クロニック・ラブ04

 アキラ、と向こうから呼ばわる声が聞こえた。
「はい!」
「3番ガレージにそこの機材、入れておいてくれ! それが終わったら、工場長ンとこ行ってこい! 話があるってよ!」
「わかりました!」
 大型のジャッキが稼働しているため、常に辺りは騒音に取り巻かれていて、自然と声も大きくなる。怒鳴りあうような音量で会話をすませると、ドライバーやレンチなどの細かな工具、ワイヤーブラシなどの清掃機材を大量に積んだ台車を押して、アキラは慎重に狭い通路を通り抜けた。
「お、アキラ。ご苦労さん」
 工員が声をかけてくる。どうも、と軽く会釈をしてから、アキラは台車を注意深く定位置に押し込んだ。
「なかなか板についてきたなあ」
「最初のへっぴり腰はどうしようかと思ったが」
 作業の手を止めた工員たちが言い、その場にいた全員がどっと笑った。
 町にたった一つの自動車工場は、とても人情味があって温かい職場だった。規模は小さいながらも、車種を選ばずよく面倒を見るという評判を聞きつけ、遠くからわざわざ足を運ぶ客も少なくない。
「工場長に怒鳴られっぱなしで気の毒だとは思ったけど、庇いようもなくってなあ」
「すいません」

 当時のことを思い返すと、アキラ自身、ほとほと情けなくなる。それまではなんとなく器用に世間を渡っていけるような気でいたのだが、いざ始めてみると、本当に何ひとつまともに仕事ができなかったのだ。自分の、あまりの役立たずぶりに心底呆れ、他の職を探すべきではないかと散々悩んだものだった。
「あんときゃ正直、まぁた工場長が犬っころ拾ってきやがったって思ったが」
「車いじりと、人の面倒を見るのが趣味みたいなオッサンだからな」
「まあ、内戦が終わったばっかりで、それこそ猫の手も借りたかったところだったけどな。最近は少なくなったが、軍用車両もたくさんあったっけなあ。無理な工数で突っ込まれて……」
 途端、当時の苦労話に花が咲きはじめる。
 二年ほど前──うちで働くか、とたまたま工場長に声をかけてもらっていなかったら、今頃はどうなっていただろう。ひょっとしたら、またブラスターで日銭を稼いでいたかもしれない。戦後の混乱期で、手に職もなくまともな職につくほうが難しかったし、今もそれは変わらない。運が良かったのだ。
 最初のうちは食べるものと寝るところしか与えられなかったが、ケイスケと二人で必死で働いた。やがて仕事がなんとかものになってくると、きちんと給金が与えられるようになり、外で暮らしたいと申し出たら格安の物件を見つけ出してくれたばかりか保証人にまでなってくれた。
 仕事には本当に厳しいが、情味のある人柄で、工場長は工員たちから心底尊敬されていた。
「そうそう。ケイスケはさっき、納品で出かけたよ。川向こうだから片道二時間以上かかるってんで、直帰するとさ」
「あ、はい。わかりました」
 それを聞くと、今まで黙っていた若い工員が話に入ってくる。
「あの調子じゃ、七時は過ぎるんじゃねえかな。違う車体のブレーキが甘いから、来たら見て欲しいって先方から連絡あったみたいだし。ブレーキパッドとか予備のブレーキフルードとか、一人で大荷物抱えて出かけたよ」
「人がいいんだよなあ。見て欲しけりゃ工場まで運んで来いって、言やあいいのに。昔からああなのか?」
 アキラが頷くと、聞いた工員は大げさに肩を竦めて見せた。
「幼なじみなんだっけ? 四六時中一緒で、ホントに気があうんだなあ」
「まあ、……気楽だから」
 なんて答えたらいいのかわからず曖昧に言うと、聞きつけた別の工員がおもしろそうに笑った。
「けどおまえら、二人合わせとくとケンカはすンだよな」
「あ、そういやそうなんだよな。アキラはいっつも涼しい顔してるし、ケイスケはいっつもヘラヘラ笑ってるくせに、ときどき火がついたみたいにケンカして」
「ホラ、いつだったか二人で殴り合いしたろ。宿舎でゴロゴロとっくみあいまでして」
「あんときゃ、工場長や俺たちが体張って止めたんだよなあ」
「大丈夫なのかよ、二人で暮らしたりして」
