ケイスケとアキラと自転車

 曇りなく晴れ渡る昼間の青空よりも、少しくすんだ色をした夕さりの朱が好きだ。一日の間に吐き出されたたくさんのものを混ぜ合わせ、すべて明々とした光にくるみこんでゆっくりと落ちていく──そんなふうに思えるから、青い闇に沈み込む瞬間がいっそうきれいだと感じるのかもしれない。明るみと夜陰が切り替わる端境で、ふいにしんとする空気も気持ちがいい。
 そう。今はまさに、そういう時刻のはずだ。
 なのに今、周囲を取り巻くこの喧噪と人いきれ。
 叶うことなら即刻、回れ右をして遠ざかりたい。
「今は鰹が旬だよ! 安いしうまいよ!」
「でも……だけど、ちょっと高い、かなあ。あ、ほら、秋のサンマはもっと安かったけど」
「兄ちゃん、わかってないな。初鰹は特別だよ、ニホン男児の心意気だ! 他じゃこの値段で手に入らないよ!」
「うーん……」
 テンションの上がりきった無茶苦茶な売り口上に、隣に立つ男──ケイスケは真剣そのものの顔つきで腕組みしている。
「けど、鰹はやっぱりちょっと高いなあ。我慢するか……あ、アキラ。そこにある鮭の切り身取って。そうだ、ついでに卵も1パック買っておこう。家の近くで買うよりこっちの方が安いし」
 誰に聞かせるでもなく呟いてから、ケイスケはあれこれと指折り数え始めた。
「あとは……味噌はこの間買ったし、大根もまだ残ってるし、新たまねぎはさっき確保したし……」
「もういいだろ」
 うんざりしてアキラが言うと、ケイスケは不思議そうに首を傾げた。
「なにが?」
「買い物。もうそのくらいにしろよ。帰ろう」
「疲れちゃった? ごめんな、荷物持ちにつきあわせて」
「………………」
 ケイスケを相手にしていると往々にしてあることなのだが、できればもう少し、聞いたことに対して返事をしてくれないだろうかと思う。
 アキラは深々とため息をついた。とにかく、もう帰りたい。別に謝ってくれなくてもいいが、人の波をかき分けるのも、肩がぶつかるのも鬱陶しくて、これ以上はうんざりだ。
 人の話を聞こうともしない男にどう悪態をついたものか、あれこれ考えてみる。だが、そのうちにわざわざ言い刺すのも面倒になってしまって、結局アキラはいつものとおり押し黙った。
 そしてその間も、ケイスケはひっきりなしにしゃべり続けている。
「けど、今週の市はわりと近いから、なるべく買えるものは買っておきたくてさ。今日は工場の自転車も借りられたし、これならちょっとくらい荷物が重くなっても楽に運べるだろ。下っ端にはなかなか順番が回ってこないからなあ。な、貯めたお金でそろそろ自転車買うのってどうかな。最初は一台でいいから──あ! あそこに生しいたけがあるよ、アキラ!」
 そう言って、今度はしいたけに向かって突進していく幼なじみの背中を、アキラは半ば呆れて見送った。

 内戦が終わって、ようやく二年足らず。
 不穏な雰囲気もいくらか和らいではきたが、まだまだ生活物資が十分に行き渡るような状態ではない。商店で手に入る食べ物と言えば、今でも固形の合成食品や乾物が大半で、特に新鮮な野菜や肉、魚はなかなか手に入らない貴重品だった。
 それがここ最近、生鮮食品を商う人々によって小規模ながらも週に一度、市が立つようになった。最初は「少しでも安く、新鮮なものを」と有志によってささやかに始められたのだが、政府の援助もあり、やがて正式な復興支援事業として規模が拡大した。今ではなるべく公平になるよう配慮もなされて、各区画を決められた順番で巡回することになっている。
 市が立つと決められた場所は、歩いていける距離のときもあれば、山一つ越えなければならないときもある。必ずしも行きやすい場所ばかりではなかったが、それでも市の移動について回れば確実に新鮮な食べ物が手に入るのだから、今までを思えばずいぶん画期的なことだった。
「……別に俺はソリドでもいい」
 アキラがうんざりしたように言うと、網の袋いっぱいの生しいたけを手に戻ってきたケイスケが、眉間に軽くしわを寄せた。
