クロニック・ラブ02

 夕闇が迫る時刻になると、人々の影はにわかに長く、忙しなくなってゆく。
 道行くアキラもまた、無意識に歩調を早めていた。ほのかに赤みを帯びた空の色合いとぽつぽつと灯される明かりの具合は、きれいだけれど少し寂しい気がして、やんわりと背中を押されている気分になる。
 早く家に帰ろう──そんなふうに思うようになったのは、ここ数年のことだ。
 それまでアキラにとって"家"という場所は、雨露をしのぎ、疲れた体を横たえ、眠る場所でしかなかった。孤児院にいたころも、ひとりで小さなアパートに住み始めてからも、それは変わることがなかった。
 ふとしたきっかけから行くことになったトシマでは、安心して眠ることのできる場所がどんなに貴重で大切かを知った。だが、ひとけのない廃墟や人々が不安を背にして集まる病院は、やはり雨露をしのぐ場所でしかなかったのだと、これはあとから思い返してみて気づいたことだ。
(あれ……)
 目指す自分の家が明るいことに気づいて、アキラは思わず足を止めた。
(今日は俺が先だと思ったのに)

 蒼と朱のグラデーションにぽつりと輝くちいさな光を眺めて、アキラはしばらく立ちつくした。
 誰かの待つ、灯りの点った家に帰る──たったそれだけのことが、自分を毎日こそばゆい気分にさせる。決して嫌なことではない。むしろ嬉しいと思うのだけれども、少しだけ緊張する自分がいる。
 あの先にある場所がどれほど暖かいか、待っていてくれる相手がどれほど暖かく迎えてくれるか、よく知っているというのに。
 大きく息を吸い込み、吐き出し、軽くかぶりを振ってから、アキラは再びアパートの階段をゆっくりとした足取りで上り始めた。