「いつでも宿舎に戻ってきて良いぞ」
 一斉にみんながこっちを見たから、アキラは困ってしまって顔を背けた。
「……すいません、その辺で勘弁してください」
 小さい声でそう言うと、もう一度、どっと笑いが弾けた。

:::

 工場長に呼ばれているから、とアキラは這々の体でガレージを抜け出した。
 ああしてからかわれるのも日常茶飯事で、普段は大して気にも留めていない。だが、今日はあれ以上聞いていると本当に参ってしまいそうだった。
 思わず、大きなため息が出た。
(「ごめん、アキラ……」)
 何度笑って謝られただろう。思い出す度にしんどい。
(「すきだよ」)
 嘘だとは思わないのに、本当だろうかとも思う。信じているのに、聞けば聞くほど不安になる。
 好きなら──全身で拒まれて、何も思わないわけがないだろう。そう思う。
(嫌じゃ、ないんだ。本当に)
 熱を分け合うのも、快楽を共にするのも。なのに、体がどうしても言うことをきかない。どうしていいのかわからない。
 だからといって今さら、ただの友達に戻れるわけがなかった。
 ケイスケが望んでいるのはそんなものじゃない。
 自分もまた。今さら、何も知らなかった頃に戻れはしない。
 ふたりでいることは、ときに苦しい。
 けれども、知ってしまったお互いの肌の甘さを置き去りにして、ひとりではいられない。
 寂しくて。
 心弱い自分が、本当に嫌になる。
 またひとつ、ため息が出た。
 それでも、ケイスケが工場から出ていると思ったら、少し気が楽だった。今朝から自分を呼ぶ声に微量の気遣いが含まれていて、かえって気疲れする。我ながらずいぶんな言いぐさだとも思うが、どうにも自分に余裕がなかった。下手をすると、ケイスケに八つ当たりめいたことを言ってしまいそうで怖い。
 ふと気づくと、もう目指す扉──工場長の部屋の前まで来ていた。
 アキラは気鬱を振り払うようにかぶりをふり、大きく息を吸い込む。失礼します、と丁寧に一声かけて扉をあけ──だが、その先にいた人物にアキラは驚いて、思わず大きな声を上げてしまった。
「オッサン……」
「よお、アキラ。なんだ、似合うじゃねえか、そのカッコ」
 昨日と同じ、よれた開襟シャツにプレスの甘いパンツという格好で、源泉が手を上げた。
「どうしたんだよ。こんなところまで……」
「いやなに。ちょいと、おやっさんに挨拶をな」
 工場長がなにも言わず、ふん、と鼻を鳴らした。
「知り合いなのか」
「まあな」
 どういう知り合いなのだろう。確か、源泉も旧CFC出身ではなかっただろうか。日興連に知己がいるというのも、不思議な感じがした。
「ところでアキラ。おまえさん、ちょいと顔をかしてくれないか。話があるんだよ」
「……今、仕事中だ」
 少し面食らって、アキラは言葉を濁した。
 確かにまた会おうと言って別れたが、今度こそちゃんと約束をして、ケイスケも交えて会おうという意味だと思っていた。大体、昨日の今日で一体なんの話があるというのだろう。
「いいから行ってこい」
 ぶっきらぼうな声がかかって、アキラはさらに驚いた。
「工場長……」
「一度言い出すとてこでも動かねえ。このろくでなしは」
「ろくでなしはひでえなあ」
 源泉の抗議は聞かず、工場長は続けた。
「さっさと終わらして来い。ブンヤに商売引っかき回されたんじゃたまらねえ。今回だけだ」

:::

 喫茶店の扉を押し開けると、軽いベルの音と、オーナーの少しばかり驚いた顔に迎え入れられた。
 それはそうだろう。昨日来たばかりの──おまけに親子ほどの年の差の男同士が連れだってやってくれば、忘れる方が難しい。
「どうにも、ここン家のコーヒーの味が忘れられなくってね」
 源泉が目元を和ませてそう言うと、ありがとうございます、と人好きのする笑顔が返ってくる。隣に立って見ていたら自分もオーナーと目が合ってしまい、にっこりと微笑まれた。アキラはなんとなく居心地の悪い思いで小さく会釈してから、そそくさと奥の席へ源泉を促した。