「たまにはちゃんと、新鮮な食べ物で栄養を取らなきゃダメだって。ただでさえ、アキラは食が細いんだから」
「細くない。おまえほど食べないだけで」
「大体、俺が何も言わなかったら、アキラは面倒くさがって何日も食べないだろ。ダメ、そういうのは絶対ダメだ」
 どうも何か、余計な使命感に燃えているらしい。下手に口を挟むと終わらない気配がする。
 これ以上は黙っていようと思った矢先、
「それに、さ……」
 ケイスケがふいに耳元へ呟きを落としてきて、アキラは眉をひそめた。
「……なんだよ」
「その……アキラはさ」
 この男がこんなふうにモジモジして声をひそめるときは、大抵ろくでもないことを言うと相場が決まっているのだ。
 だが、聞かずにおくのも気持ちが悪すぎる。
「だから、なんだよ」
 きつく言うと、ケイスケが右左をちらちらと確かめてから、さっきよりもっと小さい声でささやいた。
「アキラ、なんだかんだ言っても俺が作ると食べてくれるだろ。俺、嬉しくて」
 案の定、ろくでもない。
「……残すのがもったいないだけだ」
「でさ、うまいとさ。黙るんだよね」
「気のせいだろ」
 ぶっきらぼうに言い放つと、ケイスケがくすくすと笑った。
「わかったよ、そういうことにしておく。じゃ、そろそろ帰ろうか。そうだ。今日は鮭と、付け合わせにしいたけを焼いて、大根おろしとあえようかな。食べるよね」
「………………」
 余裕さえ浮かぶ笑顔が、なんだかしゃくに障った。当たり前みたいな顔をして自転車を指し示すケイスケに、アキラはふいとそっぽを向く。悪態をつこうにも上機嫌の男を見てしまったら、もう言葉さえ浮かんでこない。
「ほら、俺がこぐから。早く後ろに乗って。アキラ」
「俺は歩いて帰る」
 ケイスケが驚いて首を傾けた。
「今日の市がいくら近いからって、まともに歩いたら三十分歩いても家に着かないよ」
「荷物持ちにわざわざ俺を連れてきたんだろ。俺はこっちを持って歩く。いいから、そっちの荷物を持って先に帰ってろよ」
 そう言い置いて歩き出そうとすると、ふいに右手を掴まれた。
 しかし完全に向き直るより前に、信じられないセリフが斜め上から落っこちてきた。
「アキラ、お願いだからあんまり意地張らないで……可愛いこと言わないでよ。俺、今ここで抱きしめたくなっちゃって困るだろ」
 まなじりを緩ませ、甘ったるくささやく目の前の男を、もう少しで殴るところだった。人混みのど真ん中でなんて会話を始めるんだおまえは、と喉までこみ上げた罵声をすんでの所で飲み込む。自分の自制心を褒めてやりたい。
 だが、いい気分になった幼なじみはそんなことはお構いなしで続けた。
「ね……いいの、しても?」
 いいわけがない。
「……乗ればいいんだろ。乗れば」
 アキラが諦めをため息と共に吐き出すと、ケイスケは目を細めて笑った。
「ホントは意地張ってるアキラも捨てがたいんだけど」
「調子に乗るのもいい加減にして、さっさと走れ。でないと、二目と見られない自転車にしてやるからな」
 低く言い放つと、ケイスケがぎょっとした顔になる。
「ダ、ダメだよ。そんなことしたら俺が怒られるって! やっと順番が回ってきて貸して貰えたのに……」
「それが嫌なら、余計なことを言わずにさっさとこげ」
「はいはーい」
 肩をすくめながら、それでもケイスケは楽しそうだった。
 アキラはため息をついてから、ほんの少しだけ笑った。そうとは気づかれないように、ケイスケには背中を向けて荷台へ座る。
(ケイスケがちゃんと笑ってるのは、……すきだ)
 けれど、そんなことは絶対に言ってやらない。

:::

 夕暮れを背に、自転車が風を切って走る。
 アキラは金属フレームの荷台に背を丸めた姿勢で腰掛けて、小刻みに伝わってくる揺れに身を任せ、流れていく景色を眺めた。
 目の前には小さな家が肩を寄せて並び、その谷間に向かって赤い夕日が落ちていく。
 そこここで漂う、晩ご飯らしきにおい。
 どこにでもありそうな、なんでもない景色。