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「アキラ、おかえり」
 ドアノブを右にひねり、扉の一つを押し開けると、弾かれたようにして1人の男が自分を振り返った。
「……ただいま」
 こんな他愛のないやり取りも、自分だけに向けられるまぶしい笑顔も、未だに気恥ずかしくて仕方ない。いつまでも慣れず、こんな気持ちになる自分がなんだか少しだけ歯がゆい。
(別に……恥ずかしがることじゃない)
 相手にそれを気取られないよう、そっけないそぶりをするのが精一杯──そんな自分の余裕のなさが、別の新しい羞恥を連れてくる。
「ずいぶん早かったんだな、ケイスケ」
 照れくささをかみ殺して言うと、幼なじみは柔らかく笑んで頷いた。
「うん。ここんとこ残業続きだったし、アキラが半休を取るんだったら二人でたまにはゆっくりすればいいって、工場長が言ってくれたんだ」
 そう言って台所に立つケイスケの向こうでは、コンロに乗った片手鍋がひっきりなしに湯気を上げていた。
 小さなアパートだった。曇ったガラス戸の先にある六畳間にはコタツ机が、机に置かれたザルにはミカンが積んである。左手には小ぶりの窓があり、右手の壁には押し入れ。
 お互いに荷物は少ないから、手狭ではあるけれど、さほど支障はない。資金不足の中で選んだ狭い部屋だったが、少し蓄えができた今も引っ越すほどの必要性を感じずに、かれこれ一年半ほど住み着いている。
「味噌と牛乳、卵……それからアジのひらきでいいんだよな。買ってきた」
「ああ、ありがとう。今、ちょうどみそ汁のダシをとってたとこ。出かける用事があるときに頼んじゃってごめんな。今日、市の立つ日だったから……こんなに早く帰れるってわかってたら、俺が行ったんだけど。重かった?」
 そう言いながら、アキラの手にした袋をひょいと片手でさらう。
 狭い台所に大きな体をかがめて家事をてきぱきこなし、生活感溢れるセリフを次々に繰り出す見慣れた背中──ケイスケの後ろ姿を、アキラは改めて見つめた。
 ざっくりとした栗色の髪、彫りの深い顔立ちをしているくせに、どこか柔和な面持ち。思ったよりどっしりした体格を巻きこむ筋肉は、特別鍛えてもいないのにかかわらず、しなやかにはりつめている。
 幼いころは施設で共に育ち、その後もたくさんの時間を共有してきた。
 自分を飾る必要も、取り繕う必要もない相手──アキラにとってケイスケとは、"煩わしくない他人"という珍しいポジションに長いこと陣取っている、不思議な男だ。
「で、どうだった? 源泉さんと会えたの?」
 考えにふけっていたせいでとっさに言われたことの意味を捕まえ損ね、意味を確認したところでさらに言葉を失った。
「なんで……それ」
 なにしろ、ケイスケには黙って会いに行ったのだ。
 すると、ケイスケがくしゃくしゃになったメモをつまみ上げて見せる。
「これ、ゴミ箱の手前に落ちてたよ。待ち合わせ場所と、それから源泉さんの名前が書いてあるメモ」
「あ……」
 しまった、と舌打ちする。出がけに慌てていたから、ゴミ箱から転がり落ちてしまったらしい。
 だが、そもそも秘密にしておくつもりなら、家のゴミ箱に捨てるなんて意味がないことだった。
(何をやってるんだ、俺……)
 我ながらどうかしている。
「……ごめん」
 ケイスケがきょとんとした顔でまばたいた。
「なんで謝るんだ。俺に内緒にしたから?」
 うまく言葉が見つからず、ゴメンともう一度つぶやくアキラに、ケイスケが体からやんわり息を抜くようにして笑った。
「いいよ。アキラは俺を心配してくれたんだろ? 連絡が本物かどうか、確かめたかったんじゃない?」
 図星を指されて、アキラはただ頷くしかない。最近どうも自分よりケイスケの方が一枚上手で、先回りされては驚いている気がする。
「で、どうだったんだ。会えた?」
 アキラが頷くと、ケイスケはぱっと花が咲いたみたいな笑顔になった。
「へえ、すごいな! で、元気そうだった?」
「相変わらずで──ああ、色が真っ黒になってた」
 あはは、とケイスケが屈託のない表情で破顔する。つられて少しだけ笑んでから、アキラは源泉に言われたことを思いだした。
(「柔らかくなったな」)
 自分ではわからないけれど、もしそれが本当ならきっとケイスケのおかげだろうと思う。
 今のケイスケと会わせたら、源泉はあの調子のいい物言いで、どう評するのだろう。
「そういえば……源泉さんてさ。ひょっとして今フリーライターかなんかやってるんじゃないか?」
「どうして知ってるんだ?」
 驚いて問い返すと、やっぱり、とケイスケが嬉しそうに頷いた。
「この間、工場の食堂で新聞見たら、ライターの名前に"源泉"って書いてあったから、ひょっとして、って思ったんだ。ほら、ちょっと珍しい名前だし。ジャーナリストなんて、いかにも似合いそうだったから」
「そうか……。オッサン、ケイスケによろしくってさ」
 驚いた顔をしてから、ケイスケは静かに笑んだ。
「そっか。覚えててくれたんだ」
「そりゃ、覚えてるだろ」
「だけど俺は、そんなに長く一緒にいたわけじゃなかったし」
「俺だってそれほど一緒にいたわけじゃない。俺たちがトシマに行ってから出るまで、実際は大して長くもなかったしな」
「そう言われれば、そうか……」
 ケイスケが少し、瞳を細めて視線を落とした。
「それならなおさら、覚えていてくれたなんて嬉しいな。しかも、アキラをわざわざ訪ねてくれるなんて。機会があったら俺も会いたいよ。お世話になったし、迷惑もかけたから」
「しばらく日本にいるらしいから会えるだろ。また、じきに連絡……してくると思う」
「そうか。──アキラ、どうかした?」
「何が……」
「いや、なんとなく。今なにか……考え込んでなかった?」
 ほんの少し言いよどんだだけなのに──こういうとき、ケイスケが妙に鋭くてイヤになる。
「なんでもない」
 話を打ち切ろうと、アキラはそっけなくそう言った。だがコタツへ向かって回れ右をしたところに、あのさ、と遠慮がちな声がかかる。
「源泉さん……俺とアキラが一緒にいること……って、知ってたんだ、よね?」
「ああ、知ってた」
「ええと、その……ひょっとして、違ってたら悪いんだけど、あの……俺たちのこと聞かれたりした?」
「俺たちのことって、何を」
 振り返ると、ケイスケが真っ赤な顔をし、おたまを握りしめて立ちつくしていた。
「ええと、だからつまり……い、一緒に暮らしてることとか、どうしてるとか……。あっ、いや、ごめん……その、ヘ、ヘンな意味じゃなくて……」
「ヘンな意味って、どういう意味だ?」
 何を言いたいかはうすうす想像がついたが、わざと聞き返してやる。言えば言うほど、深みにはまっていくのがおかしい。
 昔はひどくおどおどとしていて、いつも自分の後ろをついて回っていたケイスケ。そんな態度に少しいらいらしたものだったけれど──最近は自分の方がケイスケに庇われることも少なくない。特に仕事中などは、何度フォローしてもらったか知れない。
 それが頼もしくもあり、同時に悔しくもある。
 昔は良かった、と言うつもりはないけれど、たまにからかってやるくらい、バチは当たらないだろう。
「……アキラ、わかってて言ってるだろ。意地悪いんだから」
「なんのことかわからないな」
 アキラは内心笑いをかみ殺しながら、意地の悪い思いで肩をすくめてみせる。
「アキラ」
 すると、いつになく真剣な声で小さく名前を呼ばれ、ぎゅっと指を握られた。
「……なんだよ」
「その……俺べつに恥ずかしくないから」
「は?」
「俺は……アキラのことが大好きだから」
 いきなりなんてことを言い出すんだ、バカ──そう怒鳴りそうになって、アキラはぐっと言葉を飲み込んだ。
 声音から、自分が照れくさいことも伝わってしまいそうだったからだ。
(ああ、ウソだな)
 ふと、思った。
 さらけだせないものなんて、まだいくらでもある。
 だから、いつまでも恥ずかしいのは仕方のないことだし、気後れしたり、緊張することだってあるだろう。別におかしいことじゃない。
(そう……だから、大丈夫。きっと)
 そうして言いよどんだセリフも、のど元にわだかまった熱もすべて攫うようにして、ケイスケはアキラに深く口づけた。
「本当だよ、アキラ──大好きだ」