、それだけで目眩がする。
 ぐっすり寝て、一晩やり過ごせばいい。万が一起こるかもしれない薬の作用も、気まずい雰囲気も、全部。そうして朝になったら、そ知らぬ顔をしておはようといえばいい。昨日は悪かったと何気ない調子で告げたら、きっとケイスケは気にしなくていいと言って笑ってくれるはずだ──そういう都合のいい事をいくつも考える。そのうち、意識が緩く揺れ始めた。
(「黙ってる顔、怒ってる顔、睨んでる顔……たったこれだけだ」)
 そんなふうに言われたことを、なぜだかいきなり思い出した。
 もう五年も前の話だ。
 ケイスケが本当のことだけしか吐き出さなくなった、あのときのセリフ。思い出すたびに痛い。
 やっぱり自分は変わっていないのかもしれない。やわらかくなったなんて、きっと気のせいだ。自分のことばかりでいっぱいにして、今だって疲れたケイスケに優しい言葉の一つもかけてやれないでいる。
 力になるどころか、隣で受け止めてやることすら満足にできない。せめて体くらい、簡単に繋がれたら──
「……キラ、アキラ!」
 揺さぶられて、唐突に意識が浮上した。
 目の前にケイスケの顔があって、眠っていたのだと初めて気がついた。
「大丈夫? ……苦しい?」
 いや、とアキラは小さく答えたが、いつの間にか息が上がっていた。
 体がひたすらだるかった。酷い耳鳴りがする。耳元で鳴るさわさわとした潮騒のような音──きっとこれは、耳の血管を血液が流れていく音だ。しんどくて、呻き声を上げないようにするのがやっとだった。まるで胸にタガでもはめられたようだ。意識すると呼吸は浅くなる一方で、息が苦しい。いくら継いでも楽にならない。
 なのに、体の真ん中だけが冴え冴えとして──熱い。
(まずい……)
 起きなければ良かった。横になったまま朝になっていればよかったのに。
 目が覚めてしまった。
「アキラ……」
 眉を曇らせて自分を呼ぶケイスケの声に、アキラは思わずびくりと肩を震わせた。
「大丈夫? ……すごい汗だ。着替えた方がいいよ」
「いい……」
「良くないよ。手伝うから」
「いいから俺に触るな……っ」
「アキラ」
 ややきつく呼ばわって、ケイスケが無理に布団をはぎとった。
「やめろ……っ!」
「意地張るところかよ。具合が悪いのに」
「ちが……いい、から」
 額に、さらりと手のひらが添えられた。
 ひんやりしていた。
 それだけで──ケイスケが触れていると思っただけで、震えた。
 その手に、思うさま触れて欲しいと思った。
 思ってから、愕然とした。簡単な自分の思考に酷い悪心がこみ上げた。
「熱はないみたいだけど……一体どうしたんだ、アキラ。医者は何か言ってた?」
 荒い息の下から、音がしそうなほど歯を食いしばった。どこまでも気遣わしげな瞳が、声が、本当に鬱陶しい。どこかへ行ってほしい。
 勝手な言い分なのはわかっている。けれども、いま触られれば理性をあっさり手放して、みっともなく求めてしまう。
(「一回いい気分になってぶっ飛んでみれば」)
 それが目的だったはずだ──どう言い訳したって、薬を口に放り込んだのは紛れもない自分だ。けれども、なけなしの理性は意識の縁にしがみついて、未だあがいている。
 体中に強く強く痕がつくほど触れて欲しい。
 でも、触れて欲しくない。
 乱暴に追い上げられて、思うさま声を出したい。
 けれども、そんな声を聞かれたくない。
 ちぐはぐな気持ちが体の中で荒れ狂っている。腕が、膝が、体中が音を立てるほど震えていた。アキラは自分の体を庇うように両手で抱きしめて、うずくまった。
 自分に心が足りないからいけないのか。信じ切れていないのか。だから、できないのか。いつもいつも、いつも。
「うぁ……っ!」
 首筋にひやりとしたものが当たって、アキラは思わず悲鳴を上げた。
「ゴメン。おどかした? けど汗、ふかないと……」
 触れたのは濡れたタオルだった。いつの間に濡らしてきたのだろう。ケイスケが遠ざかったことも、蛇口をひねった音も知らない。意識がブツブツと途切れているらしかった。
「動きたくないならそのままでいいから。少し楽になってから着替えよう。あと水……水分取らないと。ストローがあるといいんだけど、どっかにあったかな」
 ケイスケが言った言葉が、右から左へさらさら流れていく。
 もう、意味などどうでもよくなり始めていた。苦しくてどうにかなりそうだった。
(「一回いい気分になってぶっ飛んでみれば」)
 そうしたら、少しは楽になれるだろうか。
「……ケイス、ケ」
 荒い息の下から名前を呼んだ。
「アキラ」
 顔を寄せてきた男の顔がぶれて映る。顔のパーツで、口元だけが、やけに気になった。
「聞いてるよ、ゆっくりでいいから。なに?」
 ちらちらと合間に覗く舌が、はっきりと見えた。
「大丈夫、待ってる。楽になってからでいいからな、アキラ……」
 そっと手のひらが髪をすくように差し込まれて──限界だった。
 アキラはケイスケのえり首を掴んで強引に引き寄せると、自分の唇を強く押しつけた。

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