キラキラメガネ。

 珍しく一日、休みが取れそうなんだ。
 江住えすみから電話がかかってきたのは、昨日の夕方を過ぎた頃だった。院にあさって顔を出す予定で、仕事を前倒しに進めていたら意外と手早く片付いてしまい、ぽっかり一日空いてしまったらしい。
 俺はひとりで少し退屈していたから「永友の家に行ってもいいかな」という言葉に二つ返事で応じた。
 ──が、駅についたら連絡しろと言ったのに携帯はだんまり。いい加減しびれを切らしたころになってようやく、四つ先の終点駅で駅員に保護されたという連絡があった。しかも、駅員からかかってくる始末。
(そんなことだろうとは思ったんだ……)

 もう電車はとっくに終わっているし、仕方がないからタクシーで迎えに行った。いつものことだけど、寝ぼけ眼で「やあ永友 ながとも 、久しぶりだなあ」と手を振られたときは、脱力してその場にへたりこみそうになった。
 そしておおかたの予想通り、江住は俺の家までたどり着くと、伸べてある布団へいきなり転がってそのまま夢の世界へまっしぐら──シワになるからと慌ててスーツだけは引っぺがし、なんとかパジャマに袖を通すところまでで精一杯だった。
 こんな軟体動物みたいな物体、布団に転がしておくよりほかに、一体どうしろというのだろう。
(いいんだ、別に期待してないし……)
 言葉にすると言い訳がましく聞こえそうだが、仕事帰りの江住になにか期待をするだけ無駄なのを、俺は世界中の誰よりもよく知っている。空いた時間に新たな実験を突っ込んで、病院から電話がかかってくるよりはまだマシな展開だ。贅沢は言わない。
 シーツに散った柔らかな髪の毛や、無造作に放り出された手足、端正な顔と、長めの睫をじっと見つめながらまどろむ。これだって幸せには違いない。
 そう。ようするに、惚れたもん負けってことだ。