「いい店だなあ。なによりこんなご時世にうまいコーヒーってのは、なかなか趣味のいい贅沢だぞ。それに、クレオールって店の名前もまた洒落てる。そうか。だから店のロゴが鍵盤なんだな、ディキシーか」
 源泉が一人言じみたふうに呟くと、コーヒーと運んできたオーナーは、どうぞご贔屓に、とだけ言い残してカウンターへと戻っていく。
「こんな店を知ってるなんて見直したぞ、アキラ」
「そんなことよりあんた、なんでこんな時間に来たんだ。仕事の終わる時間じゃ駄目なのか」
「仕事が気になるか? なんだ。相変わらず、妙なところでクソ真面目なんだな」
「そんなんじゃない。……ケイスケも会いたがってた。今はたまたま出てたけど」
「……そのことなんだが」はしゃいでいたかに見えた源泉が、急に思案顔になる。「その、ケイスケは本当に大丈夫か?」
 アキラは顔をしかめた。
「あんた、この間も聞いただろ。それ」
 大丈夫だ、と答え、源泉も納得したように頷いていたはずだ。
 いぶかしげに首を傾げるアキラを見つめ、源泉は苦い表情になって続けた。
「遠回しに言うのも性に合わん」そう前置いてから「単刀直入に行くぞ。ケイスケがラインをやってたことについてだ」
 アキラは思わずはっとして息を呑んだ。
「どうだ。その後は」
 逃さず、源泉が食い込んでくる。
「どうって……どういうことだよ」
「安心しろ。今さらトシマでの一件をどうこうしようってんじゃない。ましてや軍の絡みでもない」
 血の気の引く思いがした。
(なんの話を……してるんだ)
 アキラは自分の右手を無意識に握りしめ、源泉を睨みつけた。
「言っていることの意味がわからない」
「まあ、そうピリピリすんな」
 源泉が曖昧な笑みを浮かべた。
 その、人を呑むような人の悪い物言いに──思わずかっとなった。
「人から話を聞こうとするのに、自分の手の内を明かさないで進めようとするのは納得できない」
 気づけば、アキラは立ち上がって声を荒げていた。
 大仰に反応してはまずいことくらい、わかっている。
(だけど、そんなふうに……話せることじゃない)
 高みからあやすような言い方をされたくない。その話がどれほどの痛みを伴うのかも知らずに、軽々しく話のネタにされるのはごめんだった。
「こりゃ参ったな……」
 源泉は頭をかいてから、コーヒーを一口すすった。
「切りだし方がまずかったか。まあ座れ。俺は本当にケイスケが心配なんだ。もちろんおまえさんもな。ジャーナリストとしてじゃない、源泉としてアキラ、おまえにきちんと話しておきたいことがあるんだよ」
 座れ、ともう一度促され、アキラははやる動悸を堪えつつ椅子に浅くかけた。
「吸っていいか」
 胸のポケットから、しなしなによれた紙箱を取り出す。アキラが頷くと、源泉はそこから一本タバコを引き抜いて火をさし、ゆっくりと煙を吸いこんでから長く吐き出した。
「俺はラインって代物についちゃ少々、他の連中よりもものを多く知ってる。おまえ、新聞は見るか? ラジオのニュースはどうだ」
「……たまには」
「ここ数年のことだがな。暴行や傷害でとっ捕まった連中に、妙なやつらが混じってる」
「妙?」
「桁外れのパワーで突然暴れだし、とっ捕まえたところで直後は常軌を逸していてまともに話もできん。正気と狂気の間を言ったり来たりするケースもあるようだが……ま、症状だけ見れば麻薬中毒だと誰もが思うところだ。ところが事情聴取や調査報告を見ると、こいつがどうにもつじつまがあわん。過去にドラッグをやってたことは事実のようなんだが、いくら検査をしてもここ最近は禁断症状や意識障害を起こすほどの投与をした形跡がない。摂取がごく少量だったか、あるいは過去の短い期間だったか、どちらにせよ通常の薬なら作用もとっくに抜けているはずだという。原因はわからず、当局の医療機関は首をひねりつつ調査中──とまあ、こんな感じのニュースだ。少々一般のニュースよりは詳しいかもしれんが」
「……聞いた気もするけど」
 アキラはできるだけ注意深く答えた。