 そして背中あわせ座る、気のおけない幼なじみ。会話はなくても、ほっとできる居心地のいい空気。
 悪くない、と思う。
「アキラ」
「なんだよ」
「なんかいいよな、この感じ」
 まるで、胸の内を見透かされたようなタイミングだった。少し気恥ずかしくて、アキラは口をつぐんだ。
「ねえ。昔、孤児院にいたころのこと、アキラ覚えてる? 外の広場で遊んだりしただろ。戦争が始まるより、もっと前」
「なんだよ急に……」
 アキラは眉をひそめた。
 昔の話はとにかく曖昧だ。そもそも、どこから覚えていて、どこから忘れているのかもよくわからない。ケイスケもおそらく似たようなものだろうが、あまりその話はしたことがなかった。
 幼い頃を大して覚えていない人間なんて、いくらでもいるだろう。普通に暮らしている分には、さほど意識する必要もない。けれども、改めて鼻先に突きつけられると、自分たちが生体実験に利用され、記憶を操作されたのだという突飛な話が、実感をともなって胸に迫ってくる。
 過去に囚われたくはない。だが、過去は歴然と自分たちの背後に横たわっていて、なかったことにはできない。
 なにより、ケイスケの心身に対する懸念をどうしても捨てきれない。もちろん、自分の血の作用についてもだ。だから、過去の話をするたびに胸ぐらにナイフを突きつけられているような気分になる。
(俺たちでなければ、いけなかったんだ。二人でいられるなら大丈夫……)
 そう言い聞かせることで自分をなだめる以外に、方法はない。
 アキラは肩越しにケイスケを見やる。すると同じタイミングでケイスケがちらりと振り返って、目が合った。
 笑んだ瞳が夕焼けの朱と重なって、ひどく優しい色をしていた。
「広場には、孤児院の子じゃない子もいてさ。だけど日が暮れると、みんな家に帰っちゃうんだ……俺、それがすごく寂しくて」
 そこまで言うと、ケイスケは再び視線を前方に戻す。
「せっかくさっきまで仲良く遊んでたのに、太陽なんてずっと沈まなければいいのにって思ってた。ほら、俺って要領が悪くて、いつも孤児院のみんなからはちょっとはみ出してただろ。だから……帰る家があったらって思ってたんだ。自分だけの家。家族がいるのも羨ましかった」
「俺は……そんなふうに思ったことなかったな」
「アキラは昔からかっこよかったよ。一人でも颯爽としてて」
「そんなんじゃない」
「けど、俺は自分がどうしてもそういうふうになれなくて」
「ケイスケ」
 とがめるように鋭く言うと、少し笑った気配がした。
「ごめん。でもあの頃はホントに自分が嫌でたまらなかったし、アキラに憧れてたんだよ。……でさ、俺、外の子の家までついて行ったことがあるんだ」
「そいつと一緒に?」
 驚いて問い返し、振り返ると、ケイスケは前を向いたままで首を横に振った。
「ううん、こっそり。家の前まで行って……窓から家の中を見てた。夜になると灯りがついて、ご飯の時間になって、家族が楽しそうにしてるんだ……でも、俺の目の前で窓はぴったり閉まってるんだよな。当たり前なんだけど。で、しばらくしたら、家の中からお姉さんみたいな女の子が俺を指さして言ったんだ。お母さん、あそこによその子がいるよ、、、、、、、、って」
 ケイスケが自転車をこぎながら少しだけあおのいて、大きく息を吐き出したのが分かる。
「俺、びっくりして逃げ出した。そうか、俺はよその子なんだ、あの窓の向こうにはいけないんだ、って思ったらすごく悲しくて。適当に走ってたら、今度は道に迷っちゃって、ますます悲しくなって道の隅っこに座り込んで──」
「……あ」
 ふと、記憶の断片が微かに震えた。、
「確か……おまえがなかなか帰ってこなくて、みんなで探したことがあった」
「覚えてた? アキラ」
 ケイスケが、今度ははっきりと笑った。
「そう。あのとき、アキラが俺を見つけてくれたんだ。しゃがみこんでた俺に手を伸ばして、なにしてるんだ、帰ろうって言ってくれた」
 キッと音を立てて、急に自転車が止まった。すぐに軽い震動があって、ロックスタンドが立てられたとわかる。