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 翌朝、せっかくの休みは今にも泣き出しそうな曇天だった。
 つきあってダラダラ二度寝したものの、一向に目が覚めない江住を寝床に残して、俺は飯の支度を始めた。どうせ毎日ろくなものを食べていないのだから、たまには健康的な食生活をすべきだ。ついでに、いくら眠いからって午前中には起きるべきだ。
「江住、起きろよ」
 何度か揺さぶると、うわごとのように永友、と俺の名前を呼んだ。
「飯、冷めるぞ」
 江住が実は大食漢だってことは、意外に知られていない事実だ。
 それどころか、いつ飯を食ってるんだろうとみんな不思議に思っているらしい。あいつのことだからきっと霞を食って生きているんだ、なんて、二見は未だに真剣な顔をして言う。まともな生活をしていない証拠だ。生活時間帯が他人と全然合わないから、そんなことを言われるのだ。
 そんな噂をよそに、本人は今日もポーチドエッグやベーコンの乗った厚切りトーストとアボガドサラダのプレート、コンソメスープ、グレープフルーツ半きれをぺろりと平らげて、まだ目が覚めきらない顔つきをしている。
「まだ食うか? サラダ少し残ってるけど」
「……やめとく」
 もういい、じゃない辺りが、胃袋の頑丈さとでかさを証明している。
 おぼつかない手つきで食器を運ぼうとするのを止め、俺は台所を片付けてから、目覚まし用のコーヒーを片手にコタツ机へ戻った。
 江住が、いつの間にか難しい顔をして本を読んでいた。
(あ、起きたな)
 目を見るとすぐにわかる。
「何を読んでるんだ?」
 聞いても答えない。のぞき込んでみたら、手に持っているのは推理小説だった。一昨日、研究室で鉢合わせた近藤がたまたま持っていて貸してくれたやつだ。俺はまだ開いてもいない。
 あんまり熱心に読んでいるから、コーヒーここにおくぞ、と一声かけて、俺は向かいに腰を下ろした。
 徹夜続きだったんだろうに、顔色がよくて少しほっとする。色白な肌に、ほんのりと赤みのさした頬は相変わらずきれいで、同性ながらほれぼれするようないい男だ。アーモンド型の少しつった瞳と、メタルフレームのメガネがまた、よく似合っている。
「……ってさ」
 思わず見いっていると、江住が出し抜けに口をきいた。出だしを聞き損ねた。
「うん? なに」
「宇宙ってさ……膨張してるんだよね」
「………………」
 一体その推理小説にはなにが書いてあるんだ、江住。
「もしも宇宙が有限なら、ある時点で膨張が収縮に転じるはずなんだ。そうしたらビッグクランチが起こって、宇宙は100億年くらいで潰れてしまう……逆に宇宙が無限なら、宇宙は永遠に膨張を続ける。永遠に広がり続けて、最終的に物質の密度はどんどん小さくなって、やがて生命が存在できないほど希薄になって、滅んでしまうしかないんだよね……」
 うーん、と江住が唸った。
 100億年も経ったら、人類はおろか地球があるのかどうかもわからないわけだけが、どうやらかなり真剣に悩んでいるらしい。
「だけど、もし宇宙が無限に広がっているとすると……無限の空には無限の星があって、空のどの方向を見たとしても、その視線はどこかの星の表面につき当たるはずだろう? 星は遠くにあるほど天球上で小さく見えるけれど、有限の面積を持っているからね、星の明るさは距離とともに減少しても、単位面積あたりの明るさ……すなわち面輝度は距離に関係なく一定だ。──でね、オルーバスって人が考えたパラドックスがあるんだけど」
 江住は手元の推理小説をぱらぱらと玩んだ。もちろん、本なんか全然見てはいない。
「星の光は距離の二乗に反比例して弱くなっていくけど、地球からある一定距離だけ離れた星の数は、距離の二乗に比例して増えていくだろう? この考え方でいくと、もし宇宙が無限だとしたら、あらゆる距離の星の光がどんどん加算されて、宇宙は夜でも昼間みたいに明るくなっちゃうってことになるんだ」
 俺がコーヒーを入れている間に、こいつの思考は宇宙へ旅立ってしまったらしかった。
「それは……落ち着かないな」
 思ったことを正直に言ってみる。
 すると、江住が瞬きしてから神妙な顔で頷いた。
「うん」
 困るなあと小さく呟いて、江住は手にした推理小説を閉じてテーブルに置き、メガネのブリッジを押し上げた。
「そういえば……江住は、どうしてメガネなんだ?」
 ふとした俺の疑問に、江住はぱちりと音がしそうなほど瞬いた。
「メガネはダメかな」
「いや……いいんじゃないか?」
「俺、中学の頃にはもうメガネだったんだよね。だからそのまま」
 そう言ってまた、ブリッジを押し上げる。なにげない仕草だけど、それがまた、江住をいっそう知的に見せる手助けをしていた。
 要は、似合ってるってことなのだけど。
「そういえば、俺も中学の終わりくらいだったかなあ。高校受験の手前あたりから、がっくり視力が落ちて……」
「永友、ひょっとしてコンタクトレンズ?」
「そうだよ。俺は最初からコンタクト。……なに」
 江住がじっとこちらをのぞき込んだ。いや、たぶん正確には俺の眼球を、だ。
「な、なんだよ」
「永友はメガネが嫌い?」
「……嫌いだなんて言ってないよ」
「案外いいもんだよ、メガネ」
 なんなんだ、おまえは。メガネ屋の回し者か。
「俺は似合わないからいいんだよ」
「そうかなあ……」
「どれを選んでいいかわからないし」
「じゃあ今度、俺と一緒にメガネを買いに行こうよ」
「……江住、聞いていいか」
「なに」
「コンタクト嫌い?」
「きらい」
 即答だ。
「……なんで」
「あんなもの目に突っ込むなんてできないよ」
「なに言ってるんだか」
 宇宙を語るのと同じ顔をして言うから、思わず吹き出してしまった。
「あ、笑ったな。永友こそ、メガネのなにが不満なんだ。メガネは落としたって見つかるし、踏んだってフレームが曲がる程度ですむんだよ」
 たしかに江住がコンタクトにしたら、毎日落としたり割ったりなくしたりしているだろう。それどころか、つけたのか外したのかも忘れて、目の裏側まで回ってしまいそうだ。
「わかったわかった、江住はメガネでいいよ」
「適当に答えてるだろ、永友」
「そんなことないよ。似合ってるから、俺はすきだな。たかしのメガネしてるところ」
 水へ赤いインクをさしたみたいに、いきなり江住の頬が染まった。
「……ながともは、ひょっとしてわざとそういうことを言ってる?」
「わざとってなにが? ああ、だけどたまに外したトコを見るのもすきだな。いつもと違う顔をするから」
 上目づかいに恨みがましく睨まれたって、可愛いだけだ。……なんて言ったら、そろそろ怒られるだろうか。
「最近、永友はなんだか意地が悪いな」
「うーん、まあそうかも。なあ、そろそろメガネを取ってもいい?」
 俺はそっと江住のメガネを引き抜く。
 レンズの奥、理屈っぽくて天才肌なヴェールの向こう側に、案外照れ屋な江住の顔がある。
 いいじゃないか、これくらい。
 今日は休みの日なんだから、今くらい。
 俺だけの江住でいてよ。
 すると、江住が急に、あ、と声を上げた。
「そうだ、雨の夜に外へ出るのがいいんだよ。新宿とか渋谷とか、できるだけ賑やかなところに」
「?」
「メガネに水滴が当たってね。たくさんの色がキラキラ反射するから、すごくキレイなんだ」
 江住がなんともまばゆい笑みを浮かべて、俺に触れるだけの口づけをした。
 まつげの長い瞳がゆっくりと閉じてゆくのを、間近に見守った。
 どちらからともなく握り込まれた指先よりも、唇はずっと熱くて、心地よかった。
「ああ、そうか」ほろりと、吐息のあいまに江住が囁く。「それならやっぱり、宇宙は有限の方がいいね」

【蛇足】
てのひらでキス2006年1月、1冊にまとめていただきました。
本編は漫画ですが、興味がおありでしたらお手にとってみてください。永友と江住は書きやすくって、単行本の書き下ろしにもかゆい漫画が入ってます……。担当さんにまで「かゆっ! ってカンジですね!」と言われたのが忘れられません……。
当時、勤め先が某独立行政法人の研究所だったのですが、江住にはそのとき見聞きした変人研究者とか、ステキメガネ研究者とかがあちこち境目なくブレンドされています。
そして、よく誤解されることですが、メガネ男を書いているときはたいてい「メガネは書かなくていいの」と相棒につつかれて書いています。ストレートに自分の好きなものを反映するのはどうも気恥ずかしくて、自発的には書けないという……。
結果的には、振り回されているのに最後の最後でふてぶてしい攻めと、変人天然受けという、わりとストレートに好きな方向でまとまった気がします。