 源泉のことを信用しないと言ったら言いすぎだ。こうしてわざわざ会いに来てくれた。それは本当に彼の好意だと思う。けれども、この男は情報を切り売りすることが仕事なのだ。まさか自分たちを情報ごと売るとまでは疑っていないが、接触する人間の数も種類も様々だろう。悪気はなくともどこでどう話が伝わり、どう流れていくのか全く想像がつかない。それだけに、警戒すべきだということだけわかる。
(考え過ぎかもしれない……)
 けれども、今の生活を失いたくない。やっと外に出て仕事にありつき、つましいながら帰る家もできた。たったそれだけのことがこの五年、どれほど大変だったか──。
 源泉に申し訳ないと思いつつも、手放しで全てを告白する気にはどうしてもなれない。
 アキラの思惑を察しているのかいないのか、源泉は軽く頷いてから話を続けた。
「さらに突き詰めてみると、連中は内戦と前後してトシマから流れてきたやつが大半。おまけにどいつも流行の新型ドラッグをやっていたらしい……と、くりゃあ、言いたいことはわかるだろう」
「ライン……間違いないのか」
「十中八九な」
 こころなしか、お互い声のトーンが低くなる。
「ラインは少々特殊なんだ。そんじょそこらのドラッグとは訳が違う──再発する危険性がある」
「再発……?」
 源泉が重く頷いた。
「もしもケイスケに何かあれば、アキラ、おまえさんだって知らんふりはできんだろう。面倒ごとに巻き込まれる可能性もある。俺はそれが気になって仕方なくてな。実を言うと、今回帰ってきて真っ先に連絡を取りたかった、一番の理由はそこだったんだが……アキラ?」
 あれこれ考え事をしていたせいか、不振そうに源泉がアキラを呼んだ。
「やっぱり、なにか思い当たることがあるのか」
 険しい顔つきで、アキラは首を振った。
「アキラ、何度も言うようだが悪いようにはせん。場合によっちゃ力になれるかもしれん」
 アキラはもう一度首を振った。
「そうじゃなくて……あんたがラインのことに詳しいなら、聞きたいことがある」
「何をだ?」
「再発するのは、ラインがウイルスだからなのか?」
 源泉が目を見開き、ぎょっとした顔をした。
「なんでおまえ、それを知ってる。その話は軍事機密レベルの話だぞ」
「俺は……トシマで聞いただけだ」
「聞いた!? 誰に」
 食らいつくように源泉が聞き返してくる。あまりの勢いに、アキラの方が驚いて戸惑いを覚えるほどだった。
「軍の関係者だって──研究所にいたと言っていた」
 そう言うと、源泉は眉根を寄せて黙り込んでしまった。
「何がそんなにまずいんだ? 確かに俺はその話を聞いた。だけど、ウイルスなんて言われたって意味がよくわからない。強調して言うからには、何か意味があるんだろうなって思っていた程度で」
「いや……とにかく、その話はあまりおおっぴらにしない方がいい。軍の関係者でも、おそらくその話を知ってるやつは一握りだ。場合によっちゃヤバいことに巻き込まれかねない」
「そんなまずい話を、あんたこそなんで知ってるんだ」
 言うと、源泉ははっとしたように顔を上げてから、いつもどおりの人好きのする笑顔で肩をすくめて見せた。
「オトナにはいろいろあんだよ。けどまあ、そこまで知ってるなら早い。話を戻そう」
 はぐらかされた感がぬぐえなかったが、あえてそれ以上は追求せずにアキラは頷いた。
「おまえさんの言うとおりラインはウイルスで、再発に関してはそいつが重要なトコだ。ラインはな、元はと言えば軍の機関で研究されていた人工ウイルスだ。確かに作用は麻薬に似ちゃいるが、実のところ病気に近い」
「病気……?」
「ラインと麻薬の違いは、作用機序の違いだ。麻薬は脳内ホルモンの分泌を促す薬物だが、ラインは違う。脳細胞に直接感染し、ウイルスに冒されて病んだ脳細胞から、通常ではありえない量の脳内ホルモンが放出される……解るか?」
「なんとなく……。どっちにしても、脳内ホルモンが出るってトコは同じなんだな?」
 そうだ、と源泉が少し満足げに頷いた。
「出てくるモノは同じだから、外から見える症状も、使ってる人間が感じる感覚も同じだ。幻覚作用、昂揚感、幸福感、陶酔感、肉体・精神的依存と中毒性、痛覚麻痺……とかな」
