「来ないな……」
呟いて、アキラは小さな溜息を落とした。
待ち合わせは、郊外にぽつんと立っている小さな喫茶店だった。
客はさほど多くないが、静かで落ち着いた雰囲気の店だ。趣味で始めたというオーナーは、本物の豆を仕入れるのが至難の業でね、と笑いながら、ときおり薫りのいいコーヒーを振る舞ってくれる。一息つきたいと思うとなんとはなしに足を向ける、隠れ家みたいな店だった。
だが今日この店を指定したのは自分ではなく、相手の方だった。それだけでも驚いたのに、連絡してきた相手というのが、これまた仰天するに値する人物で、いたずらではないかと疑ったほどだ。
そわそわと落ち着かない様子でテーブルについてからすでに三十分ほど経ち、本当にいたずらだったのかもしれないと思い始めた頃──懐かしい顔が店内へ姿を現し、アキラは思わず勢いつけて立ち上がった。
「オッサン!」
「よお、アキラ」
短いトシマでの時間に出会った男──源泉が陽気に手を挙げた。
「久しぶりだなあ。元気にしてたか?」
「あんたこそ……なんだかずいぶん肌が黒いな」
「あちこち飛び回ってっからな。そういうおまえは相変わらず生っちろいな」
薄暗い時間に起き出してブラスターへ通っていた頃よりは、日中働いている今の方がずっと日に当たっているはずだ。だが、肌が白いのはどうやら体質らしい。おそらく源泉と一緒に飛び回ったところで、自分は同じ色にならないだろう。
「でもま、いい顔してるな。元気そうでなによりだ。安心したぜ」
「あんたこそ」
ライン常用者の騒動、トシマでの内戦──脱出するときは安否など調べようがなかったが、したたかな源泉のことだ。自分などより、よほどうまく立ち回っているだろうとは思っていた。けれども、あらためて無事を確認すればやはりほっとする。
やがて運ばれてきたいれたてのコーヒーを一口すすり、深い息と一緒にうまいな、と呟いてから、源泉は懐かしそうに話し始めた。
「あの内戦、どいつもこいつもテメエのことで手一杯だったからなあ。ま、俺はかえって助かったがな。どさくさに紛れて高飛びできた」
「高飛びって……外国に?」
「おう。聞いて驚け、つい三日前まで海のむこうだぜ。今じゃ世界中を駆けめぐるフリーランスのジャーナリストだ」
「へえ……」
「ってのは、ま、見栄をはりすぎかもしれんがな。おかげさんで、やりてえことやってなんとか食ってるよ。で、こっちへ戻りついでに、おまえらのことがちいと気になったってわけさ」
「そうか。それにしてもよく……」
居場所がわかったな、と言いかけて、アキラは言葉をとぎらせる。
今──おまえら、と言わなかったか。
「ん? なんだ」
「いや、その……」
「俺ぁ、なんかおかしなことを言ったか? おまえ、ケイスケと一緒に暮らしてるんじゃないのか?」
「! なんで知ってるんだ……」
源泉は口端を上げて笑った。
「蛇の道はヘビってね、俺はトシマきっての情報屋だった男だぜ? 舐めてもらっちゃあ困る」
そう言って、人好きのする懐かしい表情で、片目をつむってみせる。
「うまくいってるんだろう? 二人とも同じ工場で働いてるって聞いたが」
「え、……ああ、まあ」
「なんだ。何か心配事があるのか……その、ケイスケは大丈夫か?」
アキラが歯切れの悪い返事をしたせいで、さっと源泉の顔が暗くなる。
源泉はケイスケがラインを使っていたことを知っている。後遺症のことを言っているのだろう。
「ああ、元気にしてる。心配ない」
「そうか」
ほっと息をついたものの、源泉はもう一度首を傾げた。
「ん? なんだなんだ、どうも煮えきらんな。なにか心配事でもあるのか」
「……別に」
「ったく、そういうとこはホントに変わってないな。いいからホラ、悩み事はぜーんぶオイチャンに話してみな?」
おどけているのか本気なのか読めない表情で、源泉は自分の胸を拳でどんと叩いてみせる。あの頃──トシマにいた頃は周りの人間がうさんくさく見えて仕方なく、特にこの男の表情をどこまで信じていいものか真剣に悩まされたものだ。
「オッサンこそ、そういうところは全然変わってないな」
「なあに、子供はオトナを頼りにするもんだ」
「子供って……あれから三年も経ってる」
「五年経とうが十年経とうが、子供は子供だ。つかず離れず、俺もジジイになるからな」
肩をすくめる様子がおかしくて、アキラは思わず苦笑いする。
縁もゆかりもない、と言ってしまえばそれまでなのに、居場所を探してまで会いに来てくれた男の気持ちが今は素直に嬉しい。嬉しいと思える自分が、嬉しかった。それなら、少しは素直になってもいいのかもしれない。よく考えてみたら、こんな話をまともに聞いてくれそうな人間なんて、他にいない気もしてくる。あまり自分の生活に近しくては話しにくいし、そうかと言ってまったくの他人には絶対に言えない。
源泉の期待に満ちた視線から目をそらし、アキラは大きく息をついた。
「……オッサンは……その」
「おう、なんだなんだ。遠慮せずにドーンと来い。ドーンと」
「男とセックスしたことあるか?」
源泉がコーヒーを吹き出した。
「……っ、ゲホゲホゴホッ……!」
「…………」
「い、いやすまん、悪かった。まさかそういう話だとは思わなくて……構えてなかったんでな……」
「……いや、いいけど」
顔を赤くしてむせる源泉の顔をみて、アキラは話を持ちかけたのを少しだけ後悔した。たぶん、自分の顔も少し赤いはずだ。
「で、ケイスケとのセックスがどうしたって?」
今度はアキラがむせる番だった。
「……っ!」
「なんだ、違うのか? おまえまさか、ケイスケと同棲しておいて他にも男がいたなんてことは……」
「ど……オッサン!!」
「ま、ないよなあ。おまえさんに限って、男をとっかえひっかえなんてことは。とすりゃあ、ケイスケ以外にいないじゃねえか」
それはまあそうなのだが、あまりに露骨ないい口に絶句してしまう。ましてや、同棲なんて言い方をしないでほしい。
だからオヤジだって言うんだ、とアキラは胸の内で悪態をつく。
「で? 別に俺は他人の性的嗜好に口出ししたことはねえし、ましてやおまえとケイスケだ。めでたいことじゃねえか」
「めでたいって……」
「あんときトシマでおまえさん、自分がどういうツラしてたか知らんだろう。今にも倒れちまいそうな真っ白いツラしてた。痛々しくてなあ。どうしたもんかと、さすがの俺もしんどかったもんだぜ」
「……ごめん」
アキラがぽつりと言うと、源泉は目を丸くしたあとに優しく笑ってみせた。
「おまえさん、ずいぶんと柔らかくなったな」