「? どうした、ケイ──」
 振り向いた勢いをそのままに、そっと髪へ指が差し入れられた。それからすぐに、はっきりと握り込まれる。
 そのまま柔らかく引き寄せられて、唇を、さらわれた。
「……っ」
 体温を味わうように、穏やかな、ゆっくりと触れあうだけのキス。
 ケイスケの唇は、まるで熱を出した子供のように温かかった。
「アキラ……」
 思わず閉じていた瞳を開けると、ケイスケがじっとこちらを見つめていた。
「俺、今は夕方も好きだよ。一人だとちょっと寂しいけど、でも今はアキラと一緒だし、帰る家だってある」
 愛おしそうに片頬へ伸ばされる手のひらもまた、温かだった。
「アキラが俺にくれたんだ。大切な場所も、時間も、思い出も、生きる力も、諦めないって気持ちも、全部。本当に……いつも思うんだ。今ここにいられるのは夢みたいだって。……ありがとう。アキラ」
 そして──ケイスケのあまりの熱っぽさに、どうしていいかわからなくなるのはいつものことだ。
「おまえ……大げさだ」
 やっとのことでそう言うと、ケイスケが唇をとがらせる。
「そんなことないよ」
「ある」
「ないったら」
 強い調子で、ケイスケが食い下がってくる。
 この男は昔から、気が弱そうに見えてその実かなりの頑固者だ。ひと度こうなれば、折れるのはいつだって自分の方と決まっている。
「……わかった。いいからもう、前向いてこげ」
「アキラ! 俺、ウソじゃなくて……ホントにホントにそう思ってて、だから」
「わかったから」
「俺の言うこと、ちゃんと聞いてよ」
「聞いてる」
「すきだよ」
「……聞いてる」
 いつだって、聞いている。もう、何度言われたかもわからない。
 いきなり言われたって、今さら驚かないくらいの数を。
 当たり前だと勘違いしそうで、怖くなるくらいの数を。
「ね、キスしていい? アキラ」
「……これ以上、外で何かしでかしたら殴る」
 むず痒くて思わず逃げ出したくなる自分を必死になだめながら言うと、きょとんと目を丸くしてから、ケイスケが笑った。
「わかった」
 短く言って、勢いよくロックスタンドを蹴り上げると、ケイスケは颯爽と自転車にまたがった。
 途端、前触れもなく自転車が走り出す。
「うわっ! ──おい、待てって! ケイスケ!」
 制止も聞かず、ケイスケは勢いつけて自転車をこぎ出した。
 立ちこぎして、ぐんぐんスピードを上げていく。荷物の重みと自分たちの体重、ペダルを踏みしめる力に、自転車がみしみしと甲高い悲鳴を上げた。
「おい! ケイスケ!! ちょっと待て……バカ! 危ない!」
「大丈夫だって! そんなことより、早く帰らなきゃ!」
 ケイスケがやけに嬉しそうに、声を高く張り上げた。
「大丈夫って、おまえ、わっ!」
 急に車体が傾いで、驚いたアキラは慌てて自分の座っている荷台にしがみつく。
「おい、曲がるときは曲がるって言えよ!」
「ごめんごめん! いま曲がった!」
 遅いんだよ、とアキラは口の中で呟きを漏らした。
 今、細いタイヤ二本に、男二人の重さが背中合わせで危うい均衡を保っている。振り向きたくても、下手に体重をかけると二人まとめて倒れてしまいそうで、肩越しにちらちらと伺うのが精一杯だ。
 ケイスケが力づくでこいで通り抜けた道──ケイスケの視界からはとっくに消えてしまったはずの景色が、するすると勢いつけて遠のいていく。
 そして、ケイスケが見ているこれから走る新しい道は──背中を向けている自分には景色も、距離も、道のりに何があるのかもわからない。
 一体これからどちらに曲がるのか、どれほどのスピードで過ぎていくことになるのか全くわからない。
 できることといったら、振り落とされてしまわないよう、渾身の力をこめて荷台にしがみつくことだけだ。
「なあ、アキラ!」
「なんだよ!」
 顔も見ずに、お互い声をはりあげた。
「俺たち、ずっと一緒にいような!」
「……バカ!」

 それでも確実に、俺たちは家路へと向かう道を、二人でまっすぐに進んでいく。