 つまり、ただの麻薬中毒か、それともラインの中毒かを症状で見分けるのは極めて困難ということになる。
「もう一つ、ラインを服用すると運動能力が飛躍的に伸びるって効果についてだが、通常肉体を保護するために筋力や運動能力は、無意識下で全力の6~7割に制限されている。が、小脳と大脳がラインに冒されると、ストッパーが解放されて運動能力が飛躍的に高まる。これについては、スポーツのドーピングって言ったほうが解りやすいか?」
 なるほど、理解というには遠くても、なんとなくイメージが沸いた。
 ここまではいいか、次に行くぞと無言で目が促していたから頷く。まるで教師のようだ。源泉の意外な一面を見た気がして、アキラは内心少し驚いていた。
「ま、ここまでなら、本当に普通の麻薬やドーピングと大して変わらんように聞こえるだろう。だが問題は、ラインってやつが脳細胞そのものを変質させることだ」
「脳細胞を……?」
「トシマから脱出する直前、純度の高いラインを使ったやつらが次々倒れたのを覚えているか? あれはな、あまり重度に脳細胞が冒されると、非化膿性脳炎を起こして死亡してしまうからなんだ。この非化膿性脳炎っていうのはウイルスの病気に特徴的な症状でな」
「死亡って……じゃあ、ケイスケは──」
「オイオイ、落ち着けって。そこまで酷い状態なら、もうとっくに死んでる」
「ああ……そう、か」
 いつの間にか力の入っていた肩を無理に落として、アキラは深く椅子へ座り直した。
 ケイスケがあおったラインの純度は、一体どれくらいだったのだろう。落ちていたものを拾った、と言っていた。純度が低かったから症状が軽くて済んだのか、それとも被検体だったからどこかに適応能力があって、軽く済んだのか──今も重度に脳細胞が冒されているのか。
 ケイスケの体の中は、一体どうなっているのだろう。アキラ自身の体もだ。自分たちの体のことなのに、なにひとつまともに知ることができない。理不尽さに、改めてやり場のない怒りがこみあげてくる。
「さて、こっからが本題だ。向神経系のウイルス……脳や、脊髄や神経なんかを冒すウイルスは、一度病気が治まったように見えても、少数のウイルスが神経節なんかに潜伏して、年単位の時間を置いて再発するような種類がある。再発の危険があるって言ったのはそのことだ」
 向神経系、と懐から取り出したペンで、紙ナプキンに書きつけてくれる。神経に向かっていくウイルス……ということのようだ。
「ヘルペスなんかもそうなんだが……どうやらラインもその類らしいな。一時的に症状が治まっても、ストレスなんかの重圧がかかったり、病気で免疫が弱まったり、何かのきっかけで再発する場合がある。……まあ、研究所でも正直、この辺の詳細は把握仕切れていなかったはずだがな。ラインがあんなに大量にばらまれて野外へ流出したのはトシマが初めてだし、それどころか、実際に人体へ投与する段階まで実験が進んでいたかどうかにも疑問が残る」
 研究所──確か、ENEDといったか。記憶にはないけれど、自分とケイスケも幼い頃にいた場所のはずだ。
「ラインはもともと軍事利用を前提として考案された人工ウイルスだったが、トシマが巨大な人体実験場になっちまったような格好だな。皮肉なことに、仕掛けた連中はどいつもこいつも死んじまってるか、行方をくらましちまってるが──と、まあラインについてはこんなところだ」
 ふと気づくと、源泉が新しいタバコに火をつけるところだった。手元の小さな灰皿には、すでに二本、ちびた吸い殻がたまっている。
「要は、麻薬みたいに時間がたちゃあ抜けるってもんでもない。ラインはそういう代物だ。CFCが倒れた今、表だって利用を考えているところはないと思うが、裏ではどうだかな。むしろ裏に潜ってしまった分、やっかいとも言える。誰がどう目をつけているかもわからんしな。おまえさんたちはトシマである程度のものを見聞きしているから、誰かが接触してくる可能性もある。おまけにケイスケはキャリアーだ。一番近くで気をつけていてやれるのはアキラ、おまえさんだろう。知らないよりも、知っていた方がマシなことだってあるはずだ、ってな……余計なお節介かもしれんが」
「……ウイルスをなんとかする方法はないのか」
 源泉は力なく首を振った。
「特有の症状なら予測がつくんだがな。光を嫌って暗所を好むとか、水が飲めなくなるとか」
「……それは、どうして」
「ラインの元になったウイルスがあるんだ。人工ウイルスといっても、0から全てヒトが組み上げたわけじゃない、あるウイルスの配列を人工的に少し弄っただけだ。全体が解っちゃいなくても作り替えることならできる。……その効果がどうなるかもわからないまま、結果だけを出しちまえるのが生物学の恐ろしいところさ。元になったウイルスは学名Rhabdoviridae,Lyssavirus,Rabies virus」
 アキラがいぶかしげに首を傾げると、源泉が息をついてから続けた。
「こういえば聞いたことくらいあるだろう。──狂犬病ウイルスだよ」
「狂犬病、ウイルス……」
 そう言われてアキラの頭に浮かんだのは、漠然とした死のイメージだった。
 どういう病気か、どういう症状をともなってどうなるのか、具体的には上げられない。それでも、罹患したら取り返しがつかないというイメージだけが、忽然と頭に浮かんだ。
 ケイスケの、狂気を孕んだ顔つきと一緒に。
 ──急に吐き気がして、口元を覆った。
「ウイルスそのものをどうこうする方法は、少なくとも今の俺にはわからん。研究所ではなにがしかのデータがあったかもしれんし、ひょっとしたら抗ウイルス剤が開発されていたかもしれん。だがCFCも潰れて、研究所の連中も離散しちまった。なんとか追っかけてみるつもりではあるが……すまん。今のところはどうしようもない。こりゃあ、おまえさんへのお節介ってよりは、俺自身の気休めだな……」
「おっさんの……気休め?」
 首を傾げると、源泉が大きく息を吐き出してから、意を決したように続けた。
「俺はその昔、CFCの研究機関──ENEDというところにいたんだ」
「え……!?」
「はは、驚いたか? ま、ただし下っ端もいいところでな。研究所にいたときは、上が何の研究やってるかなんざ、全然知らされてなかった。ただ……な。やりきれねえんだよ」
 源泉は自嘲気味に口端を持ち上げた。
「仮にもその研究の手助けをしてたことに代わりはないからな。知らなかったじゃすまねえだろうって……かつて研究者だった俺も、ジャーナリストって肩書きの俺も、もちろん源泉ってただのケチなおやじも、どいつもそう思うのさ。だから、自分なりにケリがつけられるまでは、ラインの件についちゃとことん追いかけるつもりでいる。判り次第、できるだけおまえらにも連絡を入れる。約束する。いや、そうさせてくれ。頼む」
 まっすぐにこちらを見る源泉の眼差しは、痛いほどだった。
 源泉は知っているのだろうか。アキラが、ケイスケが、ENEDでの実験に利用されていたことを。
 そして、自分の体内を流れる血こそがラインと反作用を起こす物質──ナルニコルだと知ったら、そのときはどうするのだろう。
 源泉は、自分は、どうなるのだろう。
 なにもかも曖昧で、すぐに答えは出せそうになかった。
「……わかった。じゃあ俺は、ケイスケと待ってる」
「アキラ……」
「俺たちなら大丈夫だ。なんとかなる。乗り切ってみせる。おっさんが協力してくれるなら……心強い」
 それが、今の自分に出せる精一杯の答えだった。とっさに全てを口にはできないが、嘘は言いたくない。過去の事実に恨み言も言うのも嫌だ。言ったところでどうなるものでもないから、ただ、前を向いていたいと思う。
 いつか、話せる日が来るといい。笑って、あのときは黙っていて悪かったと言える日が。あんたはもう、悪くないんだと言える日が。
 そうしたらきっと源泉も、しょうのないガキ共だなと、笑って肩を叩いてくれる気がした。

:::

 それからしばらくは、お互いに無言のままぼんやりとした。
 手元に置かれた残りのコーヒーは、すでに冷めてしまっていた。もう一杯頼むか、と呟きながら源泉が手を上げ、二杯目が運ばれてくると、それをきっかけにようやく止まっていた時間が動き出した。
「心配事を増やしちまってなんだとは思ったんだが……すまん。黙ってもいられなくてな」
「いや……」
 アキラもまた、長いこと一人で爆弾を抱えている気分だったから、誰かと共有できることはたとえ気休めでもありがたかった。
「で、だな。お詫びといっちゃあ、なんだが」源泉がそう言って、ごそごそと懐を探った。「まあ、持っておけ」
 差し出されたのは小ぶりのピルケースだった。
「なんだよ……これ」
 開けてみると、ころんとして丸みをおびた錠剤のようなものが一粒、入っている。
「その……まあ、なんだ」
「これをケイスケに……飲ませると、いいのか」
 言うと、源泉が急に慌てた声を上げた。
「ち、違う違う! そいつはその、な」
「…………?」
「昨日の話の続きだ」
「昨日の話……?」
「おまえさんの悩み相談の件だ」
「悩み相……」
 言いかけて、アキラは口をつぐんだ。
 昨日話した悩み事らしき話と言えば、ひとつしかない。
「……ちょっと待て。おっさん、これ、一体なんだよ」
「いわゆる、気持ちよくなる薬だ。それなりの即効性はあるが習慣性はないし、人体にも安全だから安心しろ。成分を知りたいか」
「…………」
 あきれ果てて見上げると、源泉がわざとらしくせき払いする。
「使う、使わないは自由だがな。まあ、なんだ。おいちゃんが思うに、おまえさんはちいと真面目なんだ。一回いい気分になってぶっ飛んでみれば、それはそれで吹っ切れるかもしれんぞ。その……アキラ。頼むから、その見下げ果てた目つきはやめてくれ」
「……いらない」
 いい大人が聞いて呆れる。おまけに、今の今まで深刻な──しかも薬だのウイルスだのの作用について話をしていたというのに、デリカシーの欠片もない。
「あ、あのな。言い訳するようでなんだが、あんまり重く考えるなよ。そいつには確かに興奮系の媚薬成分が入っちゃいるが、全然効かないかもしれん。体質によっては逆に効き過ぎるかもしれんが、所詮は人体にさして影響がない程度の可愛いもんだ。いいか、媚薬なんてもんは実際の作用ももちろんあるが、飲んだって事実が媚薬そのもので、一番重要なんだぞ。ホレ、たとえばそこにあるコーヒーだ」
「コーヒーがどうしたんだよ」
「その昔、コーヒーも媚薬と言われてた」
「え……」
 驚いて、のばしかけていた手を思いきりカップにぶつけてしまった。倒してしまわないように慌てて手で押さえると、源泉が軽く笑った。
「まず砂糖を口に含ませて、舌の上で転がしながら飲む……ってな作法でな。実際に嗜まれてた」
 したり顔でおもしろそうに笑う男を見ると、たとえそれが本当だとしても鵜呑みにするのは癪だった。素直に反応してしまったことが今さら恥ずかしくなってくる。
「嘘だろ……」
「嘘じゃないさ。もっと昔にさかのぼれば、トマトもナスもジャガイモも媚薬とされてたんだぜ。媚薬なんてもんはな、元々恋をしているやつらの背中を押してやるだけのもんだ。眉唾だろうとかまいやしない。プラシーボ上等、心を置き去りにして動く体なんてもんは、ありゃあしない……」
 ふいに源泉の言葉尻が小さくなった。
「……?」
「いや……すまんすまん。なんでもない。おまえさん、ちゃあんと好きなんだろ? ケイスケが」
 のぞき込むようにされ、アキラは観念して微かに頷いてみせた。気恥ずかしさはもちろん大いにあるのだが、あんな話を自分からしてしまった手前、今さらごまかしても遅すぎる。
「だったらな、焦るこたあない」
 ぽんぽんと、なだめるように肩を叩かれる。普段であれば、いつまでも子供扱いして……と文句のひとつも言うところなのだが、そんな気にならなかった。声音に揶揄する色は見つけられなかったし、源泉なりに本気であれこれ考えてくれたのだろうと察しはついたからだ。
「ま、気長に仲良くやんな。そいつは話のネタにやるよ。もちろん、使ってもかまわんがな。なんにしても、無理はするなってことだ」
「…………」
 答えようがなくて、アキラはその小さなピルケースをただ黙って見つめた。